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わたしの練習㊼橋本トシ子 防御から攻めるカットへ

 わたしが実際にシェークのラケットを握ったのは、福島県立郡山女子高校に入学した5月ごろでした。帰りがけになにげなく講堂をのぞいたらいろいろなクラブが練習をしていました。そのなかでわたしの興味をひいたのが卓球でした。中学2年の終わりごろから3年のはじめぐらいまで、ペンホルダーで遊び程度にやったのが楽しい記憶にあったからだと思います。それから1週間ぐらい毎日練習を見ながら、どうしようかと迷っていましたが、そのときわたしのところにボールがころがってきました。そしてボールを拾いにきた人がちょうどシェークのラケットを握っていたのです。おそるおそる(大きく太っていましたのでなんとなく気おくれして)「わたしも卓球をやりたいのですがお願いします」と言ったのがきっかけで現在にいたったわけです。

 ◇粘ることを第一目標にして

 なにもできないわたいの最初の練習は、宇賀神先生の計画に従い、素振り1000回から2000回ぐらい、ランニングとうさぎとびなどで約3カ月間はボールを打つことができませんでした。その後10分、30分、2時間とボールを打つ時間が多くなり、ツッツキ、カットを中心に、何本続くか目標を決めての連続ラリー、バックハンドの攻撃練習を主にやり始めました。3年のとき初めてインターハイに出場しましたが、スピードのあるドライブ性ロングサービスを持つ選手に敗れました。以上のように高校時代は、自分がどのようなカットマンになるか、というような考えもなく教えられたとおり夢中で練習しているうちに自然に攻撃の少ない守備型のカットマンになったのだと思います。
 そして自分の卓球の幅のせまさと体力面に不安を感じながらも、三井生命に入ってがんばってみようと決心しました。入社当時の練習時間は仕事が終わってからの5時~7時30分までで、その後は自由練習です。まず基本練習主体でバックカットとツッツキのフォームを徹底的になおされました。高校のときと同じように連続ラリーの練習が多く、あとはフットワークとゲーム練習でした。先輩とのゲーム練習において最後の3本がなかなか得点できず、先輩同士の試合を見ながら考えようと思うのですが、実際はその勝敗だけを見て作戦というものを読みとることができませんでした。

 ◇一枚ラバーに徹して

 そんなとき、なんとか自分も強くなりたいと考えるようになりました。それで朝、会社の仕事が始まる前に30分~45分間男子の先輩にお願いして練習をやっていただきました。練習内容はクロス打ちとオールサイドの練習、1セットのゲーム練習をやっていただくだけだったのですが、これはその後のわたしの卓球生活において精神的な面で大いにプラスされたと思います。しかし2年目にして早くもカベにぶつかりました。からだの調子が悪くなり心技ともにスランプ状態になりました。だれかが、体力は精神力に比例する、と言っていましたが、わたし自身もそう思ったこともあります。スランプのときはだれでもそう思いがちです。でも逆に精神力が体力をおぎなう場合があるということを、カベをつきやぶったときに初めてわかりました。このときからカットマンとしてのわたしの卓球は、精神力の強化により成長させようと思いました。
 技術的には、一枚ラバーのカットは変化があまりつかないし、打たれて打たれて終わってしまう。そのため裏ソフトの変化に魅力を持ち、自分自身が行きづまりを感じたとき本当にラバーをかえようかと迷いました。監督さんに相談したら「裏ソフトにするなら卓球をやめるときにしなさい」と一言で終わりでした。しかたがなくまた思いなおして、一枚ラバーでなるべく打たれないようなツッツキとカットの練習に主眼をおきました。まずボールが浮かないように、それにツッツキの場合とカットの場合のボールのスピードの差を大きくする練習、もっと攻撃力をつける練習などをやりました。
 そして昭和39年度の全日本軟式選手権大会でのシングルスに優勝、自分自身驚いてしまうとともに勝負の厳しさを痛切に感じました。優勝したということの誇りと責任を感じて、自分自身も、またまわりの人たちも非常に厳しくなりました。もちろん練習時間もいままでより1時間から2時間多くなりました。まずカットマンとしてツッツキやカットで粘りとおせる練習をすること、それには前後左右のフットワークが一番大切だったと思います。その年の全日本硬式選手権大会でループドライブに敗れ、また練習課題が多くなりました。ループドライブに対しては十分研究しなければならず、男子にたくさん打ってもらいました。そして昭和40年6月の全日本軟式選手権を目標に、体力トレーニング約30分と技術練習、特にバックカットでの守備的なカットと攻撃的なカットの練習、ツッツキからふいに攻撃された場合の守備とフットワーク、ストップボールを攻撃する練習、レシーブ練習、最後にゲーム練習など黙々とがんばりました。精神的にいろいろなことが重なり苦しみながらも練習のときはすべてを忘れて練習に集中しようと努力しました。試合の結果は、決勝でカットマンに敗れましたが、この練習と試合から得た自信は大であったと思います。その後は全日本硬式選手権を目標に、いままでの練習にプラスして特に強化したのは、カットマン同士の両ハンド攻撃練習とその使い方の研究でした。自分のスピードのないボールに対して、いかにスピードをつけるか、またいかにしてそのボールで得点するか等々…。

 ◇すばらしい林慧卿と鄭敏之

 幸いにして10月頃に強対合宿に参加する機会が与えられました。この合宿でいろいろな選手に接し、またコーチしていただき、いままで気がつかなかった多くの経験をしました。強化合宿ではランニング、ダッシュ、ウエイトトレーニング、マット運動などをやりましたが、すべてビリでした。苦しさと恥ずかしさをこらえ、会社に帰ってから毎日のランニングとダッシュ、2日おきのサーキットとウエイトトレーニングを続けました。この半年は苦しさの連続でした。しかし幸運にも8月の中国遠征の代表に選ばれ、自分の目で林慧卿選手や鄭敏之選手を見ることができました。このふたりはわたしが考えていたカットマンのカベを完全に乗りこえていました。軽い身のこなしと攻撃的なカットはわたしに新たな課題を与えてくれました。日本へ帰ってから与えられた練習時間の多くをツッツキの変化(横回転、ナックル、プッシュ)、強打されたボールを切って返す練習に費やしました。なかなか思うようにはできませんでした。ツッツキはミスが多くなり、カットは浮きました。
 昨年の全日本硬式選手権、3月の東京選手権は惨敗で自分でも納得することができませんでした。やっと6月の全日本実業団選手権で自分なりに納得できるプレーができたと思っています。しかし中国の選手にはまだまだおよびません。あのようなカットマンは、規律正しい生活と体力トレーニング、豊富な練習量によってのみ生まれるのではないかと思います。その点では自分の努力のたりなさを痛感しております。
 カットマンは、促進ルールもあることですから試合で得点できるような攻撃力を持たなければならないと同時に、スピードのある卓球になってきていますから、当然ロングマン以上のフットワークが要求されると思います。それらはもちろんトレーニングにより強化するわけですが、瞬間的なスピードは体の柔軟性でも十分おぎなえると思いますし、特にカットマンにとっては絶対に必要なことであると思います。そして日本のカットマンが国内戦には強いが国外戦になると弱いと言われてきましたが、今後はどんなタイプの選手にも絶対強いというような若手選手が生まれることを期待いたします。またこのような選手が生まれるよう、強化合宿や中国遠征の経験を生かしてなにかのお役にたつよう、わたしもがんばりたいと思っております。


はしもと としこ 三井生命勤務。
一枚ラバー、右利きシェークのカットマン。
’66年夏の日中対抗日本代表


(1967年8月号掲載)

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