わたしの練習㊶浅田重光 バックカットとレシーブ

 私が初めて卓球をしたのは、中学1年の1月1日でした。それまではプロ野球選手を夢みて、1日も練習を休むことなく野球に励んでいました。私が卓球に興味を持ちだしたのは、姉が県下中学対抗に優勝したころからでした。姉に卓球をすすめられたときは大変迷いましたが、思いきって卓球部に入部してみました。最初はペンホルダーでやるつもりでしたが、姉がシェークのカットマンであったので監督さんにカットマンになれと言われ、シェークのカットマンになりました。

 ◇恵まれた環境で

 中学の練習は、ロングやカットそれにゲームを中心にやりました。しかし1年のときは、ボール拾いと素振りがほとんどでした。2年になり初めてボールを打ってみましたが、思うように打てず監督さんによく注意をうけました。中学の監督さん(浅井先生)は大変卓球に理解があり、1日も練習を休まずに出てこられました。3年のとき、男女とも県下中学対抗に優勝することができたのは、浅井先生の熱心なご指導のおかげと心から感謝しています。中学時代も終わりに近づくにつれ、高校入試という問題がおきてきました。浅井先生に勧められ、卓球の名門名電工に入学できました。
 名門校だけあって、野田先生をはじめ安藤先生、市川さんなどよいコーチの方がみえよくアドバイスをしていただきました。1年のときは3年に長谷川さんという強い方がおられましたので、長谷川さんを目標に練習に励みました。1年のときの練習内容はフットワーク、フォア・バックカットとショートが多かったです。高校生になり初めてのインターハイがやってきましたが、予選の前に盲腸炎で入院してしまい予選にも出ることができなかったので、全日本ジュニアの予選にがんばろうと思いました。幸運にも予選に通過することができ、初の全国大会に出場しましたが、1回戦で負けてしまいました。
 2年生になり、インターハイの前に貧血で入院してしまい、またもインターハイ出場の夢は破れてしまいました。全日本のジュニアに再び出場することができましたが、2回戦で青森商の中村君に負けてしまいました。そのころ私は、カットマンと前陣速攻の選手に勝つ自信はほとんどなく、試合前にシェークのラケットを見ただけでだめだと思うくらいでした。2年のときの練習は基本練習が多く、練習時間は約8時間でした。

 ◇合宿、海外遠征、日中対抗などで学ぶ

 2年のときに日本卓球協会の合宿に参加させていただき、自分の卓球に大変役立ったと思います。合宿の練習時間はあまりきびしくはなく、むしろ学校の練習の方がきついと思いましたが、木村さん、高橋さん、三木さんなど強い選手に練習していただいたことは、学校で練習するよりなにかちがうものを覚えることができたと思っています。それと2年生で一番印象に残ることは、やはりソ連・欧州遠征だと思います。私はこれまでカットマンに大変弱かったので、この機会にカットマンの本場でその戦法を覚えてこようと思いました。この遠征で特にフットワークと攻撃力の重要性を知り、帰国してから特にこの二つの練習を行いました。この二つの技術をマスターするに必要なトレーニング(ランニング、ダッシュなど)を毎日行いました。遠征から帰ってきたら、私は3年になっていました。名電工の3年になった以上、先輩たちの輝かしい伝統を受け継がなくてはと、私たち3年生4人は非常に責任を感じました。
 5月には日中対抗があり、幸運にも出場のチャンスを与えられました。私は速攻選手にはあまり自信はなかったので、自分の卓球で中国選手にどれくらい戦えるか心配でした。試合に先だって行われた日中対抗合宿では、特にサービス、レシーブに重点をおいて練習しました。しかし、第1戦東京大会の許紹発(孫勇博)との対戦ではレシーブが浮いてしまい、攻撃をけいかいしすぎて台から離れすぎ、このためストップボールの処理と両コーナーへのスマッシュにより完敗しました。馮連恩との試合では変化をつけて相手の凡ミスをさそい、初の1勝をあげることができました。
 初の中国選手との対戦で感じたことは、試合は自分にとってはやりやすいと思っていましたが、サービス、レシーブ、3球目まででほとんど勝負が決まってしまうような気がしました。第6戦名古屋大会では、馮連恩と2度目の試合をしました。このときは相手も、東京大会のように、私のカットの変化にはかかりませんでした。結果は東京大会のときより接戦になり、相手の凡失で辛勝しました。結局、日中対抗に参加して特に感じたことは、自分のレシーブの悪かったことと3球目の攻撃力の重要性を知りました。日中対抗後は、サービス、レシーブに重点をおいて練習しました。

 ◇攻撃力の強化と対カットマンの練習

 日中対抗の後は、インターハイを目標とした練習を特に多くしました。インターハイの前に、福井県で中部日本選手権がありました。この試合では、ダブルスの部で水上さん(中大出)と組んで決勝に進出することができましたが、セットオール11-18でリードしていながら私のサービスミスなどの凡失でジュースになり、ばん回され負けてしまいました。この敗戦で最後まで気をゆるめてはいけないことを身にしみて感じ、水上さんに大変すまなく思いました。ジュニアの部では決勝まで勝ち進み、同じ学校の田中君と戦うことになりました。田中君とは県内の大会で2連敗していたので、あまり自信はありませんでした。しかしダブルスの敗戦の後であっただけに、どうしても勝ちたいと思い、セットオールの末3度目の正直で勝つことができました。私にとりこの試合は県外での初めての優勝であったので、大変自信がつきました。
 中部日本大会から帰ると、すぐ東京で強対本部主催の合宿があり、荻村さんをはじめコーチの方々にいろいろアドバイスを受け、私にとって合宿は大変有意義なものでした。高校生活最後の目標であるインターハイが近づくにつれ、あせりの気持ちが出てきました。しかしここまできたからには、なんとかしてよい成績をおさめたいので、自分の欠点を少しでもなくすように努力しました。インターハイ前の練習は特に攻撃力の強化と、対カットマンの練習を多くしました。特に団体戦が目標なので、愛工大の選手と時々対抗試合をしてもらい、チームワークの強化に努めました。
 いよいよ青森へ出発の日、調子はあまりよくなく、少し心配でしたが、もうここまできたら本大会で全力をつくすだけだと心を決めて青森へ向かいました。試合の前日、練習場へ行き練習を2時間くらいしましたが調子がよくなく、終わってから野田君とまたふたりだけで練習に出かけ、1時間半くらい皆より余計にしました。8月11日開会式の後、団体戦から始まり第1日は4回戦まででした。この日は着実に勝ち進み、選手たちは緊張がときほぐれるとともに調子も上がってきました。
 2日目の第1試合は強敵熊谷商工(埼玉)との対戦でした。この試合は1年生の内藤君の健闘により、かろうじで勝つことができました。準決勝は平安高校でしたが3-0で勝ち、決勝に進出することができました。決勝は宿敵青森商、なんとか勝ちたいと思い全員一丸となって決勝にのぞみました。が、前半のリードもむなしく、逆転され負けてしまいました。全員でこのくやしさをかみしめました。
 個人戦に入り、団体戦の敗戦でともすると気が沈みがちになるのを、皆で励まし合って1戦1戦に歯を食いしばりがんばりました。1年間の練習の苦しみも喜びに変わるときがきました。シングルスの決勝で、柴田選手(宮城・仙台工)を破り優勝することができたからです。この結果は自分ひとりでなされたことではなく、監督さんをはじめ先輩や球友などのコーチ、練習相手あるいは励ましのたまものだったと思っております。
 インターハイから帰り、すぐに中国遠征のための合宿に参加しました。この合宿では主にストップボールの処置のための前後のフットワークの練習、体力トレーニングではバーベルを用いて腕の筋力トレーニングなどを行いました。中国遠征に参加し特に自分に必要だと思った点は、まずカットの安定性、コースを考えること、フォア前に小さく出されたサービスのレシーブ強化、それと自分も動くが相手も動かせるようにするような練習を、今後もっと練習しなくてはいけないと思った。
 今私は練習を毎日5時間ほどしています。特に中国遠征から帰りバックカットの強化とレシーブを多く練習しています。多くの試合、遠征などで学んできたことを今後の練習の課題に取り入れて、さらに前進していきたいと思います。

あさだ しげみつ
名古屋電気工業高校3年。
裏ソフト、シェークのカットマン。春のソ連・欧州遠征、春と夏の日中対抗日本代表。昭和41年度全国高校No.1

(1966年12月号掲載)

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