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「卓球は血と魂だ」 第一章 一 柳井商業卓球部時代

第一章    わが卓球の創造 -選手、役員時代-

一 柳井商業卓球部時代


 昭和八年四月、私は旧制柳井商業学校に入学、その日から卓球部員となり練習を始めた。柳商に卓球部ができたのは昭和六年で、それまでは庭球部の中の卓球班という存在だった。従って練習場といえばせまい図書室に一台おいてあり、ここは五人のレギュラーの練習で、他は廊下に一台おいてあっただけだった。

 この廊下で一番強くなった者がレギュラーに入れてもらえる、ということなので、私は一生懸命にそこでプレーした。十本一セットで勝った者がつづけるわけで負けたら十人くらい待たなければならなかった。約半年後、私はレギュラーの部屋へ入れてもらい、四年生や五年生との練習になった。

 当時の山口県下の中等学校卓球大会は、山口市にある山口高商主催(春)と山口高校(秋)の二回であった。私は二年生から正選手となり(当時、団体戦は五シングルス)、私が三年生の時、柳井商業学校は鴻城中学、多々良中学、小郡農林、山口師範などを破って初の優勝を遂げ、個人戦でも私が優勝した。

 この優勝によって卓球部の存在が認められ、初めて卓球部の練習に神聖なる?講堂の使用が許され、コートも一台新調してもらえることになった。といっても放課後練習前にコートを搬入し、練習終了後はもとの通り、講堂の腰掛を整列させておかねばならなかった。

 私は四年生の時は広島市で開催の近県中等学校大会に出場し、広島県でも制覇した。五年生の時には山口県の一般男子の部で初優勝し、全日本選手権大会で三回戦まで勝ち進むことができた。この時(昭和十二年)の私の技術は、オールロング即ちフットワークを猛練習し、オールフォアハンドの攻撃選手だった。(もっとも当時はまだ軟式卓球時代だった。また当時の軟式はコートの幅が少しせまかった)

 なぜオールフォアであったかというと、五年生の春には東京、大阪方面に十日間の修学旅行が行われていた。私は大阪での自由行動時間に武川卓球館で開催されていた硬式の模範試合を見学することができたからだ。全日本チャンピオンの渡辺重五選手(関学大)の試合を見て、軽快なフットワークと豪快なフォアハンドの美技に魅了された結果であった。

 柳商時代、最も情なかったことは全国中等学校大会(毎年一月はじめ、東京で開催されていた東郷旗争奪戦)に遠征させてもらえないことだった。当時は県予選なしで出場できたのに、また十分に近県代表の資格もあったのに。遠征費の予算がないことが第一だが、それ以上に卓球部の存在が、職員室で十分認められていなかった、といった方が当っているだろう。

 軍国主義はなやか時代。各中学校は制服にゲートルを巻き、先生や先輩には挙手の敬礼時代だった。必須教課には軍事教練があり、武道(剣道か柔道を選択)があった。通信簿の中には「操行」らんがあり、私はいつも「乙」、甲になったのは卒業前だった。なぜ甲になれなかったか、私が卓球部員でなく、剣道部員だったら初めから甲であった、と信じている。

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