わたしの練習㉝大関行江 根性と気力で苦難を乗り越えて

 わたしが最初卓球というものがあるということを知ったのは、小学校6年生のときだったと思います。夏休みに帰るいなか(長野)の温泉に卓球台が置いてあって、そこでよく卓球をしました。わたしの卓球の相手は、母の妹さんだったのですが、一度も勝ったことがなかったのです。そのたびに、中学生になったら、卓球部に入っておばさんを負かしてやろうと思っていました。

 ◇中学の苦しい練習に耐えて

 さて、昭和36年4月、自宅から歩いて10分の所にある北豊島中学校に入学しました。入学後間もなく、迷わず卓球部に入りました。
 週に3日、卓球台4台を使って、部員男女あわせて、50名がやるのですから、1年生のわたしたちが打たせてもらえるのは、ほんの10分ぐらいでした。でも、わたしたちは、そんな中でも恵まれていました。わたしたちが中学1年に入学したときに、新しく先生になられた小泉先生が、今まで卓球部の顧問をしておられた池田先生とご一緒に、その年からわたしたちの卓球を指導してくださることになったのです。
 今まで、体育館を使える週3回だけが、卓球部の練習だったのですが、このときからはあとの3日を柔軟体操やトレーニングなどでからだ全体を鍛える、という練習が加わったのです。日増しに先生の声も厳しくなり、素振りの回数も1000回から3000回に、ランニングの距離も6000メートルにとふえていきました。そのうちに、最初50名だった部員も、ひとり減り、ふたり減りして10名たらずに減っていきました。
 わたしも何度、もうやめよう、もうだめだ、という気持ちになったかわかりません。今日は小泉先生に言いにいこう。今日は…。そう思って何度も職員室の前をうろうろしました。小泉先生には何度しかられたかわかりません。わたしはそのたびに反省し、努力して行きました。そのうえ、わたしたちは終戦っ子2年目。生徒数が多かったので、1年生のころから、高校受験の重圧が頭におっかぶさっている毎日でした。やめたくなるのもあたりまえだったのかもしれません。わたしの中学校は特に勉強にうるさかったのです。
 でも、小泉先生はよくおっしゃいました。「卓球で学んだファイトやねばりを、勉強に生かすんだ。そのねばりやファイトで勉強すれば、卓球にも勉強にもプラスになる」「やるんならとことんまでやるんや。途中で投げ出すんなら、最初からやるんやない」「ぼくもがんばるから、君たちもがんばってくれるか」…。こんなことをおっしゃる小泉先生だから、勉強と卓球とを両立させることの苦労、つらい練習に耐えることの苦労をよく知っておられたのでしょう。
 わたしたちが中学1年の秋、府下の中学校団体戦で、準々決勝は“四天王寺”との対戦でした。当時、四天王寺の中学校には阪本さんが3年生、小野さん、大村さんが2年生におられました。残念にも1対3で負けたわたしたちは、このとき四天王寺という名前を知りました。不思議なもので、そんな強い人たちと同じ所で練習することになろうとは、そのとき夢にも思いませんでした。
 わたしたちが中学2年生になったとき、女子部員は6名に減っていました。3年生の人たちは練習にあまり出てこられませんでしたので、実質的には女子のチームワークはわたしたちが中心でまとめていかねばなりませんでした。このときになって、クラブ活動というものの、スポーツというものの良さやつらさを、いろいろじかに身にしみて感じました。得がたい、今になっても忘れられない友人もできました。
 試合にもよく出かけました。学校で練習ができない日は近くの他の学校を借りて練習しました。

 ◇試合に負けて奮起

 中学2年生の秋、団体戦で四天王寺と準々決勝を争ったとき、3年生の野間さんと対戦して、ほんとうに力いっぱいがんばったのですが、2対1で負け、このとき、試合に負けたくやしさを、初めて知ったのだと思います。その後、いっそうつらい、しんどい練習、厳しい小泉先生の声、日曜も祭日もない練習で明けくれする毎日が続きました。
 3年生になったときには、3年部員は男子3名、女子3名と減っていました。そのうえ、1、2年生のリードという重い責任が加わりました。わたしもここまでがんばったのですから、もう卓球部をやめようという気持ちなんか少しもおこりませんでした。それよりも、もっとじょうずになりたいという気の方が強くなったのはこのころです。
 いよいよ中学生活最後のチャンス、夏の大会です。8月9日、団体戦のベスト8で涙をのんだわたしは、あくる日の個人戦で準優勝しました。8月22日、上六卓球センターで行われた近畿大会でも準優勝でした。
 わたしは、中学で一度も優勝することができませんでした。
 高校の入学式の日、四天王寺で練習をしました。その日は、うれしさと不安とで胸がいっぱいでしたが、いったん練習場に入ると、先生方や先輩、後輩の方がやさしくしてくださって、本当に四天王寺に来てよかったと思いました。

 ◇高1の6月にピンチが

 一つのことをくわしく理論づけて説明してくださり、北中の卓球部では得られないことも少なくありませんでした。それからは毎日夢見ごこちで学校に通いました。でも急に、高1の6月ごろ卓球がいやになり、家に帰ってから、中学校の先生にクラブをやめたい、と言って電話をかけたことがありました。そのとき、先生は、「高1の6月ごろが一番卓球がイヤになる時期だから、少しの間、ガマンすればそんな気持ちはなくなる」と言ってくださいました。
 わたしもそう思い、毎日卓球に打ちこみました。でも卓球がいやになることがたびたび、そのつどなんとか乗りきれてここまでやってこれたのです。
 わたしが本格的に卓球を始めてから、満5年がやってきますが、その間、本当に幸せだったと思います。わたしは、元来わがままで泣き虫だったのですが、そのわたしを支えてくれたのは、たくさんの人々にめぐり会えたからです。四天王寺の田中先生をはじめ、吉村先生、そして愛泉へ行かれた佐藤先生などには本当によくしてもらっています。そのうえ練習から帰るのが毎日夜の10時すぎです。そのわたしのために、母が食事の仕度をして待っていてくれます。少し帰りがおそかったり、急に雨が降り出したりすると母が駅まで、迎えにきてくれています。ひとに感謝することなど少しも知らなかったわたしが(すまないなあー)とこんな気持ちになることもしばしばでした。
 わたしは佐藤先生に教えていただきましたが、技術面だけでなく、精神面でもいろいろときびしく指導してくださいました。高1の夏、足をけがして練習を休み、いままで入っていたボールが入らなくなり、だんだんと自信をなくしているとき、先生が元気づけてくださいました。そしてその年の11月、知事杯に優勝することができました。初めての優勝でしたので、天にものぼる思いでした。その月の1年生大会があってそのときも優勝することができました。12月に全日本がありましたが、2回戦で負け、こんどこそ絶対にがんばろう、練習も思いきってやらねばならない、と誓ったことを覚えています。

 ◇ツッツキ打ちを強化して優勝

 去年8月のインターハイでは、あまりコンディションはよくなかったのですが、ランク7位になれ、最高の気持ちでした。ランク入りしたとき、真岡女子高(栃木)の田村さんとあたり苦戦しましたが、佐藤先生が、観覧席から一生懸命指示してくださったので勝てたのだと思います。次の横山さん(青森商)とやったとき、ツッツキばかりで攻撃力がなく惨敗してしまいました。
 この試合は、これからカット打ち、ツッツキ打ちをもっと強化しなければならないことを教えてくれました。
 国体に優勝し、そして全日本ジュニアの部に優勝することができました。これは、日ごろ、わたしを指導してくださった方々、練習相手をしてくださった人たちのおかげだと思います。
 今はもう高2の終わりですので、高3になってからのことがいろいろと心配です。わたしたちだけでやっていけるかどうかわかりません。でも、それをやっていくのがわたしたちの義務だと思います。これからの試合において追われる身ではなく、追う身で行きたいと思います。
 これからの1年間、わたしにとって、どんな年になるかわかりませんが、ただ根性と気力を持って、ぶつかって行きたいと思います。

おおぜき ゆきえ
大阪府四天王寺高2年。ペンの速攻選手。
昭和40年度全日本女子ジュニア優勝者

(1966年3月号掲載)

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