「世界一への道」大川とみ ―終わりなき探求者―3

練習相手を求めて
 高校卒業後、大川は請われて学校に残った。昼間は学校事務や図書館の職員として勤め、残った時間で卓球をした。しかし、田舎ではなかなか練習相手に恵まれなかった。もっと卓球をやりたい、強い人と対戦したい。そんな思いが高じ、大川は勤めを辞めた。
 当時、東京の日暮里に東京会館という卓球場があった。6台ほどの卓球台が常設されており、料金を支払って使用できるようになっている。そこでは、後に世界を制することになる荻村伊智朗(1954年、1956年世界チャンピオン)や世界選手権大会の日本代表として活躍することになる富田芳雄、角田啓輔など、そうそうたるメンバーが練習に励んでいた。一流選手たちへのあこがれを胸に、大川はその環境へ飛び込んだ。
 実家から日暮里まで、電車で2時間の距離を大川は通った。はるばる通ってくる大川に対して角田は親切に教えてくれ、それを大川は一生懸命に吸収した
 また、荻村や富田といった一流選手の練習風景を見ることは、大川に大きな刺激を与えた。
「へぇ、一流選手はこういう練習をしているんだ。あっ、何てすごいボールだろう」
 一流選手たちのプレーに感嘆するとともに、その練習内容を実際に見て勉強することができる。新しい環境は大川にとってまったく新鮮であり、実家からの距離など気にならないほどのかけがえのないものだった。
 しかし、練習時間はさほど多くは取れなかった。皆が卓球場に現れるのは仕事が終わった後なので、どんなに早くても夕方6時くらいになる。職を持たない大川は、1人先に到着し、今か今かと待ち構えていた。そして、角田に相手をしてもらったり、荻村や富田の練習を見たりして、最終電車で帰宅する。東京~茨城間の最終電車に乗るためには8時には卓球場を出なければならなかった。1分1秒も惜しい気持ちで時間ギリギリまで練習し、汗だくになったまま着替えもせずに電車に飛び乗るのが常だった。
 会計検査院に
 東京会館に通っていたある日のことである。大川は偶然におもいがけない人物と出会った。
「あれ大川、どうしてここにいるの。まさか茨城から通っているの」
「戸恒さんこそ何でここに」
 同じ茨城県出身で、ともに国体に出場した戸恒安五郎である。戸恒は東京で会計検査院に勤務し、東京会館に足を運んでいたのだった。さらに偶然は続き、戸恒は大川の恩師・綿引龍英と同じ職場だったという。とんとん拍子に話は運び、1953(昭和28)年7月、大川は会計検査院に奉職することになった。
 初めての代表合宿
 会計検査院に入ってすぐのころ、大川に大きな転機が訪れる。初めて日本代表の合宿に参加したのだ。9月にアジア選手権東京大会を控え、それに向けての代表選考合宿が組まれ、大川はそのメンバーの1人に選ばれたのである。
 しかし、大川に声がかかったのは、アジア選手権大会での活躍を期待してというよりも、他の選手にとって効果的な練習相手とする狙いが大きかった。理由はただ1つ。カットができたからだ。シェークハンドで、しかもカットができる選手など、日本では大川を除いて見当たらない。しかし、外国選手に勝つためには、ぜひともカット打ちを習得する必要があった。代表選手といえば聞こえはいいが、実質は「練習台」だったのである。
 合宿では毎日リーグ戦が行われ、成績の悪いものはふるい落とされていった。リーグ戦の合間には、カット打ちの相手をしなければならない。もともと体力のない大川にとって、それは極限ともいえるほどの状況だった。しかし、大川は何とか勝ち残り、見事個人戦への出場権を手にした。
 こうして迎えたアジア選手権大会。しかし、大川はいきなり1回戦で当時の日本のエース・西村登美江と対戦し、1-3(21対23、21対19、20対22、17対21)で敗れた。
「ものすごく苦しい試合だったわ」
 西村はそう声をかけてくれるのだが、大川にとってはほろ苦い国際大会デビューとなった。
 敗北と、攻略
 11月に奈良県の天理大学体育館で行われた全日本選手権大会では、大川は田坂清子(この年の全日本女子ダブルスチャンピオン)に敗れ、早いラウンドで姿を消した。アジア選手権大会の日本代表メンバーに選ばれた大川が、早々の敗退である。
 大川は職場に帰ると、会計検査院の課長で、卓球部の部長である鶴見隆長に結果を報告した。
「結果はどうだった」
「田坂さんに負けました。スコアだけ見ると接戦ですが、内容は10本以下だったんです」
「なんだそれは」
「右と思えば左、左と思えば右に来るんです。それでも何とか最後まで追いかけていきましたけど、1度も自分のペースにならなくて...。内容はまったく自分の試合にならなかったんです」
 当時は角度打法が主流で、相手のラケット角度を見てどこに飛んでくるかを予測した。しかし、田坂はそれよりも少し前に流行した「縦ドライブ」という技の使い手だった。バックスイングを大きく引き、同じバックスイングからコースを打ち分ける。大川はついついバックスイングの動きに反応してしまい、打つ瞬間に全部逆を狙われる羽目になった。
「どうすればいいのか、まったくわかりませんでした」
 事情を察し、鶴見はラケットを持ち出した。鶴見にとっては、縦ドライブはお手のものだった。
「いいか、ボクが打つから受けてごらん」
 鶴見が打つボールに、大川はすかさず飛びついた。と思ったものの、鶴見のボールはことごとく大川の動きの逆を突く。
「お前は見事に逆に動くなあ」
 鶴見は感心したように言った。
「いいか、インパクトまで見ずに、途中で動き出すからいけないんだ。ラケットにボールが当たる瞬間までよく見てから動くんだ。ラケットに当たって、ボールが走り出すところでコースは決まる。バックスイングに目がくらんで、ラケットの動きばかり見ているから迷うんだ。ボールが当たる瞬間をよく見るんだぞ」
 大川は集中した。そして、15分ほど練習するうちに、次第に感覚をつかんでいった。さらに、30分たつころには完ぺきに対応できるようになっていた。
「よし、今度は田坂に勝てるな」
「はい、勝てます!」
 これでもう縦ドライブは攻略した。勝負の世界に身を置いているからには、絶対に、同じ相手に2度は負けない。大川の胸にはその決意と自信があった。
 3年後の世界選手権東京大会で、大川は再び田坂と対戦することになる。
 自己負担金
 翌1954(昭和29)年、大川は世界選手権ウェンブレー大会のための強化合宿に招かれた。このとき、大川は卓球選手として生きていくための現実を知る。
 大川の役目はまたもや「練習台」だった。しかし、不満はなかった。1日中卓球をできることは喜びであり、一流選手の相手をすることは自分の実力向上につながったからだ。
 だが「練習台」の大川は、代表選手のミーティングの席からは外されていた。
「代表選手は集まれ」
 後藤鉀二団長の声がかかる。大川は1人残されたものの、ミーティングの声は隣室から襖越しに聞こえてきた。
「世界選手権大会に行く者は、明日までに80万円を銀行に振り込むように」
 80万円!!大川は仰天した。大学卒業の初任給が月収6~7千円ほどで、50万円あれば家と土地が買えた時代である。
「私は卓球をやらせてもらえているだけで幸せなのに、世界選手権大会の代表になるとそんなにお金がかかるなんて...。まったく次元が違う世界だな」
 大きな企業に所属していれば会社が負担してくれる可能性もあったが、公務員の大川にはあり得ない話だ。もちろん後援会を持つほどの力もない。
「再来年には東京で世界選手権大会がある。それなら旅費がいらないから、そのときだけでられるようにがんばろう」
 大川はこう決心した。
 練習相手を育てる
 このころ、大川はさらに練習相手を求めていた。東京会館に行っても、いつでも確実に練習相手がいるわけではない。職場には卓球の上手な人が大勢いたが、就職してからというもの1人ひとり順番に挑戦して、苦労しながらもとうとう最後の1人まで倒してしまった。そこで、大川はとんでもない工夫をした。なんと、練習相手を1人育ててしまったのだ。
 下手でもいいから、私の練習にとことん付き合ってくれる、真面目で熱心な人はいないだろうか...。そう考えたときに頭に浮かんだのが、実業団の名門・フコク生命の粂野圭伊子である。
 大川と粂野の二人三脚が始まった。
 粂野はいろいろなサービスを持っており、そこから3球目を狙っていくのが得点パターンだった。打ち合いのラリー戦はどちらかといえば苦手だったが、3球目攻撃のパターンは確実で、ショートでの守備は鉄壁だった。そうしたプレースタイルで高校時代に成績を挙げ、名門のフコク生命に入ったのである。
 初めのころは、粂野は大川の練習台として必ずしも十分な実力とはいえなかった。ラリーをすると、1時間かかってもフォア打ちが10本と続かない。やがて粂野は腕が痛み出し、泣き出しそうな表情になる。
 その粂野を、大川は徐々にラリーができる選手へと変えていった。粂野は真面目で熱心な努力家で、大川の要望にとことんこたえる。こうして、大川はとうとう粂野を自分に見合った練習相手へと育てあげてしまったのである。
 この年の10月末から11月にかけて神奈川県の横須賀市体育館で行われた全日本選手権大会で、大川はベスト4に入った。初のランク入りだ。準決勝では江口冨士枝(1957年世界チャンピオン)と対戦し、0-3(21対9、22対20、24対22)で敗れた。そして、江口は決勝で田中良子(昭和27年全日本チャンピオン)を3-0(22対20、21対16、21対16)で下し、この年の全日本チャンピオンとなった。
 大川はこのときにかなわなかった江口とも、世界選手権東京大会で再び対戦することになる。
 このころ、大川の目の前には高い壁があった。オールラウンドプレーヤーを目指して自分では攻撃の練習をしているのだが、試合で打ち合いの場面になるとついついカットが出てしまう。おそらく、大川の攻撃技術は全日本選手権大会で通用するほど熟しておらず、体は自然と幼いころに身につけたカットで反応したのだろう。練習では攻撃、試合ではカット。これでは練習が試合に生きるはずもなく、それが大川の壁となっていた。
 3人目の師 矢尾板弘との出会い
 大川にとって、全日本選手権大会で優勝できないことは、それほど苦ではなかった。
「1位にならなくてもいい。ベスト4以上の実力は同じ。世界選手権大会(団体戦)の代表も4人だし、ベスト4に入ればいい」
 職場ではそう言われていたし、自分の体力ではベスト4がやっとだと感じていた。当時の全日本選手権大会は3日間、長くて4日間という現在よりもずっと短い期間で行われていた。そのため、複数の種目で勝ち残っていると試合が途切れることがなく、汗に濡れたユニホームを着替えることもできないし、昼食におにぎりを一口かじることもできないという状況だった。朝から晩までぶっ続けに試合をすると、当然体力は失われ、集中力が切れて負けてしまう。大川には決勝まで戦い抜くほどの体力はなかった。
 しかし、大川は自分の技術の停滞については悩み始めていた。これまで自力で考え、模索しながらどうにかやってきたが、自分1人では限界があることを感じてきたのだ。より進歩するための足がかりがわからない。そんな状況を打破する術がほしかった。
 1955(昭和30)年の夏、大川は卓球部長の鶴見に相談を持ちかけた。
「部長、師事したい人がいるんです」
「誰だ。頼んであげよう」
「矢尾板先生です」
 大川がどうしても師事したかったのは矢尾板弘だった。矢尾板は日本大学の監督であり、荻村伊智朗や田中利明(1955年、1957年世界チャンピオン)らが師事した名コーチである。人格的にも信頼できる人物だった。あれほどの人物が、自分を教えてくれるだろうか...。祈る思いの大川に、鶴見は簡単に言ってのけた。
「なんだ、矢尾板か」
 そして、電話をかけ始めた。鶴見は日本大学卓球部の創設に尽力した人物であり、矢尾板の大先輩にあたったのである。
「矢尾板、1人送り込む。頼むぞ」
「え、少し考えさせてください」
「どうしてだ」
「自分は今、荻村や田中を抱えていますから...」
 仕事をする傍ら卓球を指導している矢尾板は、すでにとても多忙な毎日だった。この上1人増えるとなると、果たして大丈夫だろうか。自分が忙しくなることは構わない。ただし、教えるのであれば選手としっかり向かい合っていきたい。
 だが、鶴見は矢尾板の逡巡に構わずに話を続けた。
「考えるも何もない。とにかく1人送り込むからな。頼んだぞ」
「わかりました」
 大先輩にここまで言われて、断ることなどできるはずがない。鶴見が強引に話をまとめていき、実際に会う日時も場所も決まってしまった。大川は横で電話の話を聞きながら舌を巻いていた。こんなにスムーズに進むなんて、夢のようだ...。
 そして、大川は矢尾板に弟子入りすべく、日本大学の卓球部を訪れた。
「矢尾板先生、初めまして。大川とみです。よろしくお願いいたします」
「お、大川!?」
 ところが、矢尾板はなぜか大川の訪問にうろたえたようだった。
「はい、鶴見部長からご紹介いただいている大川です」
「君だったのか...」
 無理もない。矢尾板はてっきり男子選手が来るものとばかり思っていたのだ。確かに以前は近所の鷺宮高校で女子選手を指導したこともあった。しかし、今は男子選手の面倒しか見ていない。
「困ったな。女子を教えるなんて聞いていなかったから...」
「そこをなんとか教えてください」
 ...熱心な子だなあ。
 矢尾板は胸を突かれた。大川の口調にも、目つきにも、卓球への情熱がこもっていた。ましてや、大先輩の鶴見さんの頼みだ。驚きが収まると、矢尾板は腹をくくった。ただし、自分の下で卓球をしたいというのならば、まず確認しておかなければならないことがある。
 矢尾板は大川にこう告げた。
「よし、指導を引き受けよう。ただし、それには3つの条件がある」
(2004年4月号掲載)
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