わたしの練習㉕北村秀樹 自分のスタイルに合った練習を

 “精神一到何事不成”私の部屋の掛軸にそう書いてありました。小学3年の頃から父母は「これがお前の座右の銘だ。精神をこめてやれば、どんなことでもできる」と、私が何かするたびに言っていたので、そんなものかな、と眺めていたものですが…。

 ◇全くの自己流で

 私が初めてラケットを握ったのは、中学1年生の時です。私がわんぱくであったことから、その学年の担任である体操の先生が私の人生における成長を望み、なにかスポーツをやってみないかと勧められ、卓球ならできるだろうということで始めたわけです。
 そして私が物事に熱中するという性質から、日に日に卓球の魅力に取りつかれていきました。やっているうちに卓球の難しさを知り、またおもしろさを感じたのです。
 その当時は、卓球をやる者のほとんどが初歩において使用する一枚ラバーを使い、フォアハンドのみで動いていました。動くといっても、フットワークなど到底知るはずがなく、自己流で動いていました。中学を卒業するまで、いろんな技術において全くの自己流で練習をやったわけです。

 ◇オールサイドとゲーム練習が主体

 そして中学を卒業、3年生の時の担任の勧めもあり、また自分が卓球から離れられず、一つ名門校に入ってもう一度卓球をやってみようと思い、両親のゆるしを得て神戸商業高等学校を受けました。
 そして、入学試験の合格発表で自分の受験番号を見たあくる日、希望に胸をふくらませ卓球部の門をたたいたのです。が、皮肉にも入部してまもなく、自分の不注意から中指がひょう疽(そ)にかかったのです。中指といえば、ラケットを持つ時一番力が入るところです。動かしても痛いのが、到底ラケットを持つことはできません。その頃は有望な新入部員がたくさん入っていました。みんなに遅れをとらないかと気ばかりあせりながら、ラケットを持たずとも練習を見るだけでも、と毎日練習場に通い見学していました。そして3週間ほどたち、どうにかラケットを持てるようになると、指にバンソウコウを巻き、みんなから遅れた分を取り戻そうと練習を始めました。
 その頃の練習は、上級生が優先的に台を使うので、下級生は1台を4人で使うクロス打ちがほとんどでした。とにかく、あきずに暇さえあればクロス打ちをやっていました。ある程度クロス打ちがうまくなれば、今度は上級生の練習相手にされるわけです。そうなればしめたもの、1台を2人で使うわけでオールサイド練習も可能なわけです。ほとんどオールサイドとゲーム練習が主体でその頃表ソフトであったせいか、ロングサービス主体で時々ショートをする以外に、ほとんどフォアでまわって速攻していました。2年生になりカットサービスからのツッツキ打ちを覚え、東京で行われたインターハイ(編集部注:昭和36年の第30回大会)にのぞんだわけです。団体戦準々決勝で、相手のループドライブと回転サービスに敗れ、その時回転の重要さをつくづく知り、裏ソフトに転向したわけです。裏ソフトに転向してから、毎日4時間台につきっきりでドライブ主戦、特にカットサービスからのループドライブの練習、それに合わせてインターハイで取ることのできなかったループドライブの処理の練習が始まりました。これは今もなお自分の卓球の信条でもあります。ループドライブは完全な体勢でうたなければ威力のあるボールが出ないことから、強い足腰のバネが必要なことを知り、(これはドライブ選手のみに言えることではありませんが)強制されるトレーニング以外に、わずかながら山道をランニングすることを自主的にやるようになりました。その成果があってか、その年の12月京都で行われた京阪神三府県大会で、三冠王という自分でも満足のできる成績をおさめました。そして、あまり立派ではありませんが、ここから自分の卓球の戦歴といえるものが始まったわけです。

 ◇ドライブ主戦で

 高校を卒業するまで、前記した練習内容から、試合においてもバックからのカットサービスを多用し、3球目をドライブで攻撃し5球目をたたくという戦法でした。しかし現在のようにロング戦においてもドライブを使うということはできませんでした。神戸商独特のコーチなし、互いに切磋琢磨、研究し合って、伝統を守ることに努力して高校生活を送った。これが、私と卓球とを離れられないものとしたのです。
 そして3年生の鹿児島インターハイも終わり、山本弥一郎さん、江口さん、四十栄前監督のすすめと、また高校進学の時と同じ自分の考えもあり、専大進学を決意しました。毎年専大において、12月末入部予定者の新人合宿を行うのですが、自分もそれに参加したわけです。その時専大の人とゲームをやり、ある人には勝ち、また良い勝負をしました。これによって、大学に入ってもやれるという自信を持ったのですが、これは後になって実力で勝ったのではなく、高校時代の自信のみで勝ったのだと感じました。というのは、大学へ入って練習をやっているうち、全くみんなに勝てなくなったからです。打ち合ってもボールの質のちがうことを感じ、自分の卓球における非力、豪快さのなさを知ると共に、大学の卓球の恐ろしさを痛感しました。そして、これによって力の重要さを知り、私自身できると思わなかった腕立てをみんなと一緒にやるようになったのです。初めは無理なように思ったのですが、小さい時から腕一本で育ったせいか、今ではみんなと同じ回数をやれるようになりました。
 入部したころ自分の卓球に迷い、ある時はドライブ主戦で、ある時は両ハンドを振っていろいろやってみましたが、やはり自分はドライブが適当だと思い、ドライブ主戦の卓球に変わったわけです。
 授業に出席以外のときの練習方法は、当時も今もなお合宿所で決められている7時:起床→7時半~8時半:トレーニング(ロードワーク、腕立て、素振り、柔軟体操など)→10時~12時:乱打、フットワーク主体の練習→1時半~5時半:3球目、スマッシュ、オールサイド、ゲーム、です。時々6時半~9時半まで夜間練習があります。試合前は対戦する選手に対しての練習、自分のエースボールの練習、また試合練習が主で、これはほとんど勝ち抜き戦で、勝ち残っていくとかなりのセット数になります。
 今これが私のおもな練習ですが、体力の続く時これ以外の練習時間をとる場合もあります。このような練習内容の中でも、自分がドライブ主戦であることからそれに関連した練習を行います。

 ◇速攻型に対する練習

 現在の練習課題としては、苦手とする速攻選手に対する練習を重点にしています。3球目の速攻に対して耐える練習、ショートに対して前陣でのバックハンドなどです。それから、ドライブでいくら押していてもチャンスボールにミスが多いので、ドライブからスマッシュの角度がすぐ出るように、ドライブロングからの強打の練習を毎日欠かしません。
 ときどき卓球関係の人から、バランスをとるのに大分苦労しただろうと言われるのですが、特別にそのような練習をやったわけではなく、またそのようなことを考えたこともなく、無意識のうちに今のような卓球になったわけです。現在になってただ一つ、スマッシュにおいて右腕で引っぱる力があれば、安定性が増しスピードも増すと考えます。これからの目標は、と聞かれることがありますが、スポーツに頂点はなく、目指す山は奥深く険しい。幾度かスランプにおそわれ、苦悩の谷に落ちることはさけられない。しかし、これを一つ一つ征服するには、ただ自分自身しかないのです。自分に勝ち、今までどうにか苦難の道に耐え、切り開いてくることができたのは、卓球へのひたむきな熱意と、幼い時からたたきこまれた精神一到の不屈の精神ではなかったか。過ぎ去れば、どんな苦闘も、その結果得た勝利にふっとんでしまい、楽しい思い出となり、筆や言葉にならぬ、自分だけが味わえる喜びです。
 高校時代から規定された練習以外あまり練習をやらなかった自分を反省すると共に、現在よりも一層強くなりたいと念願しています。

きたむら ひでき
兵庫県神戸商高出、専大3年。
隻腕(かたうで)裏ソフトのドライブ型攻撃選手。昭和39年度全日本学生選手権男子複優勝者、東京選手権混合複優勝者

(1965年5月号掲載)

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