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高木和卓インタビュー(後編)

 青森山田中学校、高校を卒業後、15年の長きに渡り実業団チームのトップに君臨してきた東京アートの主軸として活躍してきた高木和卓。2022年全日本卓球の熱気が落ち着いたころ、2月中旬に突如届いた東京アート卓球部休部のニュースに驚いた卓球ファンは少なくないだろう。高木和もこの知らせに、最も驚き、ショックを受けた1人だった。
 このインタビューでは東京アート時代を含め、高木和の卓球人生を振り返ってもらうとともに、これからの展望を語ってもらった。後編では、これまでの卓球人生について、また、今後の展望について聞いた。(前編はこちら

--名前の卓の由来はやはり卓球ですか?

 そうです。卓球をやるために生まれてきたんです。親は僕が生まれる前から決めていたらしいです。
 卓球は両親とお兄ちゃん(高木和健一)がやっていて、僕が始めたのは小学校1年生の終わりくらいですね。お兄ちゃんが先にやっていたので、自分も卓球場に連れて行かれて、球拾いしてて、気づいたらやってたって感じです。当時は親の卓球場があったので、そこでやったり、スポーツセンターでやったりしていましたね。

 青森山田(中学校・高校)に入ってからは、全中(全国中学校卓球大会)で優勝して、カデット(全日本卓球選手権大会カデットの部)も優勝して、インターハイも優勝して、社会人(全日本社会人卓球選手権大会)も優勝して、全日本は3位でしたけど、世界選手権も出たし、結構頑張りましたね。
 青森山田は弱肉強食みたいなところでした。僕は自分のペースで練習して結果を残せていたけど、全国でベスト4とかベスト8クラスの選手で同じ練習をしていても結果が出ない人もいたし、今思うと残酷な世界っていうか、厳しい世界だったと思います。

--厳しい環境の中で結果を残して来られた理由は何だと思いますか?

 大矢(大矢英俊/ファースト)とお兄ちゃん(高木和健一)ですね。その頃お兄ちゃんも強かったので、全日本ジュニア(全日本卓球選手権大会ジュニアの部)の前に、よく練習してもらいました。中学校1年生くらいでジュニアチャンピオンに練習してもらったら強くなれるじゃないですか。だから、それはすごい大きかったです。その頃お兄ちゃんは全日本ジュニア2連覇していて、ジュニアだったらほとんど負けなしだったので、ものすごいいい練習相手でした。
 当時は練習試合でも全然勝てませんでしたが、一回、夜練習の最後の試合で勝っちゃったことがあって、その時はお兄ちゃんがすごく怒ったことがありました。そのおかげか、次の大会では優勝してましたけど(笑)
 大矢は同級生で、いつも決勝とか準決勝で当たる相手だったので、そういう相手といつも練習できたのも強くなれた理由のひとつですね。

平成12年度、平成13年度全日本卓球ジュニアの部2連覇の高木和健一は弟の成長に大きく貢献した

同級生の大矢英俊は青森山田中・高から東京アートまで長きに渡ってチームメートとしてともに活躍した

 高校2年の頃からは、隼(水谷隼/木下グループ)と岸川君(岸川聖也/ファースト)の背中を追いかけるようになりました。岸川君が僕の1個上で、隼が1個下で、彼らにはずいぶん引っ張られましたね。
 ドイツで一緒にやってた時は近すぎて気づかなかったけど、僕が代表から外れて、2人の試合を見てたら、大分離されてると感じたことはあります。日本に帰ってきてから、すごさが分かりましたね。
 彼らは僕よりも国際大会に出ていたし、世界ランキングも高かった。彼らの背中を追いかけることで、一時は岸川君よりも世界ランキングが上になったこともありました。あの2人のおかげで、世界ランキング30位以内にも入れたし、世界選手権の代表にもなったし、自分もやればできるっていう感覚はありました。
 ただ、隼や岸川君が50の練習であれくらいのレベルだったけど、僕の場合は80とか100やらないと、そこに近づけなかったので、才能の違いは結構感じていました。ただ、2人が勝ったことのない張継科(中国)にも勝てたので、神様がご褒美をくれたということですね。

 あとは一博(張一博)の存在も大きかったですね。僕より1つ上ですが、いつも自力で世界選手権の選考会に勝って代表になっていました。
 僕は、世界選手権は2005年上海大会、2006年ブレーメン大会、2007年ザグレブ大会、2013年パリ大会と4回代表になりました。パリは6年ぶりに出たんですが、1回代表から外れてから、もう1回代表に戻った人って実業団で僕が知る限り1人もいなかったんですよ。
 だから、それはなんとか達成したいと思ってました。当時は、実業団に入ったら日本代表から外れるっていうのが一般的だったので、僕と一博は、社会人になってからも世界選手権に出られるんだよっていうことをみんな伝えられたと思います。実業団に入ったら弱くなるみたいなジンクスは払拭(ふっしょく)できたんじゃないかと自負してます。

社会人としての意地を見せて6年ぶりに世界選手権の日本代表に返り咲いた

--水谷選手、岸川選手のすごさって具体的にどんなところでしたか?

 隼は劣勢でも、なんとかして勝つ、ロビングでもブロックでも何でもいいから相手コートにボールを入れて勝つ、自分のプレースタイルを変えてでも勝つ。隼が最後の方で競ってる試合とか全然格好良くないんですよ。ロビングからの引き合いとか。でも、それができるのがすごいですよ。自分がやりたくない技術を使ってでも勝つのは本当にすごいと思います。
 岸川君は、感覚がすごいですね。ボールに回転をかけて相手コートに入れる感覚は隼よりもあると思います。

高木和も水谷・岸川時代の一翼を担ってきた1人だ
2004世界ジュニア選手権リンツ大会では男子団体で優勝を飾った

--話は前後しますが、本気で卓球始めたのはいつですか?

 東京アートに入って社会人になってからですね。

--(驚きとともに)それまでもずっとトップでプレーしていましたよね。

 そうですけど、それはまではずっと組織の中で、やらされてるって言ったら怒られるけど、青森山田は練習時間も全部決まっていて、学生だからそれに従ってやってきたじゃないですか。その中で僕の場合は、お兄ちゃんがいて、大矢がいて、何も考えずに練習を頑張るだけで自然に強くなってこられたんですよ。それで、成績も残せてこられたんです。
 でも、社会人になると、自分で頑張らないとダメ。常に休んでもいい環境になると、自分で頑張っていかないといけないですから。高校までは周りが道筋を作ってくれたんですよね。
 僕が高校を卒業した時には、お兄ちゃんも一博も東京アートにいて、大矢が僕の後に入りましたが、みんな練習熱心だったから、4人でよく練習してましたね。それでも最初の頃は僕も弱かったから、格下の選手に負けることもあって、それで目が覚めましたね。

--大学という選択肢もあったと思いますが、東京アートを選んだ理由は何ですか?

 大学に行って強くなる選手もいるけど、僕の場合、大学に行ったら遊んじゃって、絶対に弱くなるなと思って。楽しい方に流されちゃうんじゃないかなっていう不安があったので、東京アートに入ったんです。
 東京アートには一博も韓陽さんもいて、日本一のチームだったし、お給料ももらうし、責任がありますよね。強い選手でいるために強いチームでプレーしたいというのはすごい感じていました。

--東京アートではエースとしてチームを引っ張っていくという意識はありましたか?

 エースという実感は全然ないです。東京アートはみんながエースですね。みんなが点数を取れるチームだし、僕はそのお手伝いができればいいかなと思ってました。
 僕の中では一博がいつも活躍してチームを助けてくれてたかなというのはありますね。強い相手でも1番とダブルスで出てくれて、流れを作ってくれて、大矢とか僕で仕留めるっていう感じでしたね。自分がエースとは本当に一回も思ったことがないです。
 自分も点を取らなきゃっていうプレッシャーはありましたが、誰でも点数を取れるチームだったので、プレッシャーもそんなに強くはなかったですね。
 ただ、2年前からは上江洲(上江洲光志)、坪井(坪井勇磨)と僕と吉田さん(小西海偉)と村松(村松雄斗)の時は、さすがに自分が点数を取らないと、と思いましたね。最低1点は取りたいと思っていました。
 最近は若手も強くなってきて、坪井もいいところで頑張ってくれるようになってきたので、その矢先のことなので残念ではあります。

後輩の坪井も東京アートで成長した選手の1人だ

--15年の間には日本リーグも変わったんじゃないでしょうか?

 強いチームと弱いチームの差が縮まってきましたよね。だから、どことやっても競るようになりました。ただ、日本リーグで活躍しても、昔から全日本で勝ち残る選手はほとんど東京アートと協和キリンだけなんですよ。それがちょっと悔しいですね。
 日本リーグでは僕らに勝てるくらい実力のある選手が、日本リーグの外に出たら勝てないことが多いので、全日本でももっと活躍する選手が出てきてほしいですね。今年(2022年全日本卓球)は大星(松下大星/クローバー歯科カスピッズ)がベスト8に入りましたけど、他の選手にももっと頑張ってほしいと思っています。

--最後に現役選手のとしての目標は?

 もう1回全日本の表彰台に立ちたいですね。それ以外のタイトルは大体取ったから。強い奴に勝ちたいとかは、そんなにないですね。もう大体勝ったことあるので(笑)
 とりあえずは来年の全日本ですね。もう一回気を引き締めて、いろんなところに行って練習したいですね。


 取材の当日は、突然の休部の知らせから1カ月近くが経過していたが、高木和の表情には戸惑いと一抹の寂しさが垣間見えた。高木和の口からチームへの思い、感謝の言葉を聞くと、心機一転というわけにはいかない心情にも納得ができた。高木和卓が東京アートの一員であった以上に、東京アートは高木和卓の一部になっていたのだ。
 常に自分を高められる環境を選んできた高木和がこれからどこへゆくのか。本人も残り少なくなってきていると語る現役生活の最後の日まで、高木和は今までと同じように妥協することなく過ごすに違いない。
 指導者としての高木和の活躍も楽しみではあるが、今はまだ、粘り強く相手コートにボールを返し続ける高木和のプレーに胸を熱くしていたい。



(まとめ=卓球レポート)

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