「作戦あれこれ」第64回 気力

 私は、去る2月14日、15日に山口県柳井市で行なわれた第44回西日本選手権に出場した。年に1度だけの公式戦出場である。
 私の会社(タマス)は、日本卓球界に刺激を与えるため、2年前から西日本選手権にアメリカNo.1のダニー・シ―ミラー選手、昨年からNo.2のリッキー(弟)選手もあわせたシ―ミラー兄弟を招待している。この2人は'77年バーミンガム世界大会の男子ダブルスで、当時優勝候補の一角であった郭躍華('77年、'79年世界No.2)・廖福民の中国ペアを、ゲームオールジュースの激戦の末に倒している国際的な選手。私はこのような国際的な選手を招待しながら、名のとおった選手の出場が西日本選手権に少ないのは淋しいし国際的に失礼にあたると思った。また、私が出場することによって出場した選手や見にきた人たちに少しでも役に立てれば...という動機から西日本選手権の出場に踏みきった。'74年の全日本を最後に公式戦に出場しなくなったので実に5年ぶりの出場となった。それ以来3年連続の出場である。
 私は今大会も出場して大変に良かったと思う。それは3年連続ダニー選手と決勝を争い、大接戦の末に倒して昨年の雪辱をとげたこともうれいいが、それより試合は技術、体力、作戦も大切だが、中でも気力が一番大切であることを再び知り得たためだ。今後の私の人生の大きな柱の1つに加えたいと思うほど大変勉強になった。試合後はこれと同じような試合をして勝った'67年ストックホルム世界大会や'71年に北京であったアジア・アフリカ大会、'74年のアジア選手権の男子シングルス決勝戦を思い出した。

 大会前は絶不調

ところが大会前は、巨人の中畑選手が昨年はやらせた流行語"絶不調"(絶好調の反対)であった。
 大会前、ゲーム練習を主にやり基礎練習を怠ったのが悪かったのだろう。エースボールのドライブにミスが多く出る。バックハンドも悪い、フットワークもレシーブも悪い、身体に力が入らない、肩が痛い...。私の西日本選手権出場ももはや今年限りかとさえ思った。
 一方のダニーは、昨年よりさらにフォームがよくなった。からだの回転できちんとボールをとらえているのでボールの威力が増した。フットワークもよくなり確実に伸びていた。軟式庭球と同じようにフォアハンドを打つ面と同じ面で打つショートは完璧に見えた。西日本大会の3日前に広島県安芸津町でダニーと模範試合をしたときは一方的に敗れた。大会1日前に柳井商業の練習場でも真剣に対戦したがやはりストレートで負けた。私がポイントするのはダニーの凡ミスだけ、という感じでまったく歯がたたず、ダニーの優勝は間違いないと思った。現役時代は試合の直前まで基礎練習を人一倍やって備えたのに、最悪のコンディションのままで大会を迎えた

 ぶったおれてめざめる

 大会の初日はダブルスの決勝までと、シングルス2回戦の半分までだった。そのため、シングルスだけ出場する私には試合がなかった。
 この日、私に一番必要なのは練習相手であった。しかし、選手は試合に出ていて誰も相手がいなかった。が、この日の早朝柳井に到着した西日本選手権取材の手塚君(私と同じ卓球レポート編集部勤務)がいた。手塚君は早稲田大学時代レギュラーだった選手だ。彼は私の元気のない顔を見て「よかったら練習相手をしましょうか」といってくれた。私は今のコンディションのままでは優勝するどころか、いいプレーをすることもできないと思い、すぐに頼み柳井商業の練習場にかけつけた。
 私は体操をしたあと、フォアハンドの基礎練習からボールを打ちはじめたが、やはり身体に力が入らないし、肩が痛く、たびたび練習を中断した。大会はすでに始まっている。元日本代表選手としてみっともない負け方はしたくない。もうすぐ34歳にもなるのに泣きたいぐらいであった。基礎練習が一通り終わったあと、短時間で中身の濃い練習をするためにボールをたくさん使っての3球目攻撃、レシーブの応用練習へと入った。レシーブ練習では、バッククロスドライブ性ロングサービスを200発近く、気合いを入れるためとフォームを固めるために一球一球気合いを入れて思い切りレシーブスマッシュした。
 久しぶりの猛練習で私は2箱全部打ち終わったあと、息苦しさと疲れの余りその場に倒れこんで休んだ。そして汗が容赦なくポタポタと流れる中自分を見つめてみた。このときの私はなかなか気合いの入らない自分に「床屋にいって丸坊主にしようか、柳井商業の選手のようにハチマキをしてやろうか」とまじめに考えた。いいプレーをすることができるのならどのようなことでもやってみたい、と思った。
 このように真剣に考えているうちに「勝負は度外視して長谷川らしいプレーをしよう。それで負けたのなら仕方がない、としよう。それにはこれからの練習を一生懸命やらなければならない」という気持ちにかわり、決心がついた。私は立ち上った。このあと不思議と身体に力が入ってくるのが徐々にわかった。そして調子の出る練習を思い出しながら、苦しくてもフォアの飛びつきとか、ランダムのフットワーク、スマッシュなどを3時間近く練習した。また、少し休んだあと、気力、集中力、膝のバネ、耐久力を養うために20分間ランニングをして少しでも良い試合ができるように備えた。試合の心構えもでき、決勝で当たるであろうダニー戦の戦法を考えてから休んだ。

 西家選手に苦戦して立ち直る

 試合の日がついに来た。私は試合当日の朝に必ずランニングやシャドープレーをして、一度全身の筋肉や関節を動かしておかないと充実したプレーができない。やや疲れ気味であったが、30分近く柳井高校がすぐ目の前に見える三陽本線のとなりの道路でダッシュとシャドープレーをして汗を流した。そして、試合の前に柳井商業の練習場で1人サービス練習をして試合に臨んだ。
 試合は5回戦で九産大のドライブマン西家選手に19本、22本の苦戦をした。が、この試合がよい刺激になった。試合後大いに反省して、6回戦の横田選手(山口、三井石油)、7回戦の松下選手(和歌山、和歌山相銀)とだんだん調子を出して準決勝に勝ち進んだ。

 計算どおりの試合でリッキーを倒す

 準決勝の相手はアメリカNo.2のリッキー・シ―ミラー。この試合は7戦目で筋肉はすでにパンパンに張っていた。が、前日の夕方と当日の朝にランニングしたので集中力、気力、忍耐力はまだ十分にあった。
 この試合を迎える前、私は次のように考えた。
 リッキーにストレートのしかもいい形で勝たないと、決勝で対戦するダニーといい試合をすることはできないだろう。リッキーには最高にとられても2ゲームあわせて35本以内に押さえる。技術的には得意のドライブと両ハンドによる攻撃で主に得点をする。その中で得意のバックハンドスマッシュを完璧なフォームで2ゲーム合わせて6~7本は得点する。また、その中の2~3はダニーの見ている前で出す。
 その狙いは、ダニー対矢野(和歌山相銀)の準決勝は力から見て我々の試合より少し速く終わる。するとダニーは必ず弟の応援をする。その目の前で「今日の長谷川は気力も充実しているし、バックハンドもすごい」とダニーに心理的プレッシャーをかけたいからであった。とくに外国人というのはパワフルなプレーをこわがるからだ。しかし計算しすぎると、えてして策におぼれて失敗することが多い。チャンスがあれば行なうことにした。
 準決勝でコートは2台になり、広々とした。と同時に緊張感がただよった。闘志が胸の奥からグーッと燃えてくるのがわかった。私は計算どおりの試合ができるように、目だけでなく耳、からだ全体の皮膚、髪の毛、皮膚の毛の先まで全神経を送って、からだをピリピリさせた。こうさせないと、一瞬のチャンスを逃してしまうからだ。
 試合は、リッキーの攻めの甘さもあり、からだ全体ですばやく情報をキャッチするようにしていた私の計算通りの試合となった。早く終わったダニーの目の前で、最後の2本、得意のバックハンドスマッシュを浴びせてストレート勝ちした。ポイントは予想していたより8本も少ない上々のできだった。
 しかし、それでも技術が安定しているダニーに勝つのは難しいと思った。もし、私に勝つチャンスがあれば、ピッタリくっついていって相手の焦ったところで勝負をかけるしか手はないと思った。

 リッキー戦のバックハンドスマッシュが効く

 決勝は準決勝が終わってから15分後に行なわれた。となりのコートでは加藤(愛知、中京大)対岡本(山口、岩陽高)の女子決勝戦が行なわれていた。
 私は決勝まできたからにはいい試合をして勝ちたいと思った。もうあと2週間ちょっとで34歳になる。最後の試合になるかもしれない。立派な試合をしたい、と思った。が、1ゲーム目は15オールからレシーブを読まれて強烈なドライブを浴び16本で落とした。
 しかし、2ゲーム目、離されないように必死に食い下がって18対19と追い上げた次の1本、リッキー戦で見せた最後のバックハンドスマッシュが生きた。つまり、ダニーにミドルに止められたショートを逆にミドルにバックハンド攻撃で得点したのである。このときのボールにスピードはなかったが、ダニーの頭の中にはリッキー戦での強烈なバックハンドスマッシュのイメージがあった。ダニーは完全にショートのタイミングが狂った。このあとダニーは動揺して珍しい凡ミスが続出し、ついにゲームオールに持ち込んだ。

 気力をふりしぼって勝つ

 最終ゲームを開始する前、今までの経験から「最終ゲームは両者に多少の力の差があっても優勝のプレッシャーが一球一球にかかり、5分5分だ」と思った。体力的に劣っていても十分に勝つチャンスがあると思った。しかし、そのチャンスをつかむにはそれまでと同じ考え方ではダメだ。経験を生かして次のことを考えた。
 ・ここまできたら優勝を目標にがんばる
 ・猛烈な気力でがんばる
 ・作戦はダニーのフォアサイドいっぱいをドライブで攻める
 ・転倒するぐらいがむしゃらに動く
 その他、レシーブの注意点やロング戦になったときの注意点などを細かく考えたが、主はこの4つだった。
 最終ゲーム。私は一球一球猛烈な気力で打ち返し、得点するたびからだ全体で「ヨシッ、ヨシッ」と声を出した。声を出すのは初め恥かしかった。が、出すにつれ闘志が燃えた。不思議なほど足がよく動きボールも走る。なりふりかまわず声を出してがんばった。また、声を出していくうちに徐々に試合に没頭でき集中力も高くなった。そのため、練習試合で見えなかった相手の弱点も見えてきた。このときのダニーの最大の弱点はミドル前の横回転サービスだった。また、ダニーのサービスのコースも読めるようになった。
 このため、思い切ったレシーブからのドライブ攻撃や、サービスからのドライブ攻撃がよく決まり一気に9対3と大量リードを奪った。私はこのあとホッとした気のゆるみから9オールに追いつかれたが、横回転サービスからの3球目攻撃や、ロング戦で打ち勝ったりして18本で勝ち逆転優勝をした。優勝が決まった瞬間、思わずとびあがってしまったが、全日本で初優勝したときのような気分だった。

 気力の有無が人間の能力を左右する

私は優勝したあと、試合はつくづく気力が大切だな、と感じた。そして気力の有無が人間の能力のすべてを左右するのだな、とも思った。このことは大変に勉強になった。みんなも試合のときは、気力を出してやることを忘れずにがんばってほしい。



筆者紹介 長谷川信彦
1947年3月5日-2005年11月7日
1965年に史上最年少の18歳9カ月で全日本選手権大会男子シングルス優勝。1967年世界選手権ストックホルム大会では初出場で3冠(男子団体・男子 シングルス・混合ダブルス)に輝いた。男子団体に3回連続優勝。伊藤繁雄、河野満とともに1960〜70年代の日本の黄金時代を支えた。
運動能力が決して優れていたわけではなかった長谷川は、そのコンプレックスをバネに想像を絶する猛練習を行って世界一になった「努力の天才」である。
人差し指がバック面の中央付近にくる「1本差し」と呼ばれる独特のグリップから放つ"ジェットドライブ"や、ロビングからのカウンターバックハンドスマッシュなど、絵に描いたようなスーパープレーで観衆を魅了した。
本稿は卓球レポート1981年4月号に掲載されたものです。
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