「卓球は血と魂だ」 あとがき 感謝をこめて

あとがき

感謝をこめて

 私が卓球を始めて、五十一年をこえた今日、その長い道のりの中で体験したことをまとめておくべきだ、と人に云われ、また私自身も、良かれ悪かれ事実を残しておくのがよい、と思いはじめてきました。
 あの第二次世界大戦で、いったん卓球と訣別した私が幸運にも生き残れました。そして戦後数ヵ月、自分で創業したスポーツ店、それが発展して卓球用具メーカーの事業が、小さいながら実を結び、企業の利益の社会還元という私の理念に従い、こんどは十二億円もかけて卓球道場建設を果すことができました。
 このような独創的な企業経営の道が評価され、この数年、経済雑誌等で注目されたり取材されたりしてきましたが、その中には正確さを欠いたものもあり、やはり私自身でまとめておくことが必要、とも考えるようになりました。
 山口縣柳井町という山口縣の東南に位置する、当時人口二万人の田舎の商都で生まれ、商店街の空地におかれたオンボロのピンポン台で卓球に出会って、五十年が過ぎた、というわけであります。そこで近所のオッサン連中にまじって、小さい私が球を打ちはじめたのが、小学五年の終り、十一才の時でした。
 私自身は、かえりみて幸運な道を歩いてこれた、と思っています。だが、それにしても波瀾がないわけではありませんでした。昭和十三年春、柳井商業学校を卒業して、進学は許されず、家業の菓子製造業「天狗堂」の長男として、家業のあとつぎの道に入りましたが、卓球は捨てきれず、時間も金も卓球につぎ込む数年を過しました。
 昭和十六年暮、太平洋戦争という大変なことになり、家業も転廃業となり、私は奈良市にできた国民勤労訓練所指導員として一年七ヵ月、郷里の山口縣健民修錬所指導員に招かれて五ヵ月のあと、召集令状を受けて軍隊(広島市内の暗号教育係)で一年七ヵ月を過して終戦となりました。
 これらの職場のすべてで、私は下級職員の立場にありながら、かなり大きな提案を出し、それぞれ上司に取入れてもらい、その仕事と取組んできました。私は、いま考えてみても満足できる仕事をやってきたことを、ひそかに誇りに思っております。
 そして戦後三十八年を経た今日、ここまでの過去をふりかえって、私の気持を表わすとすれば、世の中に対する感謝しかありません。誰が何と云われようとも、人生六十年余、よい仕事をやらせつづけて頂けた裏には、実に多くの方々のご理解ご指導、そして温かいご支援があった、からであります。
 まず日本卓球界、中央、地方の役員各位、先生方、そして選手の皆さんへの感謝が第一であります。会社(事業)生存の現実面では、スポーツ業界で私たち株式会社タマスを支持支援して下さった代理店各位、全国の特約店各位、仕入先、協力会社、そして取引銀行各位の三十八年にわたる御厚情と御支援に対しては、どれだけ感謝しても足りない、と思っております。
 その次には会社内の社員諸君に対しての感謝であります。第一次石油ショックで、経営の苦しみを味わった結果、現在はまさに筋肉質の会社づくりへの発展途上にあります。そして最後に感謝しなければならないのは妻の労苦と、今は亡き父の指導でありました。
 もちろん私は計画的に今日を期したわけではありません。ただひたすらに私の道を模索し、亀の歩みのように進んできただけであります。もし私によいところがあるとすれば、目の前にある仕事の改善を考え、じっくり時間をかけて取組むことが好きなだけであります。
 私にできそうな仕事、それがこの仕事であったわけでありますが、それが今や有能で情熱的な若い人達に受けつがれつつあります。私の宗教は、スポーツ卓球であります。「与えられた環境の中でベストをつくせ」というスポーツマンの教訓を、このさきも、どこまでも守って生きたいと念じております。
 企業にも人生があると思います。企業も自惚れた時、落日の運命をたどる、というのが私の観方であります。私達のつくった企業が、今後どうなっていくか、もそこにカギがあります。これから先の社員諸君が、神に感謝する心と、大衆に奉仕する精神を持ちつづけることが出来るかどうか。
 この小さい井戸を、より深く掘りつづけていってほしい、と念願しながら。

B!