「作戦あれこれ」第46回 ストップが多くなり苦戦した古川戦

 '73年全日本選手権。準々決勝で左腕の阿部勝幸選手(東京・協和発酵)を"バックに寄せてからのフォア攻め"で破った私は、ベスト4に進出した。全日本ベスト4入りの連続記録を"9"と伸ばすことができ、ベンチに帰ってその喜びをかみしめた。
 体育館の床の上を歩きながら、準々決勝が終わったのにまだ体力に余裕があるのを感じ「ヨーシ!ここまできたら絶対に優勝だ!」と、大会に入ってから初めて優勝を意識した。からだの奥からカーッと闘志が沸くのがはっきりとわかった。
 私の準決勝の相手は、同年の古川敏明選手(日大→荻村商事)だ。そしてもう一方は河野満選手(東京・アストールクラブ、現在は青森商高教員)対井上哲夫選手(東京・シチズン時計、現在は井上スポーツ)であった。準決勝進出の4人は全員社会人で、私が学生の時には考えられなかったこと。日本卓球界の明日を考えて胸中寂しい思いだった。
 とは言っても、私も「長谷川の卓球はもう終わりだ」とみんなに言われだしており、それをくつがえすには「勝つしかない!」と、胸の中の甘い思いを振り払った。そのために、古川選手は私の苦手の拾いまくるタイプのカットマンではなく変化カットと反撃を中心とする相性のいいタイプではあったが、絶対に気をゆるめてはいけないと自戒し作戦も慎重にたてた。
 作戦をたてるうえで、まず古川選手がどのようにくるかを考えてみた。「古川選手は、私にまともにドライブをかけられると不利になる。そこで①カットに切ったり、切らなかったりの変化をつけてドライブを返球し、ストップやつなぎのドライブを積極的にスマッシュで狙ってくる。②サービスを持つと、変化サービスからの3球目スマッシュや、3球目ドライブ攻撃からの5球目スマッシュで狙う。③私のサービスに対しては、長いサービスはドライブで先手をとり、ショートサービスは短いツッツキでレシーブし山なりのドライブをかけさせてショートでゆさぶったりチャンスボールはスマッシュしたりする。そして私に強く打たれた場合は変化カットに戻る。つまりプレイ全体としては変化攻撃でくる」と考えた。
 私は次に「このような変化攻撃に対して、高いストップで返したり甘いコースへ威力のないドライブでつないだときは危ない。相手のドライブやショートでのゆさぶり攻撃に対して、短気を起こしてフォームを崩して打ったときは危ない。手打ちになったときも危ない。動きが止まっても危ない」と、まずとってはいけない危険な戦法を考えた。
 そして次のような作戦を立てた。
 ・一球一球コースを考えて攻める
 ・このときに、相手がコートの近くにいるときは深いコースをつく。コートから離れているときは、ネットの近くに落ちる浅目のドライブで攻める。またドライブのスピードと回転に変化をつけながら攻める
 ・古川選手が両サイドにヤマをはったときは、からだの真ん中めがけて打つ。ミドルを警戒したときは、両サイドのどちらかへ打つ
 ・あまりストップを使わず、前後に攻める
 それと相手が反撃してきた場合は次の作戦を立てた。
 ・古川選手がドライブで攻めてきた場合は、彼の苦手のコースであるフォアへ返し、次の反撃を中陣にさがってまって両ハンドでゆさぶり反撃ミスを誘う
 ・後陣に追い込まれた場合、相手のコートに入ってから鋭く伸びるドライブぎみのロビングで粘り強くしのぎ、反撃ミスを誘う
 ・ロビングをストップしてきた場合、前後にしっかり動きしかもボールに変化をつけて返す
 また、カットマンとの対戦での基本である―
 ・一球一球、腰をしっかり入れて打つ
 ・できるかぎり早く動く
 ・自信を持って打つ
 ・ドライブ強打やスマッシュを打ち込むときは、しっかり踏み込んで打つ
 ・変化をしっかり見る
などのことを特に気をつけるようにチェックした。シャドープレイの時も、これらのことに注意しながらやり万全な態勢で臨めるように努めた。

 反撃を粘り強くしのぎ2ゲーム先行

 試合開始。サービスは私からだった。私はひょっとしたら彼がレシーブから攻撃してくるのではないかなと思ったので、レシーブの構えをよく見てすばやい動作でバックハンドのドライブ性とカット性のロングサービスに、鋭く変化をつけたショートサービスを混ぜて出した。
 彼は、コート中央で攻守両面できるレシーブの構えから切ったカットでレシーブしてきた。このレシーブはほとんどコートから1バウンドで出てきたので先にドライブで攻めてカットに追い込んだ。この時、少しでも優勢なラリーに持ち込めるようにコートの近くで高い打点(バウンドの頂点より1~2㎝さがった所)をとらえ、腰をしっかり使ったドライブでまずバック側を攻めた。すると彼は2歩、3歩さがって再びバックカットでしのいで完全に守りの態勢を取った。私はその動きをみて「ドライブ攻撃のチャンスだ」と思い4本から5本バックを攻め、バックへ離したのちフォアを攻めた。この左右へのドライブ攻撃に機をみてミドル攻撃もまぜた。もちろんこの狙いは、威力のあるドライブでゆさぶることによって相手の態勢を崩し、スマッシュの打ちやすい高いボールを返させることであった。
 腰を入れられないよいカットがきたときは、無理せず低いツッツキで相手をできるだけ大きく動かすようにして返し、そのあとすぐドライブに戻った。このとき不必要なストップはさけ6本、7本と変化をつけたドライブで攻めた。すると古川選手のカットが浮いてきた。そのボールはのがさずミドルへ思い切ったスマッシュを浴びせた。
 この序盤戦の確実に攻める戦法は、相手の出方を見るためのさぐりあいでもあった。したがって無理だと思うカットをスマッシュしたり、無理な3球目ドライブ攻撃をしたり、レシーブ攻撃をしたり、スマッシュを拾われるとムキになって何本もスマッシュするなどの愚は絶対にしなかった。
 レシーブの番がきた。古川選手はバックハンドの変化サービスでスタートしてきた。そこで、横回転はやや強めに払ったり、下回転は切ったツッツキでレシーブしたりして3球目スマッシュをさけた。すると彼は変化カットにドライブやショートを混ぜて攻めてきたが、私がドライブやショートを前陣で2、3本しのぐと再びカットにもどった。私はサービスを持ったときと同じように「チャンス」と思いドライブ攻撃でカットに押し勝ち、常に4、5本のリードを保ちながら試合を進めた。そして、サービス、レシーブが2回りしたときには12対8とリードを奪っていた。ここまではいつものペースであった。
 ところが、ここから彼が作戦変更をしてきた。試合内容がガラリと変わった。彼はカットで粘るのをやめて、カットの変化をさらに激しくし私のバッククロスへの粘る山なりのドライブを狙って反撃してきた。そこで私は打つ直前まで相手の動きを見ていて、古川選手が反撃しようとしたとき強い回転のかかった強ドライブを送った。回転に負けて彼のボールがオーバーミスをした。私はボールを拾いにいく途中「彼は変化カットで粘る戦法ではドライブに押されて勝ち目がない。ドライブやストップレシーブを狙っていかなければ勝てないなと考えて作戦の転換をしてきたのだな」と彼の今後の作戦を読んだ。そしてすぐに「彼の反撃コースは、私がドライブによるカット打ちをしているときはミドルにスマッシュしてくることが多いし、ロビングで返した場合はスマッシュ後にストップを使いコートに寄せてからミドルに再びスマッシュしてくることが多い。だから打球後のもどりを早くしてそれに備える。しっかり動く」と短時間の間に反撃に備えた作戦を考えた。
 このころの私は、いくら反撃されても拾える自信があったし、カットマンが反撃を多くすると反撃の方に気がいってカットするときの集中力が低くなり崩れやすいので「チャンスだ」と思った。
 彼は、その後もコートについてドライブ、ショートを多用して積極的に攻撃してきた。が、私はすでに攻撃に備えていたので作戦通り、バックハンドループでバックに攻められたときはショートでフォアへ返しミドルに強打してきたのをいったん一歩さがってしのいだ後、次からは深いコースへ伸びて曲がる変化ドライブで両サイドに攻め第1ゲームを15本で勝った。
 続く第2ゲームも気を引き締めて闘った。作戦は第1ゲームと同じ。カットに追い込んだときは積極的なドライブ攻撃をする。反撃されたときは1本しのいだ後に両ハンドの変化ドライブで攻め反撃ミスを誘う。それとできるだけ体力の温存をはかるために、無理なスマッシュをしない。ショートに追い込んだときもできるだけドライブに変化をつけて反撃ミスを誘うようにした。彼がいったん反撃を開始したときに、一気に攻め崩そうと無理に攻めてきたので変化ドライブ、ロビングを打ちあぐんで14本で勝ち、2対0とリードした。

 ストップを多くしてタイに持ち込まれる

 私は、2対0とリードしてベンチに戻ったときも「絶対に気をゆるめてはいかん。第3ゲームは今まで以上に気を引き締めてやる。カットで粘ってきたらドライブからスマッシュの積極的な攻めでいく。反撃してきたら逆に両ハンドで攻め返す、そのためにしっかり動く。カットを攻めるコースは相手の動きをよく見ながら攻める」と作戦を立てそれからベンチを離れた。
 第3ゲーム開始。このように気を引き締めて、また作戦を立てて臨んだにもかかわらず、第3ゲームからは大苦闘となった。彼は0対2とリードされたため、いい意味で開きなおった。キビキビしたカットで粘ってから反撃してきた。そして、私が16対11と5本差をつけたそのときだった。
 私はこの瞬間、勝利が近づいたことから「よし、もう大丈夫だ」と思った。また、自分の作戦通りの試合で有頂天になった。
 ところがそう思ったとたん、ドライブで積極的に攻めようとしても勝敗を意識して思い切って攻撃できなくなり、ドライブの球威が落ちた。しかも大事にしすぎたためにコースも甘くなった。そのために、カットで攻められてつないだこの球威の落ちたドライブボールや甘いツッツキを狙われて、ドライブからのスマッシュを浴びた。勝敗を意識して動作が固くなっていたためスマッシュをしのぐこともできずアッという間に追いつかれて一進一退のゲームとなった。「終盤になってこれではいけない!」と思って古川選手の反撃を積極的に攻め返し、カットも積極的にドライブで攻めようとしたが、ドライブ攻撃を読まれたため中陣、後陣から何本も変化カットでしのがれ気負ってのスマッシュミスが出た。またドライブの威力が落ち、打ち抜けなくなったためにストップを使いだし、そのボールを飛びこんでバックハンドスマッシュで狙われた。そして第3ゲームをジュースで落としてしまい、ゲームカウント2対1となった。
 しかし「まだ1ゲームリードしている」という気持ちの甘さがどこかにあった。
 私は、第4ゲームは積極的なドライブ攻撃をする作戦で臨んだ。しかしそのためのサービス、レシーブが悪かった。彼の戦法はサービスからの3球目やレシーブをドライブやショートで攻め、いったん私のペースをくずしてからカットに戻る戦法をとってくると読んでいたのだが、反撃ミスを期待してツッツいたり軽く払うレシーブしかできなかった。しかもサービスは弱気になってショートサービスが多くなった。
 ところが彼の投げ上げサービスやしゃがみ込み式変化サービス、肘をインパクトの瞬間に上にあげるわかりにくい変化サービスからのドライブ攻撃は強烈でミスがなかった。そのために、スマッシュとショートで先手、先手と攻められ打ち負けることが多くなった。また、カットに追い込んでもコースを読まれて中陣、後陣で粘られ、結局3ゲームの終盤と同じようなラリー展開となり18本で敗れた。ついに2対2のタイに持ち込まれてしまった。

 ストップなしのドライブ攻撃で押し切る

 私は、第4ゲームの敗因を反省した。そして絶対に勝つために最終ゲームは「①いったんカットに追い込んだとき、絶対にストップをしない。ドライブでチャンスボールがくるまで攻める。②サービスから攻める気持ちでいく。③レシーブは払っていく。もし払えなかったら鋭いツッツキで攻める。④大局的に考えて、前半の浮いたボールは必ずたたく」ことを決心した。
 この私の力ずくで攻める戦法は成功した。カットに追い込んだときに、ほとんど私が得点した。サービス、レシーブから積極的に攻めこんだため、すぐにこの有利なラリーにもちこめた。そのため古川選手は5ゲーム目になってあせり、ドライブミスやスマッシュミスが出はじめた。前半リードした私は「このペースだ」と、この作戦を気持ちを引き締めて実行し、常にリードを奪ったまま11本で勝った。こうして準決勝を大苦戦のすえに3対2で勝ち抜いた私は決勝に駒を進めた。



筆者紹介 長谷川信彦
1947年3月5日-2005年11月7日
1965年に史上最年少の18歳9カ月で全日本選手権大会男子シングルス優勝。1967年世界選手権ストックホルム大会では初出場で3冠(男子団体・男子 シングルス・混合ダブルス)に輝いた。男子団体に3回連続優勝。伊藤繁雄、河野満とともに1960〜70年代の日本の黄金時代を支えた。
運動能力が決して優れていたわけではなかった長谷川は、そのコンプレックスをバネに想像を絶する猛練習を行って世界一になった「努力の天才」である。
人差し指がバック面の中央付近にくる「1本差し」と呼ばれる独特のグリップから放つ"ジェットドライブ"や、ロビングからのカウンターバックハンドスマッシュなど、絵に描いたようなスーパープレーで観衆を魅了した。
本稿は卓球レポート1979年5月号に掲載されたものです。
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