「卓球は血と魂だ」 第一章 二 家業と卓球活動

第一章    わが卓球の創造 -選手、役員時代-

二 家業と卓球活動 -今選手のことなど-


 昭和十三年三月、私は柳井商業を卒業した。大学へ行き、卓球の上達を目指したかったけれど、「菓子屋のあとつぎに大学の必要はない」と、父は家業を厳命した。仕方なく私は朝早くから菓子製造工場に入り、午後三時以降は許しを得て母校の練習場へ通ったり、当時熱心だった柳井女子商のコーチをやったり、やがて高水中学など県内各地のコーチもやるようになった。

 同時に、柳井卓球協会の組織強化に乗り出し、医師の吉村和人先生を会長に、町内の名士二十人を顧問とし、資金面を充実させ、会報“柳井の卓球”を発行した。

 西日本卓球選手権大会という名称で、大会の強化に乗り出したのもこの年であり、日本卓球協会に願い出て、日本卓球協会柳井支部をつくった。当時は全国的に府県単位の卓球協会ではなく、都市単位だった。従って卓球の盛んな府県には二つ以上の支部が存在したりしたが、ある県には支部がなかった。当時広島県には広島支部と呉支部があり、山口県には山口支部と下関支部があった。柳井支部が出来たのは全国第五十二番目だった。

 昭和十五年と十六年は西日本大会は各二回開催した。一回は個人の大会、一回は団体戦だった。この頃から大阪、神戸、岡山から九州各地まで、参加が広がっていった。その一例として、大阪卓研チームの話を添えておこう。

 昭和十五年一月七日開催の西日本団体卓球選手権大会は参加二十六チーム、優勝戦は大阪卓研と全柳井の間で争われ、私と増本君が勝ったものの、木谷、真島、安福、吉田の大阪チームが優勝した。この大阪軍の中心人物は真島利夫さんで、七十三才の現在なおご壮健で、大阪近県の指導面で活躍されている。少年時代の事故で片腕を失ったあとも卓球選手生活をつづけ、常に大阪代表で全日本でも活躍された人。最近ご本人から聞いたことだが、柳井遠征はまったく自己負担だった。

 一月七日の柳井の大会の前後、五泊六日の旅行計画を立て、まず岡山、呉、広島で対抗戦をやって柳井の大会に臨み、終了後は出雲、鳥取、福知山を廻って、卓球行脚の一週間を過した。当時の旅費が一人二十五円だった。汽車賃は片道五円十銭、回遊キップで十円十銭。この時の真島さんの日給が九十八銭であったそうで、二十五円は大金だった。その大金を一人一人の貯金をはたいての貴重な遠征であったわけで、今の選手たちに少しは学んで頂きたい、と思う。
 さて、私自身のことになるが、家業が忙しい時は試合に出させてもらえなかった。昭和十四年秋の全日本大会がそうだった。父や叔父とケンカ状態になったこともあったが、「卓球でメシが食えると思うか」で終りだった。

 昭和十三年以降の私は、カット主戦オールラウンド選手になっていた。それは昭和十二年の全日本選手権大会で、今孝(こんたかし)選手の華麗なプレーを見学してからだった。今選手(早大)は、昭和十一年、十二年とも学生選手権では勝ちながら(今選手は全日本学生五連覇)も、全日本決勝で渡辺重五選手(関学大)に敗れて第二位、十三、十四年は単複とも連続して全日本チャンピオンになった。

 私はその今選手をどうしても柳井へ招聘したかった。後輩たちや町の卓球ファンに今選手の美しいプレーを見せ、卓球がいかに素晴らしいスポーツであるかを宣伝したかった。今さんに熱烈な手紙を書きつづけ、遂に昭和十五年四月、時のNO.1今孝選手とNO.2頼天頣(らいてんい)選手(立教大)が台湾遠征した帰途を柳井に迎えることに成功した。今、頼両選手と、私と後輩の増本定治君らで模範試合もやり、沢山の卓球ファンを喜ばせることが出来たのである。
 そのあと今選手との文通がつづき、昭和二十一年十一月十一日、今選手が不慮の病にたおれ、急逝されるまで私との親交がつづいたのである。

 私は今選手のプレーに魅せられ、またその高邁な人格に心酔し、カット主戦オールラウンドプレーを追求した。私の熱心な質問は毎月何回か出され、忙しい今さんもよく返事を書き、教えて下さった。その手紙は後の章で紹介させて頂くが、卓球の技術には攻撃型と守備型があり、中間型もある。その中でも、いろいろの打法や個性があり、作戦の組合せがあり、やがてその人ごとのオールラウンドプレーとなって花を咲かせてゆくものだ。

 私は今選手のプレーにあこがれ、何とかあの美しい守備と堅実な攻撃力を身につけたかった。それは遂に不可能だった。一つの原因は身長一八〇センチに近い今選手と、一六〇センチに足らぬ私の体格のちがいからくるものであり、また今さん独特のグリップ(握り方)は遂に私になじまないものであった。

 そのため、結果としては数年間のスランプになやんだ。そして戦争に入ってしまった。三年間の空白のあと、再び卓球生活に入った時、私はごく自然に私自身のグリップを会得していた。そしてその後は私自身の独創的な卓球のプレーをあみ出していったのである。

B!