「世界一への道」大川とみ ―終わりなき探求者―4

 3つの条件
 弟子入りを志願する大川に、矢尾板は3つの条件を出した。
「僕は小沼瑤子君を鷺宮高校時代から教えている。弟子として、君の先輩に当たるわけだ。しかし、小沼君は君よりも年齢が下だし、卓球の技術も下だ。それでも小沼君を先輩として立てられるか」
「はい、必ず先輩として立てます」
 大川はこの約束を守り続け、それは現在でも守られている。
「それから、強くなってもおごってはいけない。もしも自分の強さを鼻にかけるようなことがあれば、即刻破門だ」
「はい、決しておごりません」
 一流の選手を目指すのならば、一流の人間にならなければいけない。また、一流の選手となったのならば、その名に恥じぬ一流の人間であり続けねばならない。それが矢尾板の信念だった。そして、矢尾板は「三敬」という言葉を座右の銘として掲げていた。「三敬」とは、「人を敬い、事を敬い、己を敬う」ということ。つまり、相手を尊敬し、物事の全力で取り組み、己に恥じぬ人間であり続けるということを、自らに課していたのだ。荻村伊智朗も、田中利明も、矢尾板の指導を受けた選手は皆この信念を受け継いでいる。
「最後に、引き受けるからには、君が倒れるか僕が倒れるか、どちらかが倒れるまでやる。それでも構わないな」
「はい、大丈夫です」
 体力のない大川だったが、決して音を上げない自信はあった。矢尾板は大川よりも年上だし、自分はこんなにも卓球を求めているのだから...。
 大川は弟子として迎え入れられた。
 理論の旋風
 当時、日本大学には60人ほどの卓球部員がいたが、練習場に卓球台はたった2台きりだった。他人の練習を見ることも勉強、それが矢尾板の指導方針だった。ただ、大川が弟子入りしたのは8月だったため、夏休みで学生たちは帰省しており、みっちり教えてもらうことができた。
 練習を始めるとすぐ、矢尾板はこう指摘した。
「君は調子が出るまでに時間がかかるタイプだろう」
「えっ、どうしてわかるんですか」
 角度打法でプレーする大川は、打ち始めても角度を的確に合わせるまでに時間がかかっていたのだった。
「君は角度打法だけで打っているから、角度が合うまでに時間がかかるんだ。これからはボールの回転というものを知らなければいけない」
 回転という運動の原理、回転を加えることによって起こる現象...。矢尾板の話には、大川がこれまで知らなかった理論が満ちあふれていた。これまで理解できなかった現象、わからなかったミスの原因、矢尾板の理論を聞くうちにそれらの1つひとつが氷解していくのだった。大川にとって、矢尾板は理論の旋風だった。
 卓球は、おもしろい。
 大川はあらためてそう感じた。矢尾板の話には、これまで1人で研究しながら悩んできたことに対するヒントが満ちていた。
 矢尾板は厳しい指導者だった。手を挙げたりすることはないが、ミスにはとても敏感で、凡ミスは許されない。練習場の空気は常に緊張感で張り詰めていた。そうした緊張感の中で、集中していながらもミスしてしまったボールについて、矢尾板は考えを促すのだった。
 ミスこそがヒント。悩み、考え、学び、実感し、大川はどんどん吸収した。
 新しく覚えたことを次から次へと書き留め、大川の練習ノートはあっという間に真っ黒に埋め尽くされた。これまで自分なりに考え、研究してきたことが、矢尾板の手を借りて仕上げられていく。大川の毎日は充実していた。
 やるからにはどちらかが倒れるまで
「引き受けるからには、君が倒れるか僕が倒れるか、どちらかが倒れるまでやる」
 入門のときの誓いを、大川は忠実に守り続けた。その熱心さは、指導が厳しいと評判の矢尾板も舌を巻くほどであった。
 ある日のことである。矢尾板は出張からの帰りで、ひどく疲労していた。
「大川、今日だけは練習を勘弁してくれないか」
 後にも先にも1度きりの言葉を、矢尾板が漏らした。しかし、大川はこれを受け入れるわけにはいかなかった。
「先生は倒れてしまうのですか」
「いや、倒れはしない」
「先生は倒れていないし、私も倒れていません。ですから練習を見てください。見てくださらないのは約束違反です」
 練習は行われた。
 いたわりの言葉はぐっと飲み込んで、ただただ練習を要求した大川。そして、疲れた体にむち打ち、指導を行った矢尾板。そこにあったのは、妥協を許さない、本気と本気のぶつかり合いだった。ひたむきに、真剣に。大川と矢尾板の卓球への取り組みは、常に全力だった。
 卓球は心の救い
 矢尾板の下で技術を磨く傍ら、大川は体力づくりにも努力した。大学生の選手が日中に練習することができるのに対し、大川は仕事を持つ身で、ボールを打てる時間は1日にせいぜい2~3時間。その差を縮めるために、大川は早朝や昼休みにランニングをするなどの工夫をしていた。体力がないことが原因で敗れることが多い大川にとって、体力づくりは重要な課題だった。
 午後の仕事に遅れることなく、なおかつ昼休みを最大限に活用するために、走る距離と速度を計算して時間いっぱいまでランニングをする。仕事と卓球を両立するためには、時間を上手に使うことが求められた。さらに、時間だけではなく、自分の体力を上手にコントロールすることも必要だった。自分の体力の限界を超えてしまえば、仕事や練習に支障をきたしてしまう。さりとて限界の内側にとどまっていては進歩がない。自分の限界を知り、その限界をたとえ少しずつでも塗り替えていく。毎日が地道な挑戦だった。
 また、通勤時間を省くため、大川は茨城県からの通勤をやめ、東京の親戚の家に住まわせてもらうようになっていた。家といっても、6畳の和室が1つと、台所、風呂、便所だけの長屋で、叔父夫婦と2人の子どもの計4人が暮らしている。そこに頼んで住まわせてもらったのだった。狭い家にさらに1人住人が増えることについて誰からも不平は出ず、大川自身も不自由を感じたことは1度もなかった。たとえ狭くとも、住む場所があるだけで幸せという時代だったのだ。
 当時の日本は戦後の復興期とはいえ、まだまだ食糧難は払拭(ふっしょく)されず、東京の街にはその日の食事にもありつけないような人々があふれていた。行き倒れている人を目にすることすらあった。住む家がない人が大勢いる、食べられない人が大勢いる、闇屋が横行する...。日本にはまだまだみじめな空気が立ち込めていた。
 そんな中、ボールを追っているときだけは、大川はすべての暗雲から解き放たれ、無心になることができた。卓球をやっているときはすべての苦しみから逃れ、無上の時間を味わうことができる。大川にとって、卓球は心の救いだった。
 渡辺妃生子との接戦
 矢尾板に師事してから4カ月後の1955(昭和30)年12月。東京両国の国際スタジアムで行われた全日本選手権大会で、大川は前年と同じく3位に入賞した。
 準決勝で対戦したのは渡辺妃生子(昭和28年、30年全日本チャンピオン)。それは誰もが息をのむほどの大接戦となった。渡辺が強烈な攻撃を仕掛ける。大川はカットでそれをしのぐ。渡辺が再び攻撃。大川は突如としてカウンターで反撃...。会場は沸きに沸いた。結果は3-2(20対22、21対17、17対21、21対14、21対17)で渡辺が逃げ切った。
 大川は敗れたものの、その試合内容は充実しており、当時の卓球専門誌『卓球マンスリー』には「大川は精進の跡著しく(中略)両者の力斗は満場の観衆を充分タンノーさせた一戦であった」と報道された。
「この次に渡辺さんと当たるときは、絶対に負けない」
 この決意は、わずか4カ月後に試されることになるのだった。
 世界戦へ
 2年連続全日本選手権大会ベスト4という実績から、大川は翌年4月に開催される世界選手権東京大会の代表メンバーに選ばれた。だが、このときも大川は実力が評価されて代表入りしたというよりは、やはり他の選手のカット打ちの練習台としての意味合いが大きかった。そのため、合宿中は常にカットでのプレーを要求された。
「こら、なぜ攻撃などするんだ」
 カット以外のプレーをすると、指導陣から怒号が飛ぶ。大川はオールラウンドプレーを目指していたのだが、周囲にはカット型の印象が強かったのだ。大川のオールラウンドプレーへの志向は理解されず、カットでのプレーのみが期待された。
 私は、攻撃も守備も、すべてできる選手になりたいのに...。だが、矢尾板だけは大川の卓球を理解していた。
「代表合宿ではとことんカットをやればいい。その代わり、僕のところに来ているときはとことん攻撃をしなさい」
 大川は矢尾板の言葉を受け、猛然と練習した。代表合宿ではカット、矢尾板の下では攻撃。自分のプレーとしてどちらも追求していけばいい。
 海外遠征に出るための資金がない大川にとって、東京大会は世界選手権大会に出られる唯一のチャンスだった。もう2度と世界で戦うことはない。そして、おそらく、これを限りに選手をやめることになるだろう。だから、この1度限りの舞台で、全力を出し尽くしたい。
 その思いをかなえるために、1日1日のすべてを捧げる。絶対に悔いは残したくなかった。
 世界選手権東京大会
 1956(昭和31)年4月2日、東京千駄ヶ谷の東京体育館で第23回世界選手権東京大会がスタートした。それは戦後の日本で開催される初めての世界規模のスポーツ大会であり、卓球関係者だけでなく、日本中の注目を集めた。政府要人や、各界の名士も観戦に訪れている。
 選手入場が始まった。プラカードに先導され、世界中から集まった選手が拍手の中を歩む。最後に主催国の日本選手団が姿を現すと、超満員の客席からはひときわ大きな拍手が起こった。
「世界選手権大会を開催することは大きな喜びであり、1つの小さな白球が、全世界の友愛と信義を結ぶきずなとなることを期待します」
 日本卓球協会会長の足立正があいさつを述べる。大会がスタートした。
 大川は女子シングルス2回戦から出場。初戦は香港のファン・シンカンと対戦し、3-0(21対9、21対12、21対16)で危なげなく勝利した。
 だが、これは周囲に少なからぬ驚きを与えた。試合に勝ったことに対してではなく、試合中に見せたプレーに対してである。大川は適所に攻撃を交えたオールラウンドプレーで戦った。しかし、代表合宿でカットだけを見ている者にとって、それは意外な一面と映ったのだった。
 女王ロゼアヌまさかの初戦敗退
 自分の試合を終えた大川は、ふと1台のコートに釘付けになった。いや、大川だけでなく、会場中の視線が1台のコートに注がれていた。女子シングルス2回戦、日本の田坂清子とルーマニアのロゼアヌの対戦である。
 ロゼアヌは1950年第17回世界選手権ブダペスト大会で28歳にして初優勝すると、その後6年間チャンピオンの座を守り続けていた。ロゼアヌはカットを得意とする粘り強いタイプのオールラウンドプレーヤー。その華麗な身のこなしと、スポーツマンシップを尊重する素晴らしいマナーは、まさに卓球界の女王と呼ぶにふさわしいものだった。
 女王ロゼアヌは7連覇をかけ、世界選手権東京大会に臨んでいた。田坂対ロゼアヌ。ロゼアヌの勝利は揺るぎないものかと思われた。
 ところが、ロゼアヌが第1ゲームを落としたのである。カット打ちの得意な田坂は攻撃に終始し、ロゼアヌのカットを抜き去った。場内はどよめいた。
 続く第2ゲーム、ロゼアヌは17対11と田坂を引き離した。しかし、田坂はこの場面で果敢にスマッシュを打ち込んだ。ロゼアヌは苦しい防戦を強いられ、2ゲーム目も逆転で奪われてしまった。
 超満員の観客は極度に興奮し、緊迫した場内は重苦しいまでの空気に包まれた。
 3ゲーム目、勢いに乗る田坂は好調なスタートを切り、13対8まで優勢に試合を進めた。
 田坂とロゼアヌの試合を見ながら、大川は2年5カ月前を思い出していた。1953(昭和28)年11月の全日本選手権大会である。
「今のロゼアヌは、あのときの私と同じだわ」
 昭和28年の全日本選手権大会で、大川は田坂の縦ドライブに対応できずに敗れた。そして今、ロゼアヌが田坂の縦ドライブに対応できずに苦しんでいる。もがくロゼアヌの姿に、過去の自分の姿が重なった。
 しかし、ロゼアヌは強かった。試合をする中で、次第に縦ドライブに対応するコツをつかんでいったのだ。そして、18対18まで追いすがった。そこからは1本を争うまさにシーソーゲームとなった。
「さすがロゼアヌだわ。試合の中で縦ドライブの対策を見つけてしまうなんて...。でも、もう遅すぎる」
 ゲームはもつれにもつれた。ロゼアヌは苦しみ、田坂も苦しんでいた。ここまで来ると、もはや気力の戦いだった。そして、30対30の場面で、田坂は死に物狂いのスマッシュを放って得点した。その精神力に圧倒されるかのように、ロゼアヌは次球を平凡なネットミス。田坂が3-0(21対19、22対20、32対30)のストレート勝ちを収めたのだ。
 体育館が割れんばかりの拍手と歓声が沸き起こった。
 強化本部も歓喜に沸いた。これまでの世界選手権大会で何度も日本選手はロゼアヌに挑み、そのたびにことごとくはね返されてきた。強化本部は、ロゼアヌを倒すために選手を鍛えてきたようなものである。
 今大会のトーナメント表では、第1シードのロゼアヌとは最初に田坂が対戦し、次に大川、3番目に江口冨士枝、最後に渡辺妃生子が対戦する予定だった。4人のうちの誰かがロゼアヌを倒し、日本に勝利をもたらしてほしい。その作戦が第1段階で成功したのである。快挙だった。
 そして、大川は3回戦で田坂と対戦することになった。女王ロゼアヌを破り、今の田坂には精神力と勢いが充ち満ちている。しかし、決して3年前のような負け方はしない。闘志と緊張をコントロールするかのように、大川は大きく息を吸い込んだ。
(2004年5月号掲載)
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