「世界一への道」長谷川信彦 ―人の3倍練習し、基本の鬼といわれた男―3

 人の3倍練習してやる
 期待に胸をふくらませ、名電高校に入学してから3カ月。だが、信彦はラケットを見るのも嫌になっていた。毎日毎日、素振りのフットワークばかり。台についてフットワーク練習をすれば、これもミスばかりで、「精神棒」で何度もたたかれた。合宿所ではつらい雑用が待っていた。
「もう嫌だ。名電高校をやめて帰ろう」
 何度そう思ったかわからない。だが、信彦はそのたびに思いとどまった。
「自分は両親にあれだけ迷惑をかけて名電高校に入れてもらったんだ。後藤先生に拾ってもらったんだ。強くなるまでは帰るわけにはいかない」
 そんなある日、信彦はふと思った。
「自分はこれだけたくさんの練習をしているんだ。素振りのフットワークなんて、毎日1000回以上もやってる。絶対に強くならなきゃ損じゃないか。今、人よりも劣っているんだったら、人の2倍でも3倍でも練習する。絶対強くなるぞ」
 そう思ったときから、練習に対する態度ががらっと変わった。初めてフットワーク練習に対して、自分から前向きに取り組みだしたのだ。
「どんなボールでも、絶対に追いついて、コートに入れてやる」
 さらに自分が打っていないときにも、先輩が練習しているところを見て、いいと思ったところはどんどん盗もうとした。人の練習をただ見ているのではなく、じっくり観察し、自分との違いを見つけたらそこを直していく。中学時代に名選手のフォームを連続写真で見ながら、自分のフォームを直していったときと同じである。
 このとき信彦はあることに気づいた。フットワークのいい選手は、足をほとんど止めていない。打った後すぐに足を小刻みに動かし、次の球に備えているんだ。だからボールに対する反応が早いんだ。このことに気づいた信彦は、実際にやってみた。すると今までよりも、大きく、速く動けるではないか。こうして、1年生の夏には、コート全面にランダムに送られるボールに対して、何とかオールフォアで返球できるようになっていた。
 夏休みの練習は朝9時から夜9時まで、食事の時間を除くと、ぶっ続けでやった。夏の間、信彦はほとんどの時間をフットワーク練習に費やした。非常につらい練習だったが、ラリーが続くようになった信彦にとっては、楽しい練習でもあった。
 またこのころには、グリップを一本差しに戻していた。入部当初、先輩からは変えるように厳しく言われていた一本差しだったが、信彦はさんざん苦心した挙げ句、自分にはこのグリップしかない、とあらためて思い直し、元通りでやっていこうと決意した。
 そうして、夏休みの終わりには、フットワークもよくなり、急速に力をつけていった。
 練習態度が変わると、私生活に対する気持ちも変わった。夏休みに入りしばらくして、実家に帰ったときのことだった。家に着くと信彦はすぐに母親に向かってこう言った。
「何か手伝うことはない?掃除でも洗濯でも何でもやるよ」
 信彦は、合宿所で雑用をしているうちに、家事の大変さを、身をもって感じたのだ。そして、今まで自分の母親がどれだけ大変なことをやってきたか、ということを考え、家に帰ったらたくさん手伝いをしよう、と思ったのだった。家での手伝いは、合宿所での雑用に比べればとても楽だった。結局、信彦は家にいる間も常に何かの手伝いをやり、休もうとしなかった。
「厳しい合宿生活で、心が鍛えられた。それで人間的に成長した。そのおかげで卓球の技術も、伸ばすことができたんだ」
 芽生え
 その年の10月、全日本選手権大会ジュニアの部愛知県予選、何と信彦はベスト4に入って全日本選手権大会へ出場することになった。しかも決定戦では、同期で中学時代には愛知県でナンバーワンだった深谷を破っての勝利であった。高校に入学してからまだ半年。本格的な練習を始めたのは高校に入ってからで、フットワーク練習がまともにできるようになったのは、夏になってから、というのに、早くも全日本選手権大会に出ることになったのである。
 入部当初は、信彦がここまで強くなろうとは、先輩たちの誰1人として考えていなかっただろう。ラリーがまともに続かず、そのうえグリップがおかしかった信彦は、誰からも認められていなかったのだ。しかし、高校入学後に地道なフットワーク練習をたくさんやったことで、もともとスピードのあったドライブの威力が増し、この成績につながったのだ。その素晴らしいドライブを支えたのは、中学時代の素振りであったのは言うまでもない。
 そして同じ年の暮れ、浅草台東体育館で行われた全日本選手権大会。信彦は「2~3回は勝てるのではないか」と考えていた。ところが1回戦、青森の村上になすすべもなく、破れてしまった。
「こんなきれいな体育館なのに、もう試合ができないなんて」
 そう思うと信彦は悔しくて悔しくてたまらなかった。試合が終わった後、体育館の隅で1人で涙を流した。だが、このとき信彦は初めてはっきりとした目標を持った。
「来年のインターハイでは必ず、2~3回は勝つ」
 それまでは、ただ漠然と強くなりたいとか、一流選手になりたいといった目標しかなかったが、明確な目標を持つことで自分のやるべきことが具体的に見えてきたのだ。信彦は全身が熱くなっていくのを感じた。
 課題と工夫
 全日本選手権大会が終わり、学校に戻って初めの練習のときだった。信彦は初めて自分から「フットワークの練習をお願いします」と先輩に頼んだ。全日本選手権大会での敗因を分析し、考えた具体的な課題は次のようなものだ。
 第1にレシーブの強化である。レシーブから威力のあるボールを打てることが、強い相手に勝つためには、不可欠だと思ったのだ。
 第2に、ドライブの威力を高めること。自分の一番の武器がドライブであることはわかっていた。その武器の威力をさらに高めていけば勝てる、と考えたのだ。
 そして最も重要だと考えたのが、フットワークを今まで以上に強化することだった。どこに打たれても威力のあるボールを、自分から打たなくてはいけない、そう考えた信彦は今まで以上にフットワーク練習をやろうと強く決心したのだ。
 信彦から初めて頼んだフットワーク練習、相手は信彦の気迫のこもった言葉に驚いたのか、ボールの送り方が少し甘くなった。
「もっと大きく振り分けてください」
 信彦は大きな声で言った。大きく回されれば、当然ミスは増える。ノータッチでミスをすれば精神棒でたたかれるのは変わらない。だが、信彦はそんなことはまったく気にならなかった。
「ノータッチは卓球選手の恥だ」
 間に合わないようなボールでも飛びついて取りにいき、いつも全身あざだらけになった。毎日すさまじい気迫で、1時間はフットワーク練習をやった。そして、夜のゲーム練習。毎試合何らかの課題を自分なりに考えてやっていた。レシーブからすべて払っていこうとか、3球目は絶対にフォアでドライブをかけていこう、といった具合にだ。
 信彦は卓球にそれまでとは違う楽しさを感じていた。それまでは卓球をただ「やっている」だけで楽しかった。しかし、このときから「頭を使う楽しさ、工夫する楽しさ」が加わったのだ。自ら目標を持ち、課題を考え、主体性を持って練習をやる。1球1球を大事にして、2度同じミスを繰り返さないようにする。信彦はそれまで以上に卓球が楽しくなり、卓球が好きになった。
 試合運びの重要さ
 翌年の春、名電高校は大阪遠征に行った。遠征の4日目、相手は「大阪ベテラン会」というクラブチーム。信彦は内心「何でこんな年よりの相手をしないといけないんだ」とあまり気合が入らなかった。
 ところが1試合目、信彦はあっさりと負けてしまったのである。そんなばかな、と思いまた試合をやってみてもまた負けてしまう。何度やっても結果は同じだった。
「自分の方が、フットワークもいいし、ボールの威力もあるのに何で負けたんだろう?」
 信彦は考えた。
「そうだ、あの人たちは相手の逆を突くのがうまいんだ」
 信彦はこのとき初めて試合運びの重要さに気づいた。
「ボールに威力がなくても、相手の心理の逆を突ければ試合で勝てるんじゃないか」
 そう思った信彦は、学校に戻ってから先輩とのゲーム練習のときに、それを意識してみることにした。すると自分が強いボールを打たなくても、おもしろいように点が入る。そうやって、今まで勝てなかった先輩に勝てたのだ。こうして信彦は名電高校の中でも次第に負けなくなっていった。
「練習試合というのは、高い意識を持ってやれば、1試合で時には1カ月分の練習と同じだけの効果があるんだ」
 迷いを振り払い
 高校2年の夏、インターハイ愛知県予選の団体戦。最初、信彦は補欠の予定だった。本人は当然不満だったが仕方がない。自分では強くなったとは思っていても、一本差しグリップのせいで相変わらず周囲の評価は低かったのだ。
 ところが予選期間中に、レギュラーの1人が風邪をひいてしまったのだ。そこでやっと出番が回ってきた。信彦はこのチャンスを逃してなるものかと、死に物狂いでがんばった。その結果団体戦に全勝し、それ以降はレギュラーとして認められるようになった。個人戦でも予選を勝ち抜き、初めてのインターハイ代表となったのだった。
 迎えたインターハイ。信彦は団体戦でレギュラーとして出場した。チームは惜しくも青森商業高校に敗れ準優勝に終わったが、信彦は準決勝の対高輪高校戦のラストで勝利するなど、大活躍であった。
 さらにシングルスでは準決勝まで進出した。対戦相手は関東商工高校の石井清彦。この年の全日本ジュニアチャンピオンである。当然周りの人間も、そして本人すらもまさか勝てるとは思っていなかった。しかし何と試合は、ゲームオールとなり、最終ゲームも信彦は17-13でリードした。
「よし、これはもしかしたら勝てるかもしれない」
 しかし、そこから信彦の動きが止まってしまった。それまでは、負けてもともと、と無我夢中でやっていたが、勝利を意識した瞬間からミスが怖くなったのだ。そうなると打つボールもただ入れるだけになり、威力のない、コースの甘いボールになってしまう。そして信彦はそれから防戦一方のまま、1点も取れずにゲームを17-21で落としてしまったのだ。「この試合、勝てる」と思った瞬間にできた心の隙(すき)であった。
 準決勝で敗れたとはいっても、信彦は高校2年生のインターハイで団体戦で準優勝に貢献しただけでなく、個人戦でも第3位という、目標を大きく上回る成績を挙げた。このことで自分の一本差しグリップにも、大きな自信が持てるようになった。入部したてのころに「何だ、その変なグリップは。直せ」と言われていたグリップである。これだけの成績を挙げられたことで、一本差しグリップが自分に合っているんだ、ということをあらためて確信したのだ。
 グリップの悩みを完全に振り切った信彦は、インターハイでの経験を生かし、夏以降もさらに猛練習を続けた。そして10月に行われた国体では、チームは見事全国優勝。さらに信彦にとっては2度目となるこの年の全日本選手権大会ジュニアの部で、シングルスベスト8(ランキングは5位)という素晴らしい成績を収めたのだった。
 連続優勝の伝統
 翌年、3年生になった信彦は、主将を務めることになった。名電高校は前の年まで「10年間連続で全国優勝」という輝かしい記録を残していた。前年は国体で優勝し、その前の年は先輩の馬場園憲が全日本選手権大会ジュニアの部で優勝している。
 この「10年間連続で全国優勝」という伝統が、信彦に大変なプレッシャーになった。今年は自分が優勝しないといけないのである。
「絶対に名電高校の伝統を受け継がなくてはいけない。もしも今年、団体か個人で優勝できなかったら、責任をとって退学しよう」
信彦はそう決心した。
「全国優勝するための最大の強敵は東山高校だ。これからは東山高校に勝つための練習をしなくてはいけない」
 信彦は「対東山」を想定した練習を考えた。初めて全日本選手権大会で敗れた後の「どうすれば自分が勝てるか」という練習方法から一歩進んで、「どうすれば東山に勝てるか」という実際の対戦相手を想定しての練習方法だ。
 信彦が東山高校を研究して見つけた東山高校の特徴は2つ。とにかく先手を取るのがうまいこと、バッククロスの攻めが強いことであった。そして考えた練習は、「先手を取ること」と「相手のフォアを攻めること」の2つを目標に置いたものとなった。
「相手よりも先に攻めるためにはもっともっとフットワークを強化しなくちゃいけない。速く動いてどんなボールも先にフォアで攻撃するんだ」
 規定の練習は午後の3時15分から夜の9時半までだったが、信彦はそれだけでは満足せず、終わってからも夜の11時半ごろまでフットワーク練習を続けた。もちろん、毎朝5キロのランニングと、20分のウエートトレーニングも欠かさなかった。
「とにかく死んでも優勝しなくちゃいかん、と思っていた。東山に勝つためには、東山の2倍練習しなくちゃいけないと思っていたよ。この時期、日本の高校生の中で一番頭を使って、一番たくさん練習したのは私だったんじゃないかな。もちろんフットワーク練習も日本一たくさんやっただろうね」
 そうして猛練習を積んで夏の国体を迎えた(この年は東京オリンピックがあり、国体は6月に行われた)。このときの信彦は絶好調で、まるでボールが止まっているように見えたという。練習の成果で、レシーブから積極的に攻めていき、得意なドライブをどんどん打っていくことができた。この大会決勝戦の対新潟戦でも圧勝し、全試合3-0というスコアで、国体高校男子の部で優勝することができたのだった。ちなみに強敵の東山高校(京都)は1回戦で敗退してしまったために、結局東山高校との対戦はなかった。
 怠慢の報い
 国体で優勝し、全国優勝という大きな目標を達成し、信彦は大きなプレッシャーから解放された。しかし、同時にそれは目標を失ったことも意味していた。本来ならばここで次の目標を見つけ、またそれに向けて自分を鍛えていかなくてはいけなかったのだろう。しかし、信彦はそれができないまま、とりあえず2カ月後のインターハイに向けて練習をすることにした。
 ところが、プレッシャーから解放された信彦は全然練習に身が入らない。練習やトレーニングをやるにはやるのだが、自分の限界までやろうという気が起きないのだ。フットワーク練習をしても、すぐに楽をしようと、バックハンドを使ってしまう。トレーニングも体力の限界までとは程遠い、楽なことばかりやっていた。
 報いはすぐに来た。2カ月後のインターハイ、団体戦では決勝戦の対東山戦、大事なダブルスを負けてしまい、チームもその試合に敗れてしまったのだ。その後に行われたダブルスは、何とか優勝するものの、シングルスでは東山高校の岡田に、苦手なバックを狙われて5回戦で敗退してしまったのだ。
 さらに、目標を見つけられないまま迎えた全日本選手権大会ジュニアの部。信彦はインターハイで負けたことで、多少は気を引き締めて臨んだものの、国体のときの調子からは程遠い状態だった。それに加え、この大会で注目されていた信彦は、「勝たなくてはいけない」というプレッシャーが悪い方に働き、思うように体が動かない。結局、ベスト8決定戦で柏(高輪高校)に敗れてしまった。この試合、信彦は得意のドライブを、鉄壁と言われた柏のショートに止められ、さらに苦手の台上処理や、バックハンドといった弱点をつかれてしまったのだ。惨敗だった。
 注目されていただけに、この敗戦によっていろいろな人が信彦を批判した。
「長谷川はだめだ。一本差しグリップで、バックハンドが振れない。台上処理も下手だ」
 そんなことを言う人もいた。そして、信彦は完全に自信をなくしてしまった。
(2002年10月号掲載)
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