「作戦あれこれ」第58回 試合前のベストの練習③

試合前夜に素振りをし、作戦をたてよう

 昭和46年度の全日本選手権が12月3~7日まで、底冷えのする東京の駒沢屋内球技場で行なわれたときだった。
 私はこのとき会社(タマス)の寮に住んでいたが、全日本に備えて次兄の家に泊って最後の調整合宿をすることにした。2年前に同じ場所で行なわれた44年度の全日本選手権のときは、長姉(あね)の家に宿泊した。次兄の家は、新宿から小田急線に乗って急行で25分の新百合ヶ丘の駅からバスで5分ぐらいのところ。山を整地したところで寒さは厳しいが静かで大変空気が良く、雑念をとりはらったりトレーニングをするにはもってこいのところであった。また、全日本選手権出場のマンネリ化と心の甘えをとりのぞくには、もっともふさわしいところと判断したからであった。ふつうであれば、44年の全日本で優勝している長姉の家がふさわしいのかもしれないが、私の心技体のコンディション作りには厳しい次兄の家のほうが良いと考えた。次兄の家族は心よく引き受けてくれた。
 調整合宿に入ったのは、大会の3日前からであった。私は何はともあれコンディション作りの恋人でもあるバーベルと鉄アレイを次兄の家に持ち込んだ。
 このときの私の調子は、大会一週間前にアジア・アフリカ友好大会(以後2A大会)と続いてあった日中交歓大会から帰ってきたばかりで疲れからそれほどよくなかった。このときの自分自身の診断では、決勝進出できるかどうか程度の調子であると思った。
 しかし一般的には、2A大会の団体で中国を破り、シングルスは河野選手を決勝で倒し2冠王。その後の日中交歓大会でも1敗のみできた私に対し、コンディションさえよければ優勝は9分通り間違いないと言われていた。
 私は、もちろん負けるよりは勝ちたかった。そして一気に3連勝をして、念願である日本史上最強選手と言われている藤井則和選手が持つ5回優勝の史上最多優勝記録と並びたかった。

 朝食前のトレーニングが私の卓球の命

 私は、このときすでに社会人3年目を迎えており、18歳で全日本優勝して以来数々の海外遠征を積み、いろいろな失敗を重ねて、自分のもっともふさわしい調整方法をほぼ知っていた。私の最高の調整方法は、試合の直前でも朝食の前にトレーニングをすることであった。つまり、トレーニングが私の卓球の命であった。これをやらないと、試合のとき自分のプレイができず後手、後手とまわって苦しくてしかたがなかった。
 それでわたしは、大会の前日までいくら暑くてもいくら寒くても、朝食の前に必ずトレーニングをやった。大雨や大雪が降っているときは部屋の中でやったが、それ以外は必ず外でやった。なぜならば、私はトレーニングの中でもランニングをもっとも重視していたからだった。
 それは、私のような攻めと守りが半々のドライブ型は、忍耐心と足腰の粘りがとくに必要であったからだ。
 午前6時少し過ぎに起床して、筋肉を冷やさないようにトレパンを2枚重ね着して、上半身はユニフォームの上に暖かい毛糸のセーター、その上にキルティングの完全武装をして3キロほど山道を走った。これは、前日の取りすぎた水分を抜くためでもあった。
 ランニングが終わったら、40メートル全力疾走を7本から8本。膝曲げ屈伸を100~120回、腕立て伏せを50回。ふつうの選手ならこれにあと素振りをやる程度のトレーニングで朝はよいが、私の卓球だとこれでは少ない。私はラケット全体の重さが196gのふつうのシェークハンドよりも20g、ペンホルダーの選手より60~80g重いラケットを使っていた。すると当然腕、肩の筋肉や動くとき振り回すときの足に大きい負荷がかかる。また、振り、動きのスピードが最後まで落ちないためには闘志も必要になってくる。つまり、私の卓球にはニックネームだったポパイのような腕力、短距離走の選手のような脚力、鉄のような闘志が必要だった。
 それでの25.5㎏バーベルを胸から頭上までまっすぐあげるプレス15回を3本。逆手でバーベルを持ち、立ったままの姿勢から腕だけで胸まで引き上げるカール15回を3本。足を開き上体を90度に前傾にした姿勢から、腕だけで胸まで持ち上げる運動15回を3本。その次には足を開いてバーベルを肩にかつぎ膝を深く曲げて、まっすぐ伸ばすスクワット30回を3本。同じ格好から腰をひねる運動30回を3本やった。同じ種目を続けてやると筋肉を痛めやすいので必ず種目を変えるようにした。
 そして最後に、フォアハンドスマッシュの素振り、バクハンドスマッシュの素振り、ドライブの素振り、ロビングの素振り、サービスから3球目やレシーブから4球目のシャドープレイ、対中国を考えた7動作のシャドープレイを試合と同じ気持ちで真剣に行ない、整理体操をしっかりやって朝のトレーニングを終えた。
 すると私は、トレーニングをやった充実感から「ヨーシ、今日も一日がんばるぞ」という闘志がわいてきた。朝食からバリバリ食べられ、1日の活力源となるようだった。

 夜はのんびりする

 大会がはじまる2~3日前は、夜遅くまで練習をやらず夕方の6時か7時には家に帰った。そして家でゆっくりした。大会の前は試合のことが頭から離れず、むしろリラックスする必要があると思ったからだ。
 しかし、大きな声を出したり、大笑いするバカ騒ぎは絶対にしないよう心がけた。バカ騒ぎをすると緊張の糸がプツンと切れてしまうし集中力を失う。大会の前は、静養して体力や集中力を温存し、試合のときに温存した力を爆発させることが大切であると思っていたからだ。

 大会の前夜に試合の心構えをノートに書く

 大会の前夜はいつもと違った過し方をした。
 夕方に次兄の家へ帰ってから、素振り、シャドープレイ、それに1㎞ぐらい走ってから夕食についた。フォームが少しでも狂っていたら、緊張したときに凡ミスが出る。そのようなときでも正確な攻撃ができるように、素振りとシャドープレイで完璧に近いフォームにしておかなければならないと考えていたからだ。
 そして、夕食後には、昭和46年度全日本選手権大会に臨む心構えを新しい卓球ノートに書いた。試合の前に必ずすることだ。自分にとって一番大切だと思われることから順に書いた。
 ・決意を固め犠牲を恐れず万難を排して勝利を勝ちとろう(毛沢東のことば)
 ・常に元気を出す。気力では絶対に負けない
 ・相手に尊敬の念を忘れない
 ・勝敗にこだわらず、今まで積み重ねてきた技術、体力、精神すべて出す
 ・常に自信を持つ
 ・常に相手以上に集中する
 ・冷静にやる
 ・ミスを恐れず思い切ってやる
 ・しっかり足を動かし、一球一球コースを考えて攻める
 ・油断は絶対にしない
 ・最後まで絶対にあきらめない
...。この他にもたくさん書いた。なぜ中国の主席の毛沢東のことばを重視したかは、試合の基本であると思ったからだ。元気を出してやる。気力では絶対に負けないを2番目に書いたのは、2Aの大会の疲れからいつもの大会のときよりも全日本にかける意欲がなかったからだ。そのため意識的に闘志を燃やすようにしなければならなかった。勝ちたい気持ちが強いときは、尊敬の念を忘れない。相手に教えてもらう気持ち...などをトップに書き、精神をコントロールするようにすることが多かった。また、2年後の48年の全日本選手権のときは、大不調であったことから「困難にあったとき逃げると危険が2倍になる。しかし俄然立ち向かえば危険が半分に減る」という1940年代のイギリスの首相だったチャーチルの言葉に感銘を受け、試合の心構えの最初に書いた。そして試合のとき逃げないで立ち向かっていったことが運よく、6度目の史上最多優勝記録達成につながったが、そのときに一番励みになる言葉を書いたりもした。

 対戦しそうな相手の作戦をたてる

 それと、試合の前日には対戦しそうな相手の作戦も書いた。
 たとえば、このときのシングルスの一番はじめに当たる相手は、インターハイで2位になったことのある大阪商業大学の左腕の山本選手。彼はパワーはそれほどなかったが、凡ミスの少ないドライブマンで警戒を要する選手だった。だが彼は、ネットプレイが苦手でそれを警戒するあまり、ロングサービスとショート変化サービスを早いモーションで混ぜられると弱い。それと、バックショートとバックハンドをピッチの早い攻撃で攻めると弱いとみた。そのために、ストレートに打たれるのも弱いとみた。
 そこで、山本選手に対する作戦は
 ①早いモーションでショートサービスにドライブ性とナックル性のロングサービスを混ぜてゆさぶり、3球目を積極的に攻め、得意のラリー戦に持ち込む。
 ②レシーブのときは、フォアで動いて払って相手の攻撃を封じたのち、両ハンドで相手の動きを見ながらストレートをついてゆさぶる
 ③要所要所でいきなりフォアに攻めたのち、バック側を攻める
 ④最初の一戦は、大会の成績を占う大事な一戦だ。絶対に油断をしない
 このような作戦を立てた。シングルスの試合は、最終日には決勝まで4試合あり、最終日の前夜は対戦しそうな6人ほどの選手に対する作戦をノートにまとめた。作戦を書き終えるまでにかなりの時間を要した。

 大会まで積んできた技術、体力、精神、智をすべて出すために

 なぜこれほどまでやったか?それは大会までに積んできた技術、体力、精神、ゲーム練習で積んだ智をすべて出すためであった。前回にも述べたが、卓球も剣道と同じで「気心体」が一致しなければ良い攻撃ができないものだからだ。
 そのため、いくら技を磨いてもトレーニングをしなければ何にもならないし、たとえ技と体力があっても精神面や作戦面がしっかりしていなければ、すばらしい攻撃ができるものでないからだ。
 しかし、残念ながら一流の中でも練習とトレーニングをやったあとは何もしなくてもいい、という人が意外に多い。ましてや卓球の厳しさを知らない中高校生はなおさらだ。このような選手は、優勝する力があると言われても勝ったところを見たことがない。ところが試合の前夜までキチンとやったときは勝っていた。たとえ負けても自分の力を出していた。
 プロ野球で史上初の3000本安打の記録を達成したロッテの張本選手も、ホームランの世界新記録を持つ巨人軍の王選手も、若いときは毎晩素振りをやったと聞く。それもとなりの部屋まで聞こえるほど鋭く振るという。だからこそ、常にすばらしい気力、集中力があり輝かしい金字塔を打ち立てられたのだと思う。
 戦いはもう始まっている。試合の前夜というのは、すでに試合の終盤戦に入っている。この大事なときに遊んでいる人は勝てない。
 試合前夜は、自分の体調に合わせ、作戦、素振り中心にベストコンディション作りをしよう。
 次回は、試合当日のベストの過し方について述べよう。



筆者紹介 長谷川信彦
1947年3月5日-2005年11月7日
1965年に史上最年少の18歳9カ月で全日本選手権大会男子シングルス優勝。1967年世界選手権ストックホルム大会では初出場で3冠(男子団体・男子 シングルス・混合ダブルス)に輝いた。男子団体に3回連続優勝。伊藤繁雄、河野満とともに1960〜70年代の日本の黄金時代を支えた。
運動能力が決して優れていたわけではなかった長谷川は、そのコンプレックスをバネに想像を絶する猛練習を行って世界一になった「努力の天才」である。
人差し指がバック面の中央付近にくる「1本差し」と呼ばれる独特のグリップから放つ"ジェットドライブ"や、ロビングからのカウンターバックハンドスマッシュなど、絵に描いたようなスーパープレーで観衆を魅了した。
本稿は卓球レポート1980年9月号に掲載されたものです。
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