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「世界一への道」伊藤繁雄 ―球史を革新したドライブ強打王―1

「人の驚くようなプレーは、人の驚くような練習やトレーニングからしか生まれない」。元世界チャンピオン、伊藤繁雄のこの言葉からは、彼のひたむきさとがむしゃらさがうかがえる。決して平坦(へいたん)ではない伊藤の卓球人生を支えたのは、卓球が自分の生きる証(あかし)であるという強い信念と、母への深い愛情だった。
 左利き
 繁雄は、お腹(なか)の底から負けん気がむくむくと頭をもたげてくるのを感じていた。
 なんとかしてあの人たちをぎゃふんと言わせてやりたい。何かうまい手はないかなあ。
 ついさっき、公民館での出来事である。
 繁雄は近所の大人たちと一緒にピンポンをしていた。しかし体の小さな小学生に負けたのが悔しかったのだろう。大人たちが、「卓球は右手でやるものなのに繁雄は左だ。おかしいから仲間に入れてやらない」と言い出したのだ。
 繁雄は生まれつき左利きだった。文字は右手で書くように矯正されたが、メンコや野球は左手でやるし、相撲でも左から攻める。当然のこと、握力も左の方が強かった。
 おじちゃん、ずるいぞ。左利きでもいいじゃないか。僕もピンポンやりたいのに。ようし、どうしても意地悪するんだったら右手でやってやろう。練習して左手のときより強くなってやるぞ。
 繁雄はラケットを右手に持ち替えて、利き腕のように動かせるようになるまで練習し、再び大人たちに勝つようになった。
 後の世界チャンピオン・伊藤繁雄の、少年時代のエピソードである。
 卓球との出合い
 昭和20年、伊藤繁雄は7人兄弟の末っ子として、山口県で生まれた。小学生のころまでは、当時の子供の例に漏れず野球に熱中していた。
 ある雨の日、伊藤は野球をする代わりに公民館に遊びに行った。そこでは大人たちがピンポン球を打ち合っていた。古材を横につなげただけのその台は歪(ゆが)んだ長方形で高さが足りず、表面もあちこちがへこんでいた。それでもボールはポン、ポン、カコーンとあの小気味よい音を響かせて跳ねる。大人たちの打ち方とボールの飛ぶ方向へ曲がり具合、バウンドの位置などを見比べてラリーに見入る伊藤の頬(ほお)は、次第に紅潮していった。しかし、このころの伊藤にとっての卓球は、あくまで野球の代わりだった。中学に進学して卓球部に入ったのも、小柄なため野球部では活躍するのが難しいと思ったからだった。
 入部はしたものの、顧問の先生の技術指導はなかった。卓球台の数に対して部員は多く、練習はイモを洗うような状態だった。
 クロスのコースで台につき、フォア打ち、ショート打ち、ツッツキ打ち、フットワークをそれぞれ5分ずつやると、すぐゲーム練習に入る。11本1ゲームの勝ち抜き戦である。一旦(いったん)負けると、その日のうちに次の順番が回ってこないときもあった。
 待ち時間には、学校の裏山にある八幡様の階段を走った。150段はあったであろうその階段を上りきると、さらに山頂まで続くうねうねとした道も走った。中でも伊藤や同級生の中村、浜田は熱心だった。伊藤は家業の新聞配達を手伝うために、早めに帰らなければならなかったが、ほかの2人より少しでも長い距離をこなそうと張り切った。ひとしきり上り下りした後は境内を駆け回って遊び、カキやヤマモモ、キイチゴなどを採って食べた。
 しごくのんびりした中学時代ではあったが、この裏山でのトレーニングと新聞配達の手伝いで、伊藤のフットワークを支える強靭(きょうじん)な下半身の基礎がつくられたといえるだろう。
 交通事故で休部。ところが・・・
 2年生の春、伊藤はしばらく部活を休んだ。自転車に乗っていて自動車と接触し膝を痛めたから、というのが第1の理由である。しかし2週間ほどで完治したのにもかかわらず、1カ月近くも練習場から足が遠のいたのには、他にも理由があった。
 ちょうどそのころ、卓球に対する情熱を失いかけていたのだ。新3年生の威圧感からか部内の雰囲気がどことなく殺伐と感じられ、以前ほど楽しいと思えなくなっていた。もともと野球の代わりにと始めた卓球でもあり、さほど執着はしていなかった。
 ところが事故の1カ月後である。伊藤は何の気なしに練習場のそばを通りかかった。
 キュッキュッ、カコーン、パシッ。
 胸のすくような音が軽快に響いてくる。一度は熱中した卓球だけに気を引かれ、伊藤は中を覗き込んだ。
「えー、嘘だろ!?」
 伊藤は思わず叫んだ。同級生たちが以前とは比べ物にならないくらい上達していたのである。伊藤と競り合っていた中村や浜田はもちろんのこと、他の友人たちも舌を巻くほどうまくなっていた。負けず嫌いの伊藤は、後れをとるものかとばかりに、その場で部活復帰を決めた。
 父の許し
 1カ月のブランクで勘は幾分鈍っていたが、ライバルたちを押さえて部のトップに立つために伊藤は練習に励んだ。
 放課後の練習時間はいくらあっても足りない。しかし夕刊の配達は伊藤の役目であり、母や姉に任せきりにすると父親の大目玉を食らってしまう。そこで伊藤は知恵を絞った。
 父ちゃんの前で試合に勝てば、きっと俺のことを認めてくれて、遅くまで練習しても叱られなくなるんじゃないか?
 チャンスは3年生の春に訪れた。南陽町民卓球大会である。試合の日の朝、伊藤は家の奥にいる父親にも聞こえるよう、大きな声で言った。
「母ちゃん、今日、富田中の講堂で試合があるんだ。俺、がんばるからな。絶対に優勝するからな」
 もし父親が観戦に来てくれても、そのときまでに敗退していれば逆効果になる。二度と配達をさぼらせてくれなくなるに決まっている。自分が卓球にかける熱意を見せるために、もっと卓球に打ち込める環境をつくるために、伊藤は背水の陣の心構えで試合に臨んだ。
 富田中のチームメートが次々に敗退していく中、伊藤は1人順調に勝ち進んだ。しかし決勝戦が近づいているのに父親は現れない。
 伊藤はコートについた。じりじりしながら周りを見回すと、ようやく父親の姿が目に入った。窓から遠慮がちに中を覗いている。
 よし、やってやるぞ。
 こういう重大な場面で緊張せず、むしろ集中力を高めて本領を発揮するのが伊藤の長所である。試合運びは細心かつ大胆だった。ショートやツッツキで丁寧につなぎ、チャンスボールは迷わず強打した。そしてついに優勝の栄誉を勝ち取ったのである。
 小さな大会での優勝だったが、母親は手放しで喜んでくれた。父親は何も言わなかったが、翌日からは帰宅が遅れて配達ができなくても叱らなくなった。こうして伊藤は心おきなく部活ができる環境を手に入れ、ますます卓球にのめり込んでいった。
 レシーブ打法の転機
 卓球に集中すればするほど、疑問もわいてくる。あるとき伊藤は、バックハンドレシーブがうまくできずに悩んでいた。体育実技の教科書をぱらぱらとめくっていて、伊藤はこんな記述を目にした。
「卓球選手は、サービス権を持っているときは3球目を狙おうと積極的なプレーをするが、レシーブに回るとツッツキやショート中心の消極的な試合運びにしてしまうことが多い。レシーブは、最初から強打できるチャンスである」
 伊藤は「ようし、これだ」と直感した。バックレシーブが苦手なら、得意なフォアを最初から使えばよい。積極的にフォアハンドを振っていこうとすれば、当然足の動きも早くしなければならなくなる。フットワークを駆使して動き回り、フォアで攻めつづける伊藤の卓球は、ここに端を発しているといえそうである。
 実力がついてくると部内の練習だけでは飽き足らなくなり、他校に練習試合を申し込んだ。中学だけでなく、高校の女子部と試合をすることもあった。
 9月の県大会ではベスト8に入り、その実績を買われて県の高校選手権大会に推薦出場した。そして3回戦まで勝ち進み、第4シードの選手と対戦した。結果はストレート負けだったが、2ゲームともスコアは18点前後と善戦した。
 伊藤は、自分の卓球が高校生レベルでも通用することを知り、進学後の卓球に大きな希望を抱いた。
 表ソフトから裏ソフトへ
 進学先は、徳山の桜ケ丘高校だった。上級生に県ベスト8の伊藤にかなう選手はいなかったが、同学年には内富と村上という、伊藤をライバル視する2人がいた。
 2年連続してインターハイ出場決定戦で敗れた夏、そのライバル内富がラバーを貼り替えて練習を始めた。当時バタフライで発売されたばかりの裏ソフトラバー、テンペストである。
 ボールを打ち合ってみて驚いた。飛んでくるボールが、バウンドしてからギュンと勢いよく伸びて手元に食い込む。バックに来るのをショートで受けても、いつもの角度で当てると山なりの軌跡を描いてオーバーする。ネットミスを覚悟で角度を押さえて返球してもまだ浮き、すかさずスマッシュされる。
 まさに魔法のラバーだった。
 伊藤はそれまで、裏ソフトより表ソフトの方がボールにたくさんの回転をかけられると思い込んでいた。多様な戦型の選手と対戦した経験があまりなかったためだ。一見、表面がツルツルした裏ソフトよりも、イボのついた表ソフトの方がボールを引っ掛けやすそうではある。あのイボで打てば回転がよくかかりスピードも出ると伊藤が考えたのも、わからなくはない。
 実際には、ラバーはゴム製なので摩擦抵抗があり、ボールとの接触面積の大きい裏ソフトの方が抵抗も大きくなり、ドライブがしっかりかけられる。中でもテンペストは、当時最も回転のよくかかるラバーだった。
 伊藤はテンペストの威力に魅了されて早速ラバーを貼り替えた。だが、すぐには使いこなせない。確かにドライブの鋭さは抜群だが、コントロールに難点があった。それでもあの魅力は忘れない。
 そこで伊藤は、やや回転能力の劣るコントロール系のラバー、アタックを貼った。そして何日かかけてこのアタックを使いこなせるようになったところで、もう一度テンペストに挑戦した。こうして伊藤はドライブマンに転向した。
 2年の秋の新人戦ではシングルスで優勝し、全日本ジュニア予選では決勝まで進んで森口(岩国高校)に敗れ、山口県第2代表として全国大会の出場権を獲得した。本大会では2回戦で敗退したが、初めての全国大会出場は伊藤にとって大きな自信となった。
 インターハイ出場
 試合、特に全国レベルの大会で勝ち抜くためには、さまざまな戦型の選手との試合に慣れておく必要がある。
 ところが桜ケ丘高校の選手は、ほとんどが内富の影響を受けて裏ソフト速攻型に変わっており、表ソフト、一枚ラバーの攻撃型やカットマンをそろえているチームには分が悪かった。
 ここでも伊藤は工夫した。カットマンがいないのなら自分がカットをやってやろうと、ペンラケットのままでカットを引き、チームメートのドライブの練習台になった。伊藤がカット打ちをするときは、内富や村上がカットマン役を買って出た。
 こうした努力の甲斐(かい)あって、伊藤は3年生でシングルス山口県代表としてインターハイに出場した。
 シードされての初戦で、富山の第2代表、旗智と当たった。ところが山口県第2代表としての優越感がそうさせたのだろうか、伊藤はウオーミングアップもせずに試合に臨み、1ゲーム目を14-21で落としてしまった。
 旗智はショートがうまくて、相手を左右に振り回して自滅させる作戦を取る選手だった。しっかり動いてボールに追いつきさえすればスマッシュで先に攻めることができて、断然伊藤が有利になる。
 2ゲーム目は気を引き締め、すばやく動いて旗智のショートを打ち抜き、21-8と快勝した。
 しかし、ややもすると調子に乗ってしまう伊藤には、この快勝がよくなかった。気を張っていた分、拍子抜けしてしまったのである。
 楽に取った後のゲームに3倍の集中力が要(い)るとは、よくいわれることだ。3ゲーム目、伊藤はなんとなく旗智に得点を許し、じりじりと引き離されていった。中盤からは取ったり取られたりの展開になったが、それでも逆転するところまではいかない。
 3、4本の差をつけられたまま終盤に入り、最後の数本はネットインやエッジボールであっけなく失った。ベスト8入りを狙っていた伊藤だが、初戦で敗退してしまったのだった。
 岡山国体
 インターハイが終わって新学期に入ると、すぐに国体がある。伊藤は国体予選で優勝して、少年の部の団体メンバーに選ばれた。監督の田中茂明先生(柳井高校)は、本戦で伊藤を常にトップに起用した。伊藤はエースとして相手チームの選手を次々に倒し、山口県チームを準決勝に導いた。
 相手は、優勝候補筆頭の東京都チームである。伊藤は、インターハイ3冠王の梨本(中大杉並高校)と対戦した。
 ううん、インターハイ3冠王の梨本か。俺なんか試合らしい試合もできずに、コテンパンにやられてしまうんじゃないだろうか。
 いや、待てよ。
 俺は何人かのインターハイ・ランキング選手に勝ってこの準決勝まできたんだ。ベスト4入りチームのエースということでは、梨本と同じだ。
 そうだ、俺が格下なんてことは絶対にない。やってやれないことはないんだ。
 伊藤のこの精神力の強さには、人を圧倒するものがある。これは過剰な自信ともカラ元気とも違う。お腹の底から闘志をわき立たせ、強い相手に対して臆(おく)することなく立ち向かい、意識の上で自分を相手と対等の位置にまで引き上げてしまうのである。そして伊藤は完敗を予想する周囲を尻目(しりめ)に、一歩も譲らない互角の試合をした。
 梨本は一枚ラバーのカット型だが、攻撃も鋭いオールラウンド・プレーヤーだった。伊藤はカット打ちに自信があるので、梨本をカットに追い込めば勝機はあった。
 幸い梨本は1ゲーム目、カット主戦の作戦に出た。伊藤は裏ソフトラバーの特徴を生かして切れのよいループドライブをかけ、返球が少しでも浮いたと見ると、スマッシュで梨本の堅陣を打ち抜いた。そして攻防の末に21-19で先制した。
 ベンチは沸きかえった。もし伊藤がこのまま梨本を下せば、格下と見られていた山口県チームに勝利の可能性が出てくる。伊藤の士気は、いっそう高揚した。
 インターハイ3冠王だからどうしたっていうんだ? あのとき油断さえしなければ、俺は旗智に2-0で楽勝して、旗智が1-2の接戦をした馬場園(名電工、インターハイ準優勝)にも勝って、決勝に出る実力があったんだ。
 なによりも、現にこうして先制できたじゃないか。
 よし、このまま2ゲーム目も取ってやるぞ。
 しかし、梨本はさすがインターハイ・チャンピオンである。経験を積んでいる分、戦術面では伊藤に勝っていた。カットでは伊藤に対して不利と見て作戦を大幅に変え、2ゲーム目の最初から積極的に攻撃を仕掛けてきたのである。
 梨本をカットマンだという先入観で見ていた伊藤は、その豹変ぶりに面食らった。梨本にカットをさせたラリーでは得点を重ねることができたが、前陣から早いタイミングでパンと叩かれて逆コースを突かれ台から離されると、伊藤の失点が目立った。
 いつ攻撃されるかと警戒する分スマッシュの威力が薄れ、強打してもカットで拾われる。仕方なくストップすると、梨本はツッツキで返し伊藤を動かして打たせる。一枚ラバーのツッツキはほとんどナックルに近いので、うまくドライブしないとオーバーミスする。強くドライブできないボールをツッツキでつなごうとするとフワッと浮き、梨本は待ち構えていたように強打する。
 ペースを崩し、梨本に軽くあしらわれる形となって、とうとう逆転負けを喫してしまった。
 条件制約の中で
 準決勝で敗れはしたものの、国体でのベスト4入りは大した快挙である。中学、高校を通して指導者に恵まれなかった伊藤が、ここまでの実力をつけることができたのはなぜだろうか。その理由として、伊藤は次の3点を挙げる。
 まずは、貪欲(どんよく)な情報収集である。指導者のアドバイスに頼れない分を、『卓球レポート』や体育実技の教科書で補い、試合会場でレベルの高い選手を見つけると、見取りならぬ「見盗り」をして自分のプレーに役立てた。
 また、基本練習よりもゲームが大好きで、「試合こそ最高の指導者」とばかりにしゃにむに取り組んだ。
 2つ目は下半身の強化である。高校に入ってからも朝刊の配達は欠かさず続け、ランニングも怠らなかった。これが鋭いフォアハンド攻撃をしっかりと支えた。
 最後は、人一倍負けず嫌いだったことだという。名門高校の選手にも気後れせずに立ち向かっていけたのは、そのおかげだろう。
 上京して就職
 高校卒業後、伊藤は東京で就職した。国体での活躍ぶりに目をつけた大学関係者も何人かいたが、金銭的余裕のない家庭に育った伊藤は、大学に進学するつもりなど毛頭なかったのだ。
(2001年6月号掲載)

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