「卓球は血と魂だ」 特別記録 名手今孝 義父の言葉(山本 弥一郎)

義父の言葉

 山本 弥一郎
 (山本弥一郎氏)日本卓球協会名誉副会長。全国ベテラン会会長。一九六五年世界選手権大会日本代表団長はじめ、たびたび世界大会団長をつとめたほか、日本卓球界永年の功労者。大正年間より卓球タイムス、テーブルテニスタイムズ等月刊誌主宰

 今孝は僕が卓球の人であることを知っていたし、僕も今孝についての知識を持っていた。
 其の頃早稲田の今は、卓球界の今というよりも、日本スポーツ界の今として知られる存在であったから、総ての卓球人はその名声にあやかり誇りも高かった。
 今孝の容貌は厳しく堂々たるその風格は、サバドス選手を圧しており快勝の一戦は燦然と輝やいていた。しかもこの試合の結果は日本の卓球を世界的に高からしめたので、今、サバドスの試合こそ世紀の一戦といっても、過言ではなかった。
 日洪東京大会でシングルスに勝ったけれど、サバドス・ケレンのダブルスに破れたので、大阪大会に出場のため大阪駅に下車したとき、出迎えた僕に、今孝は挨拶のあと、ダブルスに勝ちたいので、今、渡辺のペアを組ませてもらいたい、必らず勝ちますからと云ったのが、僕との初めての会話であった。
 試合の結果は約束通りとなったが、其後、早大OBの目黒文雄君が大阪卓球協会の理事長の時、諏訪森に来ていて、話のなかば山本さん養子を貰らいませんかと突然の話しに、相手はと聞くと今孝ですよとのことであった。
 僕はいまを時めく、今孝ではお話しにならないといったところ、目黒君の曰くに、今は僕の云うことは聞いてくれますよ、待ってて下さいとのことであった。
 それから一週間もたった頃、目黒君がやって来て、山本さん、今孝が行くといっていますがどうされますかとのこと、僕は本当にビックリした、男の僕に来るのではあるまいに…
 こうしたことから義父ということになったわけであったが、義父という名に相応しいことは充分出来なかったのではあるまいかと思うといささか恥ずかしい気持ちがする。それから伝えねばならないことは、病床に伏しながらも、自著の「卓球の基本書」の推稿にペンを取っていたこと、そして、こんな病気が癒らぬ筈はないと叫んでいたこと、敗戦後の悪条件のもと医薬の貧困を思う時、敗戦というミジメさを痛い程、味わったものであった。
 しかし、彼が病床にあったとき、僕の前の家に進駐軍の連隊長カシン少佐が住まわれていて、或る日、カシン少佐のご夫人フロレンスさんから、あなたの家に病人がおられるのですかと尋ねられたのを機に隊長のご配慮をうけることになったが目下アメリカの医者は日本人を診察することは出来ないが薬を差上げましょうと、隊長自からジープで信太山連隊に行かれ敗戦当時としては思いかけない人間味に触れて感激したのであった。そのカシン少佐は其後アメリカに帰国され、大佐に進級されたあと惜しくもなくなられているがご冥福を祈らずにはいられない。
 さて孝の死後、日本卓球協会では、今孝の追悼大会として、山本杯争奪日本選抜卓球大会を二回開催されているが、卓球界ではあくまで「今孝杯」でなければならないと僕は信じているので、山本杯を中止して貰った。そして、日本学生卓球選手権大会の男女単複に、今孝杯を贈って、毎年そのレプリカも贈っているのがせめてもの心やすめとしている。又野村堯之著の今孝物語はNHKで三日間に亘って放送もされたが、その物語は増刷して分配もしているし、その後竹原茂雄著の「今孝」は、そのひととなりを余するところなく書き綴られていて球界で大変好評であったことを付け加えておきたい。
 今孝はよわい29才で他界して惜まれたが山本家に入って漸やく一年たらず一子をもうけたが彼は亡霊となって、峯子という児を連れていっている。
 今、考えて見ると養父として足らざることが多かったのではあるまいかと思いながらも、球史の一頁に今孝の名が綴られていることがせめてものなぐさめであると窃かに思っているのである。

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