「卓球は血と魂だ」 特別記録 名手今孝 私にとっての先輩今孝(竹原茂雄)

私にとっての先輩今孝

 竹原 茂雄
 (竹原茂雄氏)日本卓球協会理事。令兄竹原英太郎氏と共に徳島県卓球界育ての親。
日本卓球界の権威の一人。徳島県内の高等学校長を歴任され、五十八年退官。


 球聖と申してよい今孝と私のはじめての出合いは、昭和十三年七月二十一日でした。四国遠征中の早稲田大学が徳島を訪れ、地元と交歓試合をした時です。旧制中学の四年生だった私は、この試合ただ一人の観客で今さんの試合に唖然として見惚れていました。ネットぎわへの小さなサーブ、そしてバックハンド。卓球とはこんなにも美しいものかと卓球に魅せられてしまいました。そこにひとつの芸術を発見したと思ったのです。
 昭和十五年四月、私は早稲田大学第二高等学院に進学して幸なことに、今さんと一年間卓球を一緒にすることができました。一緒にするといっても、今さんの相手などできるわけはなく、卓球場へ今さんが姿を見せただけで、私の腕はこわばってボールコントロールは全く駄目になってしまうほど、今孝は偉大な存在でした。「竹原は大分うまくなったなあ」と後の方でいわれたのを聞いたと同時に、カットが全く入らなくなった経験もありました。
 昭和十五年度全日本硬式卓球選手権大会で、誰もが今さんの三連覇を疑わなかったのに、三回戦で藤井則和選手に敗れた。今さんが負けそうだという話を聞いた時もまさかと思いながら恐しくて試合を見ることができなかった。試合場から離れた廊下のベンチで横になっている今さんの汗をふき、足をもんだ時が私が今孝を最も身近に感じた短い時間だった。誰もいない廊下で私ひとりが今さんの汗をふき、足をもんだ記憶は、はじめて今孝を見た時と同じ強烈な印象で今も鮮明に残っている。今さんは卒業して行かれる時「竹原だけはやめさせるなよ。」といわれたということを須山先輩から聞いたが、既に私の退部の意志は決定していた。私が今さんのそのことばを知っていたら、恐らく退部しようという気持は起らなかったに違いない。
 私が戦後卓球の世界に復帰した時、今さんは既に病床にあってお目にかかれぬまま、今さんは亡くなられた。
 昭和三十九年十一月、株式会社タマス社長田舛彦介氏と当時の卓球レポート編集長の藤井基男氏から今さんについて、レポートに連載するようにという要請がありました。私の今孝像というのは極めて限られており、今さんのことを書くなどとはとんでもないことと再三おことわりをしました。しかし、お二人の情熱とねばりに圧倒されて、泣く泣く不適任を知りながら書くことを承知しました。それから苦難の道がはじまり、四回連載が十二回、つまり一年という長期間のものになってしまいました。記録の調査、不明なところを三上登大先輩にお手紙して教えていただき、原稿を全面的に書き直したこともありました。山本弥一郎さんのお宅へ泊りこんで調べさせてもらったこともありました。調べれば調べるほど今さんの偉大さが浮んで来ました。サバドス、ケレンに勝ったこと、ホルツリヒター、アンダーソンをよせつけなかったことなど、当時今さんが世界選手権大会に出場していたら、世界制覇を成しとげたことを私は今も確信しています。そして恐らくそれは私ひとりではなく、今さんの卓球を知っている人は殆んどすべてそうだと思います。
「今さんの手帖から」という章がありますが、関学との定期戦で崔選手と対戦した時、一度ベンチに帰って来て手帖を見て、トスに勝ったのをすぐそばで見たことがありました。その手帖に崔選手のジャンケンの癖を記録していたのだと私は思っています。是非確認をしていただきたいと思います。手帖の内容を書かれたのを見てもあって当然という気がします。私が書いた今さん、後に山本弥一郎さんが小冊子『今孝』として出版してくださったのですが、その後半に私の作成したノートの大半の資料をつけましたが、さらに新しい資料がこうして田舛氏の手によって公表されることは大変嬉しいことであり、意義のあることです。今さんのことを書くとすれば、最適任のおひとりは田舛氏と以前から考えていた私にとって、この本は待望久しきものの実現と思っています。
 今さんがお元気で卓球界に復帰されていたら、日本の卓球史はかなり違ったものになったと考えます。もちろん選手としての今さんを描いているのではなく、指導者としてまた卓球協会の中枢としての役割を考えるからです。あれだけ研究熱心で、あれだけ緻密でしかも企画性に富む暖い人柄であられたことを知っているだけに、今さんの亡くなられたことが取り返しようのない大きなものに思われてなりません。少くとも私にとってそれだけ今孝は偉大な存在であったということです。

 

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