世界チャンピオン、河野満。長い間「優勝候補」とささやかれながらも、世界はおろか、全日本でも優勝を逃し続けてきた河野。そんな苦難の時を乗り越え、30歳にしてついに世界の頂点に立った。
ただ黙々と努力を重ね、己の限界に挑戦し続けた、河野満の足跡を追う。【前回の記事を読む】
※この記事は月刊卓球レポート2001年1月号を再編したものです
卓球台が使えない!
河野が卓球の練習をしたのは主に小学校の体育館だった。ただ、卓球台の数は限られており、卓球をしたいという子どもは大勢いた。
当時は、遊びといってもテレビゲームはもちろん、サッカーなどもまだ一般的ではなかった。そんな中、ラケットとボールさえあれば誰でも楽しめる卓球は、子どもたちのメジャーな遊びの一つだった。放課後になると、たくさんの子どもが卓球台に集まってくる。体育館の中は、順番を待つ子どもたちでいっぱいだ。卓球台を使うことのできる時間はほんのわずか。そんな状況の中で満足に練習をするには、人とは違う工夫が必要だった。
どうしたら思いっ切り練習できるだろう、河野と兄は考えた。そして、どちらからともなくこう言い出した。
「放課後がだめなら、朝やろう」
こうして兄弟の早朝練習は始まった。毎朝毎朝早起きし、「よし、やろうか」と一目散に学校へ向かう。兄弟にとっては、誰にも邪魔されずに練習できる貴重な時間だ。授業が始まるまでの1時間ほどを卓球をして過すのが、二人の日課だった。
「負けたら卓球をやめろ」
――運命を分けた対決
そんなある日のこと、父が突然二人に向かってこう言った。
「お前たち、今から試合して負けた方は、今日限り卓球をやめろ」
河野も兄も仰天した。父に理由を問うと、
「うちはお金がないから、卓球できるのは一人だけだ」
しかし、本当の理由はそうではなかった。高校の卓球部のコーチを務める父は、こう考えるようになっていたのだ。
「息子たちを一流の選手にしたい。そのためには、中途半端な指導はしたくない。とことんまで面倒を見ようと思ったら、一人が限界だ」
それまでの河野と兄との対戦成績は、圧倒的に兄が勝っていた。10回試合をしても、河野が勝てるのはせいぜい3回。この勝負に河野が勝てる見込みは低い。けれど、ここで負ければ卓球をやめねばならなくなる。絶対に負けたくない! 崖っぷちに立たされたような状況だった。こうなったら、もう腹を据えるしかなかった。やるしかない。
結果は、河野の勝ちだった。
その日以降、河野は父から熱心な指導を受けるようになる。放課後はいつも近所の中学校に連れていかれ、中学生に交じって練習した。こうして河野はめきめきと力をつけていった。青森県南部の小学校大会では、まだ4年生ながら優勝。その後、なんと5年生、6年生と3年連続で優勝に輝いたのである。
一方、河野に敗れた兄は柔道へと転向した。
初めてのコーチ、相川先生との出会い
中学に入った河野には、ある人物との出会いが待っていた。父親を除いては河野にとって初めてのコーチ、相川光司先生である。
卓球好きで教育熱心な父のおかげで、河野の家にはこれまでも多くの卓球関係者が訪れていた。日本で最初の世界チャンピオンの佐藤博治が訪れたことさえもある。しかし、相川先生の訪問は特別だった。東京に住んでいる相川先生は、河野のコーチを引き受けてくれたのだ。
およそ1カ月に2回ほど、土日を利用して、相川先生が東京から青森までやって来る。昼間は卓球を見てくれ、夜は河野の家に泊まっていろいろな話をしてくれる。河野にとって、何にも代え難い大切な時間だった。父親以外では初めてのコーチの言うことに、河野は忠実に従った。厳しい練習も進んでこなし、小学校時代から続けているうさぎ跳びなどのトレーニングも怠らなかった。
後に世界を取ることになる河野のペンホルダー表ソフト速攻型のスタイルは、この時期に下地がつくられていく。
当時はループドライブが大流行、新兵器といった感じでもてはやされた。ほとんどの中学生たちがループドライブを練習し、裏ソフトラバーを使用した。
そんな時代の例に漏れず、河野も中学校時代は裏ソフトラバーを使用していた。しかし、河野の卓球スタイルは、周りとは少々違っていた。他の選手の中後陣からのドライブ攻撃に対して、河野のスタイルは前陣で戦う速攻型。そして、その攻撃力は群を抜いていた。
天性の卓球センスに加え、相川先生の指導を受けた河野は、ますます力を伸ばしていく。中学校2年生のとき、3年生のときと、2年連続で青森県中学校体育大会で優勝した。
高校進学
やがて河野にも、高校進学を考える時期が訪れた。そんなある日、うれしいニュースが飛び込んだ。相川先生が、青森商業高校の先生になるという。この知らせを聞いた瞬間、河野の心は決まっていた。自分も青森商高に行こう!
青森商高といえば、全国優勝を何度も経験している伝統校。「ここで1番になれれば、日本でも1番になれるだろう」と河野は考えた。おまけに相川先生が来るのだったら、卓球をするのにこれ以上の環境はない。絶対に青森商高に入ってやる!
こうして河野は青森商高に入学した。しかし、卓球部に入った河野には、これまで経験したことのない厳しい環境が待ち受けていた。(次回へ続く)
Profile 河野満 こうのみつる
1946年9月13日生まれ。青森県十和田市出身。ペンホルダー表ソフト前陣速攻型。
1967年から1977年まで日本代表として世界卓球選手権大会に出場。
1975〜1977年全日本卓球選手権大会男子シングルス優勝。
1977年世界卓球選手権バーミンガム大会男子シングルス優勝。




