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「作戦あれこれ」第47回 闘志と集中力で勝ち取った対井上戦

 '73年度全日本選手権。準決勝でカットマンの古川選手(東京、青卓会)を苦戦の末に3対2で破った私は、6年連続決勝進出を果たした。
 全日本の準決勝で、最終ゲームで持ち込まれるような試合をするとものすごく疲れて体力をなくすものだ。しかし今大会は大会前のコンディションづくりもうまくいき、準決勝の最終ゲームはストップなしのドライブ攻撃の強攻策がズバリ当たり、精神的な消耗が少なくてすんだのは決勝戦をひかえて大変幸運なことだった。決勝戦の相手が体力を必要とするショートのうまい左腕速攻の井上哲夫選手(東京、シチズン時計→現在は井上スポーツ)だっただけによけいだった。
 彼と私は、大学が優勝を争うライバル校(彼は専修大、私は愛知工大)同士でもあり、インカレや東日本学生王座決定戦、また全日本学生や国体などで何度も対戦していた。
 全日本選手権でも、昭和45年度の準決勝と46年度の決勝で対戦しており今大会は3度目の対戦だった。46年に私が全日本タイ記録の5度目の優勝をしたときの決勝戦の相手でもあり、比較的相性が良かった。
 しかし、この大会での彼の活躍はすばらしく、準々決勝で前年度チャンピオンの高島選手(近畿大→近畿大職、現日本チャンピオン)のカットを破り、続く準決勝でも河野選手(アストールクラブ、現在は青森商業教員)を速攻戦の末に破っている。2人の優勝候補を破っての決勝進出だった。井上選手が好調なうえに日本1を争う全日本の決勝戦というのは、準決勝までとまるっきり雰囲気が違う。精神的重圧も違う。私はさらに気を引き締め、作戦も試合の心構えも慎重に考えた。

 レシーブからフォアで動いて攻める積極的な作戦を立てたのだが...

 私は、これまでの試合を振り返って次の作戦をたてた。レシーブからフォアで動いてバックサイド中心に攻め、井上選手にツッツキかショートで返させて、そのあと相手の動きの逆や読みの逆へドライブで攻める。バックハンドを使うときもコースを考えて攻める。そしてチャンスボールは思い切り叩く。
 サービスのときも、逆モーションのバックハンドサービスから攻め、3球目をフォアで動いてドライブからの強打で積極的に攻める。速攻型の弱点はフォアサイドであり、彼の弱点もフォアサイドである。しかし、コースを読まれた場合は逆に強打で狙われるのでコースには十分に気をつけなければならないと思った。
 その他には、次のように考えた。
 ・もし先に攻め込まれた場合は、両ハンドロング、またはロビングで粘り強く打ち返す
 ・常にしっかりからだに引きつけ腰を入れて打つ
 ・しっかり動く
 <試合の心構え>
 ・最多優勝記録のことは絶対に意識しない
 ・常に相手以上の気力、集中力で戦う
 ・勝敗にこだわらず、今まで積み重ねてきた、心、技、体、智をすべて出して戦う
 ・思い切ってやる
 しかし試合前、次のたった一試合で昭和48年度の日本一が決まるかと思うと「絶対負けられない試合」とプレッシャーが肩に重くのしかかった。これを振り払うためにもダッシュやスマッシュの素振り、シャドウプレイを繰り返してから試合場に出た。

 井上選手のすばらしい速攻に苦戦

 試合開始。私のサービスで始まった。
 私は、試合前に立てた作戦通り逆モーションバックハンドサービスでいった。相手の逆をつくように、バック側に短い変化サービスやナックル性ロングサービス、またフォア側にドライブ性ロングサービスを出した。レシーブのときは、フォアで動いて払ったり、回り込めないサービスやフォアに小さく出されて払えないボールは、ツッツキに変化をつけて返したりショートで主にバック側へレシーブした。
 ところが、彼はこの戦法を完全に読んでいた。私の逆モーションサービスを読んですばやく動いてはフォアで払ったり、コートから1バウンドで出るのはすかさず彼独特のフォームである短いスイングでループドライブをかけてきた。そして2バウンドするショートサービスのときもコートで2バウンド以上するストップレシーブや、彼得意のスナップを鋭く使った曲がる横回転ツッツキレシーブでうまくレシーブしてきた。そして4球目から鋭い打球で、ミドル、バックに攻められたので態勢を整える時間がなく、フォアハンド、バックハンドとも封じられてしまった。
 レシーブのときもひどかった。1つは井上選手のサービスの出し方が進歩していたからである。いつもは構えてから2秒から4秒のタイミングでサービスを出してきていたのが、今回は構えたときに一呼吸おきそれからゆっくりとバックスイングを引いてからすばやく出す。といった、いつもより1秒から2秒おくらせて、相手のレシーブのタイミングを少しでも狂わす工夫をしてきた。そのためレシーブのスタートが遅れて威力がなくなり、フォアで動いてバック側に払って返すレシーブ、ツッツキレシーブをほとんど読まれ、前陣からフォアハンド強打や彼得意のプッシュショートまたはドライブですかさず攻撃された。
 このために私は、サービスから3球目のときもレシーブから4球目のときも、余裕がなく両ハンドやツッツキで少しでも相手の攻撃を防ぐように返球するのが精一杯。したがって球威はなく、コースも甘くなって先手、先手と攻められた。得意のドライブはときどきしか使えず、彼の前陣攻撃対私の中陣での両ハンドによるしのぎ、の最悪のラリー展開になってしまった。スタート当初はドライブとバックハンドで攻めながら相手の攻撃の様子を見るつもりでいたがとてもそんな状態ではなく、ポイントが離れないようにすることで必死だった。
 私は、ラリーが終わるたびに「どうしたら有利なラリー展開に持っていけるか?以前、彼とやったときにはどんな戦法が良かったか?中国選手とやったときにどのようなことに注意したか?」と、いろいろと考え少しでも早く自分のプレイができるように頭を働かせた。すると次のことを徐々に思い出してきた。

 つなぐときは低いボールでコースをつく

 ①払うレシーブに威力がないので攻め込まれている。払うときはできるかぎり鋭く払い、もしツッツキレシーブで返球するときはネットスレスレの低いツッツキでコースをつく。ショートも同じ
 ②サービスのとき、ショートサービスがコートから1バウンドで出る中途半端なサービスは絶対に出してはいけない。ショートサービスは、必ずコート上で2バウンド以上するバウンドの低い変化のあるサービスを出す。その時に、よいストップレシーブを防ぐためにしっかりと切り変化をつける。そして甘いストップレシーブは3球目で狙っていく。ロングサービスはコーナーぎりぎりに出す。それとバックスイングからインパクトまでの動きをもっと速くしてコースを読まれないようにする
 ③サービスのときもレシーブのときもラリーのときも打球後にすばやく脇を締め基本姿勢に戻って次の攻守に備える
 ④打球するとき、しっかりと引きつけて打つ
 ⑤自信を持ってやる
 ⑥ミドルに攻めてきたボールは思い切ってフォアで回り込む
 このように、速攻とやるときに大事なことを次々に思いだし、それにつれて自信と勇気がよみがえってきた。中盤の中ごろには、レシーブ攻撃や3球目攻撃を半分くらいしか浴びなくなり、私の両ハンド攻撃対彼のフォア強打とプッシュショートのロング戦に持ち込めるようになった。得意のロング戦で確か15オールと追い上げ一気に逆転するチャンスを迎えた。
 だが、私はここから調子がおかしくなった。その第1の原因は「井上選手は終盤でせると焦りから凡ミスが出る」と思ってホッと一息ついてしまったからだ。そのために、張り詰めていた緊張がゆるみ、気力、集中力が薄れ対速攻のときに大事なプレイをすることができなくなった。とくに、気力、集中力が薄れ打球後の戻りが遅くなったことは致命傷となった。先手を取られ一番の弱点であるミドル、バックを攻められあれよあれよという間に18対20とゲームポイントを取られてしまった。

 子供の声援で闘志がよみがえる―逆転

 私は危険を感じた。「第1ゲームを落としたら危ない!闘志を出すんだ!向かっていくんだ!集中するんだ!」と自分自身を激しく叱って闘志を燃やし集中するように努力した。しかし大事な場面を迎えても井上選手の水が流れるごとく淡々としてやる表情に「ヨーシ、がんばるぞ」という闘志がわかなかった。私はこのようなポーカーフェイスは大変苦手だった。だから18対20となったときは「十中八九ダメだ」と思い、なかばあきらめかけていた。
 このときだった。観覧席から「おじちゃん、がんばって!」という大きなかわいい声援が聞こえた。その声はベンチコーチに入っていた長兄の一番下の2歳10ヵ月になる子供(聡君)の声であったとすぐにわかった。
 私はこの瞬間「あんなに小さい子供までが一生懸命に応援してくれてるんだ。何とかガンバらなくては恥ずかしい。ヨーシ、ガンバルぞ!」と、目頭がジーンとして腹の底から闘志が沸いてきた。そしてようやく向かっていく気持ちになった。井上選手のポーカーフェイスに対し私は、この闘志をそのままボールにぶつけた。それでようやく心・技・体が一体となった。次の1本。井上選手にツッツキレシーブをミドルにドライブ攻撃されたが、プッシュショートで攻め返してショートミスを誘った。19-20から、井上選手がフォアへドライブ性ロングサービスをだしてきたのを、先手をとってドライブ攻撃してジュースに持ち込んだ。そのあとも勢いにのってドライブで攻め、ついに4本連取して22対20と逆転に成功した。

 闘志と体力、集中力で全日本最多優勝

 この先行は、試合に実に大きく影響した。彼としては致命傷となった。それは、試合が長引けば長引くほど体力が消耗し、お互いに戦法を知り尽くしていた場合パワーのあるほうが有利になるからだ。
 この試合もそのとおりになった。私は第2ゲームは彼の速攻にジュースで落としてタイに持ち込まれたが、第3ゲームは彼のミドル攻撃の戦法やサービスレシーブを読んでそれをまってドライブ攻撃、バックハンド攻撃して打ち勝ち2対1とリードした。
 そして最終ゲームとなった第4ゲームは、彼の積極的な攻撃にあって13対12と中盤まで一進一退のシーソーゲーム。しかし、彼がここから私のしのぎに対して2本痛いスマッシュミスをした。攻撃選手が私のロビングを打ち抜けず連続してミスした場合のその胸中は「せっかくロビングの守りまで追い込んでおきながらあんな高いボールをミスしてしまった。それにしも全力でスマッシュしてもなかなか抜けない。凡ミスは損だ。まして低いボールを無理してスマッシュしたら、抜けないうえにミスが多くでる。慎重に入れていかなければ...。」と考えて足が止まり、攻めようとはしても思い切りがなくなるので攻めにならない。といっても攻撃型だから守ろうとするわけでもない(カットマンなら守りに徹するのだが)といった中途半端な弱い状態に陥ることが多い。そこで私は「チャンス!」と思い連続してバック側へナックル性ロングサービスを出し3球目を全身全霊でドライブ攻撃した。バックハンド攻撃も決まった。守るときも一球一球全力を尽し、相手の動きが鈍くなったところを両サイドへ激しくゆさぶった。
 結局第4ゲームも第3ゲームと同様に16本で勝ち、強豪井上選手を3対1で下して6度目の史上最多優勝記録を達成した。
 私は試合後、つくづく「試合は闘志と集中力が大切だ」また、対速攻戦は「戻りが大切だ」と再認識した。そして心から2歳10ヵ月の甥の聡君に感謝した。



筆者紹介 長谷川信彦
hase.jpg1947年3月5日-2005年11月7日
1965年に史上最年少の18歳9カ月で全日本選手権大会男子シングルス優勝。1967年世界選手権ストックホルム大会では初出場で3冠(男子団体・男子 シングルス・混合ダブルス)に輝いた。男子団体に3回連続優勝。伊藤繁雄、河野満とともに1960〜70年代の日本の黄金時代を支えた。
運動能力が決して優れていたわけではなかった長谷川は、そのコンプレックスをバネに想像を絶する猛練習を行って世界一になった「努力の天才」である。
人差し指がバック面の中央付近にくる「1本差し」と呼ばれる独特のグリップから放つ"ジェットドライブ"や、ロビングからのカウンターバックハンドスマッシュなど、絵に描いたようなスーパープレーで観衆を魅了した。
本稿は卓球レポート1979年6月号に掲載されたものです。

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