「作戦あれこれ」第48回 夏の大会に勝つためには

 もうすぐ暑い暑い大阪でインターハイ(8月1日~6日)が行なわれる。この大会に臨む選手の意気込みはすごい。強い学校であればあるほどそうだ。が、真夏にある大会のコンディション作りは実にむずかしい。
 私は、夏の大会で2度大きな失敗をしている。そのために、毎年真夏が近づくとその苦い経験を思いだし、つくづくバカなことをしたなぁと後悔する。

 無意識のうちに動けるような猛練習とトレーニングが大事

 1つは、高校3年生のインターハイである。
 私の高校は、名古屋市にある名古屋電気工業高校(現在は、名古屋電気高校に改名)といって、インターハイで常に優勝を争う名門校であった。私が入学した当時は、インターハイ団体優勝8回、8年連続全国大会優勝(インターハイ団体、単、複と国体、全日本ジュニアのうち1つはタイトルを取る)をしていた。
 私が高校2年生のときは、10年連続全国大会優勝を達成した。
 高校3年生になったとき、今度は私たちが伝統を守る番だった。主将だった私は、その責任を痛切に感じて2年生のとき以上に夜遅くまで猛練習をした。このとき、自分達の学校より強いと思われた学校は、京都の東山高校だった。私は東山高校を打ち倒すには、レシーブから積極的に払って攻めていかなければ勝てないと思い、ゲーム練習のときは相手を常に東山高校選手と想定し、払ってレシーブしたり、変化サービスから思い切り3球目ドライブ攻撃したりした。また、球威をつけフットワークをよくしなければならないと思い、やはりこのときも相手を常に東山高校選手と想定し強打対強打やフットワークをフラフラになるまでやった。ランニング、ダッシュ、サーキット・トレーニングなども自分の体力の限界に挑戦してやった。
 その努力が報われ、例年より4ヵ月早く行なわれた国体で、名電工高単独チームの愛知県が地元新潟チームをストレートで倒して優勝した。
 このときの私の調子は、基礎練習も、フットワークも、ゲームも、トレーニングも、びっしりやっていたので、無意識のうちに足がよく動き、無意識のうちに鋭く払うレシーブや3球目ドライブ攻撃、スマッシュができた。そして最高の当たりで単複に全勝を飾ることができた。目標にしていた東山高校の京都は残念ながら1回戦で神奈川県に敗れ対戦できなかった。
 しかし、このとき東山高校が早く敗退したことはインターハイを目指す私たちにとって不運だった。もし準々決勝や準決勝で負けていたのであれば、東山高校の実力をはっきり見て研究することができたのだがそれができなかった。
 私は学校の伝統を守ったことからやや満足してしまった。失敗だった。今思うと、国体が終わった直後「ヨーシ、今度はインターハイの団体優勝だ。国体を目指した以上に努力するぞ」と、気持ちを新たに持ちかえれば良かったのだが「インターハイで優勝したい」という気持ちはあったが、国体のときのように「何が何でも優勝したい!」との信念になった強い目標でなかったのが悔やまれる。
 そのために練習のとき、たとえばフォア・バック1本ずつに回してもらったのをフォアハンドで動くフットワーク練習のとき少し疲れるとフォアハンドとバックハンドの切り替えのラクな練習をしたり、試合のときもショートやバックハンドを使ったラクなやり方で勝ち、限界に挑戦していなかった。トレーニングのときでもただ時間をこなすだけで、全国優勝を狙う選手とはほど遠い練習のやり方をしてしまった。
 したがって、国体が終わってから1ヵ月半後にはかなり体力が落ちてフットワークのスピードがなくなり、闘志、集中力、粘りもないごく普通の選手になりさがってしまった。
 そのために、インターハイ2日目の団体戦の準決勝でぶつかった宿敵東山高校に、試合の鍵を握ったダブルスで馬渕・田阪組のコートから1バウンド出るか出ないかの巧妙な変化サービスに長谷川・深谷組のレシーブが乱れ相手に先手、先手と攻められて敗れ。続く深谷対田阪戦でも深谷君がゲームオールの19対16とリードしているところから、田阪選手のドライブロングサービスからの思い切った3球目スマッシュで5本とも決められてあっという間に逆転され、3対1で敗れた。勝った東山高校は決勝戦でも日大一高を破り3度目の優勝を飾った。
 東山高校は、国体後にインターハイ団体優勝を目指して"打倒名電工"を合言葉に猛練習と学校の裏山をダッシュでかけ登る猛トレーニングを2ヵ月間にわたって積み重ねたと聞く。
 私は、巻き返しをはかったシングルスでもベスト16に入ったところで東山高校の2位になった左腕のドライブ・岡田選手と当たり、私の一番の弱点のバック側のショートサービスからの3球目攻撃で先手、先手と攻められて完敗した。
 しかし、今思うとこれは当然の結果だった。努力不足から、3球目攻撃するときもレシーブのときも「こう打つんだ」と考えてやらなければ手や足が動かなかった。これでは打つとき振り遅れるし入ってもボールに威力がないので相手の攻撃がどう返ってくるか読めず、全然余裕がないのでいいプレイができるはずがなかった。
 自分が納得するいい試合をするには、無意識のうちに動けたり、無意識のうちにサービス、レシーブ、3球目攻撃、スマッシュ、カットができるように猛練習を積むことが大切である。そして、相手の研究をすることである。卓球競技の特徴をよく考えてみるとわかるが、卓球は一生懸命に努力した人間でなければ勝つことのできないスポーツだ、と私は思う。

 水分を取り過ぎるな

 もう1つ大いに後悔しているのは、盛夏の8月(1966年)に北京で行なわれた第3回北京国際招待試合である。このとき会場の工人体育館は連日1万人の超満員で、体育館の中は蒸し風呂のようであった。
 3日目の夕方から始まった準決勝で朝鮮チームと対戦したときの私は好調で、金永三、金昌虎をストレートで下し、7番ではエースの朴信一を前後左右に激しくゆさぶられながらも2対1で勝ち3戦3勝。日本は5対2で勝ち翌日の決勝戦に駒を進めた。
 しかし私はこのとき、緊張とものすごい暑さから1人で立っていられないほど疲れた。それで強烈に水分が欲しくなり、試合直後にいけないとわかっていながら250ml入りぐらいの中国の炭酸入りのジュースを3本たて続けに飲んだ。すると一時的にラクになったように思えたが、すぐに飲む前以上の疲れを覚えその後からまったく食欲不振に陥った。夜食のとき、翌日は中国との決勝戦があるから少しでも食べなくてはいけないと思っても、お腹がすいているのだが全然入らなかった。したがって、食事のときも再びジュースを飲んだ。
 このため私のからだは、試合の疲れと水分の取り過ぎでものすごく熱くなり、ベッドについても顔や首から汗がダラダラと吹き出て、早く眠らなければならないと焦れば焦るほどますます眠れなくなり、結局一睡もできなかった。
 翌日も悪循環を繰り返し、中国との団体決勝は試合できるコンディションではなく中国勢に完敗し、日本代表として恥ずかしい結果に終わった。
 私は、この後この苦い経験を生かして、水分をとるときはなるべく食事のときに出るスープや野菜やくだもので補うようにした。もしどうしても飲みたいときは、炭酸水を飲むかわりに牛乳やトマトジュースや野菜ジュースをからだを少し休めてから飲むようにした。これが、翌'67年にストックホルムで行なわれた世界選手権での3種目優勝や、同じ年の猛暑の8月にシンガポールで行なわれたアジア選手権でのシングルス優勝につながった。
 夏の試合で過当な水分を補給することは大切だが、絶対に取り過ぎないように注意しよう。そのためには、普段からの節制と練習、体力トレーニングを十分にやってしっかりとした体力をつけることだ。



筆者紹介 長谷川信彦
1947年3月5日-2005年11月7日
1965年に史上最年少の18歳9カ月で全日本選手権大会男子シングルス優勝。1967年世界選手権ストックホルム大会では初出場で3冠(男子団体・男子 シングルス・混合ダブルス)に輝いた。男子団体に3回連続優勝。伊藤繁雄、河野満とともに1960〜70年代の日本の黄金時代を支えた。
運動能力が決して優れていたわけではなかった長谷川は、そのコンプレックスをバネに想像を絶する猛練習を行って世界一になった「努力の天才」である。
人差し指がバック面の中央付近にくる「1本差し」と呼ばれる独特のグリップから放つ"ジェットドライブ"や、ロビングからのカウンターバックハンドスマッシュなど、絵に描いたようなスーパープレーで観衆を魅了した。
本稿は卓球レポート1979年8月号に掲載されたものです。
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