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「卓球は血と魂だ」 第二章 一-イ、負けるのは、くやしい

第二章 どうしたら勝てるか

一 感謝はするが満足はせず

イ、負けるのは、くやしい


 昭和六年十一才で卓球を知り、卓球の魔力にとりつかれて以来、三十五才で現役選手を引退するまで、選手として技術の向上、リーダーとして後進の育成に全力をつくした時代の私にとって、まさに「卓球は私の血と魂」であった。

 ひところは、卓球は私の恋人と思っていたし、私のすべてと云ってよかった。もちろん、中学時代は学業もあったし、卒業後は家業があったが、それはつけ足し、というか、卓球をやるための、また生きていくためのわき役だった、と云ってよかった。

 昭和十二年十七才の時、初めて全日本選手権大会の一般男子の部に出場、その時に偉大な今孝選手(早大)のプレーを見て、その華麗なオールラウンドプレーにほれ込み、オールフォアハンドの攻撃から一転して、私は守備主戦オールラウンドに転向、今選手への文通で指導をうけるようになった。

 今選手は青森商業から早大へ進み、昭和十一、十二年は全日本制覇の実力をもちながら、いずれも決勝で渡辺重五選手(関学大)の猛攻に惜敗したが、その後の二年間は全日本男子単複で完勝、全日本学生男子単五連覇など前人未踏の大選手と云われた人だった。

 青森商業時代、全国中学大会の決勝で青森中学の宮川選手と六時間という長時間記録をつくって敗れた話は有名である。早大に入って攻撃力を身につけ、見事なオールラウンドプレーを完成した今選手に学び、あの様に、打たれれば守り、機を見て攻撃に転じ、理詰めな戦法で相手を撃破していく戦型こそ卓球の花だ、くめども盡(つ)きぬ卓球の醍醐味だ、と思い込んだ。しかし、長身の今さんと背の低い私のプレーはかみ合わず、グリップにも悩み、選手として最も大切な十九から二十一才の時期はひどいスランプにおち入ってしまった。

 そして、そのまま戦争の時代に突入して数年が過ぎた。幸運にも生き残った私は、再びラケットを握るよろこびをかみしめた。その時点から、私は自分に合った自然なグリップで卓球を再開、ひたすら田舛式卓球の開拓を志した。翌二十一年からの四年間は、全日本の上位ランクから落ちなかった。おそ咲きの開花だった。めぐまれない地方の選手としては成功したといえるだろう。

 そして昭和二十四年の暮、仕事との両立に悩んだ上、ついにこれが最後と決心して出場した全日本選手権大会で、男子単三位、男子複七位、混合複一位というランキングをみやげに個人戦出場から引退したのであるから、それをもって満足しなければならないはずである。

 だが、卓球をやる以上、もちろん私も、一度は全日本をとりたいと思っていたし、それを目前にしたままで引退というのは身を切られるように残念なことだった。しかし考えてみると、私という人間は、その後においても前においても、何事によらず、感謝することはあってもいつも満足することのできない人間なのであった。

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