わたしの練習118内田雅則 戒めをもって尊重される選手に

 ~卓球との出会い~

 私が初めて「卓球」に出会ったのは笹岡中央小学校(岡山県)の4年生になってまもなくの頃でした。家の近くにあった公民館の前を通りかかった時のことです。
 "ピン、ポン"の心地よい響きが耳に入ったのです。私は、引き寄せられるように公民館の中に入り、音のするほうに目をやりました。そこには、卓球台が2台置かれていて、高校生が白球を打ち合っていました。
 私は時間が過ぎるのも忘れて見入りました。家に帰ってからも、高校生の姿が脳裏からはなれませんでした。
 公民館は、毎週土、日曜日は一般に開放されていましたので、毎週土、日曜日になると、待ち切れない思いで見学に行ったものです。そして、何度目かの時でした。「やってみるか!」と声をかけられたのです。私の気持ちは弾みました。それから一緒に卓球をさせてもらえるようになったのです。

 ~中・高校時代~

 中学生になったら「絶対に卓球をやろう」と心に決めていた私は、笹岡東中学に入学、喜び勇んで卓球部に入部しました。が、練習場は、教室の机、椅子を片付け、その中に卓球台2台を運び入れたところでした。それに、練習は3年生からコートにつくというかたちでしたので、1年生はなかなかボールを打つことはできません。もっぱら「素振り」の練習でした。
 私としては、小学生の時から高校生と練習していたこともあって、何か物足りなさを感じていました。しかし、それからまもなくして体育館が建てられ、卓球部も体育館で練習できるようになり、大喜びしたものです。
 当時、練習時間は放課後3時間ぐらいでした。練習といっても、毎日1時間以上はフォアハンドのクロス打ちで、それにショート打ち、ツッツキ等を時間を決めて練習したぐらいです。その後、オールラウンド、ゲームという具合いで、難しい練習、高度な練習はほとんどありませんでした。「基本」といえるものばかりでした。しかし、今になって思えば、中学時代に初歩的な基本をしっかりやっていてよかったと感じています。
 近大福山高校に入ってからは、内田先生の熱心な指導のもと、インターハイをめざして取り組みました。練習時間も毎日4時間ぐらいになり、中学時代はほとんどしていなかった体力トレーニングの量も増え、始業前のランニングやウエートトレーニングも始めました。
 練習内容は、日によって異なりますが、主に、㋑フォア打ち20分 ㋺フットワーク(左右)5~10分 ㋩ショート打ち ㋥ドライブ練習...でした。
 その外、応用練習として特によくやった練習は、サービス+3~5球目攻撃のシステム練習です。㋑バック前にサービスを出し ㋺バックにツッツいてもらい ㋩相手のバックにループ ㋥ショートでオールに返してもらい ㋭フォアハンドスマッシュ...という方法です。
 こういった練習の成果があらわれ、'73年の"伊勢インターハイ"では、団体3位、シングルスでベスト8〔優勝した阿部選手(興国高)に敗れた〕に入ることができました。反面、中学時代は本当に楽しく、また、遊び的なところがあったのですが、高校時代は練習の激しさだけでなく、先輩、後輩の関係が厳しくて、授業時と寝る時だけが心のやすまる時だったといえます。いまでも、当時の思い出、印象が強く頭の中に残っています。

 ~近畿大学時代~

 大学は近畿大学に進学しました。大内先生はじめ、高島さん、安田さんなど、素晴らしい先輩たちに囲まれ、本当に恵まれた環境でした。
 大学に入って一番驚いたのは、練習時間、トレーニング量の多さです。入部直後2ヵ月間ぐらいは、それこそ"足が棒のようになった"のを覚えています。
 当時の近大の練習時間は、午前9:00~午後5:00までが規定の練習時間で、授業や特別の用事がない限り参加しなければなりませんでした。それでも、部員約40名に対して卓球台は3台しかなく、十分な練習ができないということで2グループに分けて練習時間をずらしたり、外の練習場に行ったりして練習量を補っていました。
 簡単に練習時間、練習内容をあげてみますと、
 午前9:00~12:00...トレーニング、フットワーク(左右)20分、課題練習20分
 午後2:00~5:00...勝ち抜きゲーム
 トレーニングでは、㋑長距離走(大会まで期間がある場合は約10km、大会直前は3~4km)
㋺ダッシュ ㋩縄飛び ㋥腕立て ㋭腹筋...などです。
 打球練習では、下級生の頃は常に上級生が相手ということもあって、流す(力を抜く)ことができず、とにかく必死でした。フットワークが終わると、毎日ホッとしたものです。
 先輩が練習相手であったり、まわりで他の部員が見ているから一生懸命練習するというのではいけないんですが、自分一人ではどうしても甘くなりがちです。その点で、近大は厳しさもあり、練習場が狭いこともあって、練習状態がよく分かる環境だったことが幸いしたのではないか、と思っています。
 勝ち抜きゲームでは、勝てば何ゲームでもできるのですが、負けると1時間ぐらいは待たなければなりません。ですからゲームに臨む選手は真剣そのものでした。

 ~「練習すれば強くなる」~

 規定の練習が終わっても、ほとんどの選手はコートを奪い合って練習時間の確保につとめていました。そんな状態ですから、下級生はなかなか練習量の確保はむずかしいはずなんですが、私の場合は本当に恵まれていました。大内先生に多球練習で鍛えていただき、高島さん、安田さんの練習相手に選ばれていましたので、練習量は十分とれたのです。しかし、今になって初めて練習相手に選ばれたことを幸運に感じていますが、当時の私は、規定の練習が精一杯で、それ以後は多少消極的だったように思います。いま考えると悔やまれてなりません。
 大内先生との多球練習は、先生にボールをトス(送球)してもらってのシステム練習です。ドライブ、スマッシュ、バックハンドなどで、フットワークを使っての組み合わせが主でした。また、マシンを使ってのシステムとか、時にはフットワーク2時間というのもありました。
 高島さんとの練習では、当然カット打ちです。高島さんのカットは非常に安定しているので、私がミスしない限りラリーが続くのですが、その頃の私は、決してカットが打てると言えるものではありませんでした。
 そんなある日、高島さんの練習相手として、熱海の樋口先生のところへ3日間の合宿について行くことができたのです。そして、3日間ぶっ通しでカットを打ち続けました。この頃からカットマンに対していくらか自信がついてきました。同時に、カット打ちをすることによって、㋑ドライブのフォームの安定 ㋺スイングの速さ ㋩ミートの強さ ㋥腰の入り...につながり、ドライブに威力が出たように思います。
 熱海での合宿後、関西学生秋季リーグ戦が始まり、3回出場させていただき、3戦とも上級生のカットマンと対戦し、いずれもあまりポイントを与えず勝てたのです。この時ほど、「練習すれば強くなる」ことを身をもって感じたことはありません。
 上級生になるにしたがって、自分の欠点を再確認し、それを補う練習も取り入れるように努めました。その結果、3~4年時は全日本選手権でベスト8に入ることができたのです。

 ~自分に戒めをもって~

 社会人になってからは、大学時に比べ練習時間がかなり少なくなりましたが、練習内容としては多球練習をあまりしなくなった以外は、ほとんど変わっていません。ただ時間が短くなった分だけ、できるだけムダを無くし、より効率良く練習するように心がけました。
 それと、学生の時は攻撃練習が主だったのですが、社会人になってからは、レシーブからのディフェンス、およびアタックの練習に力を入れるようになり、多少成績が安定したのではないかと思っています。
 社会人になると、一人の人間として尊重されるようになり、練習でも自分に対して甘くなってしまいがちです。が、そういったことに気をつけ、少しでも自分に戒めをもって臨みたいと思っています。
 これからそんなに長くは選手として続けられませんが、卓球ができる間は、会社のため、そして自分のために精一杯がんばりたいと思います。

うちだまさのり
近畿大学→日本楽器
右、ペン、裏ソフトドライブ主戦型。
ショートサービスからのドライブ戦の強さには定評がある。
'76年全日本ベスト8に入った後、常に上位にランクされている。
今春の世界大会日本代表。


(1983年12月号掲載)
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