わたしの練習㊹森沢幸子 カット打ちとバックハンド

 私が卓球を始めたのは、中学1年のときです。姉が卓球をやっていた関係で、姉のすすめもあって卓球部へ入部したわけです。体育館もなく、教室の机やいすをかたづけてやるような状態でした。たった1台しかない台は、上級生が使用するので、1年生のときは台をならべることと毎日500回ぐらいの素振りばかりでした。台に向かって練習できたのは、1年の終わりごろだったと思います。クロス打ち、ツッツキ、フットワークと、中学時代は基礎練習が主体でした。高校も姉の後を追って尚絅(しょうけい)高校に入学。台は6台ぐらい、練習も豊富になり1日に3~4時間、日曜祭日は朝10時ごろから自分のやりたいだけやるようになっていました。練習はあまりきびしくなく、1年のときは1年同士でやり、フットワーク、ツッツキ打ち、サービスと3球目攻撃など、そして月に1度ぐらい試合練習をやっていました。2年になると、コーチの先生に3日に1度ぐらい相手をしてもらい、ひとりに1時間、フットワーク、ツッツキ打ち、ショート打ち、カット打ちと基礎をやり、最後にゲームをやってもらいます。そのころは何度試合をやっても勝てませんでした。10月末の熊本国体の前に何回か合宿が行われ、その合宿を境にだんだんと進歩し、国体に出場できました。コーチの先生にも勝つようになり、それからというものは夢を大きく持ち、絶対に卓球をやり通そうと決意しました。土曜日や日曜日は学校の練習が終わっても満足できず、他校の男子の人に相手してもらい、ゲーム主体に練習をやってもらったように思います。その練習のかいあって、九州大会で優勝。インターハイでは良い成績を残すことができませんでしたが、専修大学に進学しました。

 ◇トレーニングとスランプと

 大学は、同じ目標をもった選手が全国から集まり、恵まれた環境の中で先輩の方たちの指導を受けました。高校時代味わうことのなかった、きびしい寮生活、道場(練習場)、上級生と下級生との関係など、卓球に苦しみ、楽しい充実した生活を送ることができました。
 トレーニングは、高校時代は柔軟体操ぐらいだったのに、大学は朝7時半から8時半までの1時間、トレーニングの時間があります。ランニング4~5㌔、柔軟体操、腕立てふせ、腹筋が主体。1年のころは、みんなについて走ることができず、皆が柔軟体操をやっているころに道場に帰ってくることがたびたびありました。体力面においては何事もみんなについて行けず、1年の後期の試験中、自由練習になったとき、練習よりもトレーニングに時間をかけ、同級生と毎日時間を見つけ、体力をつけるため自主トレーニングを1ヵ月間くらいやりました。
 2年生になるころは、苦手のランニングもみんなについて走れるようになりました。しかし、2年の終わり、ひざを悪くしてまた逆もどりの状態になり、そのまま現在に至ってトレーニングは苦手になってしまいました。
 技術面においては、1年生のころはただ少しでも上級生に追いつくように、がむしゃらにがんばりました。回りにいる人みんなが強い人たちばかりで、見るだけでも相当の勉強になりました。そして、上級生の良いところで自分に必要と思うものは、どしどし自分の卓球に取り入れていきました。が、2年生の7月の終わりころ、技術的にも精神的にもスランプ状態で、半分は卓球をあきらめ、やめる覚悟でした。そのとき、先輩から「ラバーを裏ソフトに変えてみてはどうだ」と言われたのですが、自信はないし8月の大学対抗はそのまま表ソフトでとおしました。大会が終わって家に帰り、自分なりに考えてみてもやめることばかり浮かんでくるし、姉に相談すると「それほどまでにやりたくないんだったら、自分の好きなようにしたら」という意見でした。
 そのとき、関東学連の合宿に選ばれ、裏ソフトに変えて参加しました。リーグ戦があり、9勝ぐらいしたので、やれるかもしれないと考えなおしました。目の前に控えている東日本学生でがんばってみよう、ある程度の目標を立てそれでだめだったらと思い、夢中で練習しました。1日も早くラバーに慣れるために、特にショート打ちを多くし、また相手に台についてもらって強く速く打ってもらい、自分は台から少し離れてミートを強く打ち返す練習、サービスと3球目攻撃、ショート対ショートから回り込んでの強打、ショートのオールサイド練習など、自分で悔いのない練習をして東日本学生にのぞみました。苦戦の連続でしたが決勝に進み、関選手(当時中大)に3対1で敗れましたが、悔いのない成績を残し、ほんとうに卓球をやってよかったと思いました。
 何度もにがい経験をして3年生になり、全日本選手権に初めて参加でき、それまでは規定練習以外にやったことのない私ですが、ベスト4入りを目標に今まで以上の練習をやりました。自分の得意とするバックサイドの回り込みを早くするため、また勝ちぬくためには体力も必要ですが、私は足が悪いのでトレーニングの少ない分、練習を多くやったわけです。努力のかいあって、ベスト4に入ることができました。
 そのあと発表された第28回世界選手権代表に洩(も)れ、あきらめきれず、1週間ぐらいなんともいえない気持ちで過ごしました。そして来年の全日本は学生生活最後だしがんばろう、と誓いました。

 ◇オールラウンドプレーを目ざして

 練習は1日に4~5時間ですが、人数が多く台が2~3台なので個人の正味の練習量は少なかったのです。大学の規定練習は、クロス打ち、フットワーク、ショート打ち、ツッツキ打ち、サービスと3球目攻撃。そして、ゲーム練習は勝ち抜きがほとんどでした。上級生になると、一人一人に心の中でハンデをつけて試合をしたり、1セットだけ思い切りやり、2セット目は相手に打たせて不利な立場から挽回(ばんかい)したり、相手の強いところだけをついて試合をやり、自分の卓球に幅を広げていきました。30分の自由練習のときはカット打ちに重点をおいてやったつもりです。
 そして学生最後の全日本選手権(昭和40年)。全日本学生は準決勝で同じ学校の下山さんに敗れ、この大会に全力を尽くす覚悟で、関さんひとりを目標に練習しました。関さんとは在学中4回対戦して全敗、私の卓球と全くちがうし一番苦手な相手です。コーナーいっぱいに動かされるのがわかっていたので、特に速いショートでのオールサイド、ツッツキ打ち(1本でも先に打つため)、フォア前のショートサービスのレシーブ(3球目をバックサイド深く打ってもらいショートで返球)、相手にサービスを出してもらい3球目を攻めてもらってその後の処理、などを練習しました。
 そして、いよいよ準々決勝の対関戦にのぞみました。3対1で勝ち、すごくうれしかったです。準決勝からは勝ちたいという気持ちを捨て、思い切り相手にぶつかって行きました。幸運にも決勝戦に残り、相手は4年間共に苦しみぬいてきた、しかもダブルスのパートナーである下山さん。私は、全日本学生で敗れているし、相手の卓球がわかっているだけにやりにくい点もありましたが、思い切り戦うことができて念願の優勝をすることができました。その瞬間泣くまいと思いましたが、今までの苦しかったことや、いろいろな思い出が浮かび、そして学生最後の大会と思ったとたんに涙がこぼれました。
 そして、41年には幸運にも2月末からのソ連・欧州遠征のメンバーに選ばれ、苦手のカットを相手に約2ヵ月の遠征をしました。大学を卒業して、卓球に理解のある会社に入り、学生時代よりも練習が豊富になり、よく“一発屋”とか“調子の波がはげしい”と言われますが、自分でも努力しているつもりです。そして、私の一番の課題であるカット打ちを中心に、バックハンド、そしてソ連・欧州遠征でつなぎのボールにドライブが効果あることを知り、ツッツキ打ちにしても1発で打つだけでなく、ドライブをかけて次のボールを攻める練習、などオールラウンドプレーを目ざして練習しています。
 現在は、アジア大会、世界選手権とメンバーに選ばれ、つきについている感じがします。それに負けないだけの努力をし、がんばって行きたいと思っています。

もりさわ さちこ 東京・大生信用組合勤務。
裏ソフト、ペンの攻撃選手。全日本No.2。
熊本県出身、専大出


(1967年5月号掲載)

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