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わたしの練習㉚田阪登紀夫 フットワークとカット打ち

 ぼくがラケットを手にしてから、8年ほどになります。今年の長崎インターハイは、ぼくとしては、最後のインターハイで団体に2連勝し、東山卓球部の歴史に新しい1ページを加えることができ、個人戦単複にも好成績があげられ、自分なりに満足できる成績を残すことができ、ほっとしたところです。高校生活もあとわずかを残すのみとなり、ここで自分の卓球の一つの区切りをつける良い機会として、思い出すままに自分の歩んできた卓球生活について書いてみたいと思います。

 ◇フォアハンド一本で

 父が卓球に関係しているためか、兄たちも卓球を志し、卓球談義にあけくれている生活環境が自然ぼくにも伝わり、小学校の5年生ごろからラケットをにぎるようになりました。
 中学時代は、比較的卓球の伝統をもつ桂中学校で藤原先生を中心に、主として実戦練習をつづけました。ときには卓球場に通ったこともあって、ここでは自然にいろいろなタイプの人達に接することができ、これが今日非常にプラスになったと思っています。
 中学2年生、3年生と京都府下大会で連勝したことから自信らしきものが出てきて、ぜひとも高校進学は卓球の伝統ある東山高校へ行って思い切りやってみよう、という堅い気持ちでした。父や兄たちの声援もあって、希望を胸一杯にいだきながら東山高校に入学しました。先輩の中にはずらりと強者がならび、その練習ぶりはスピード、長いラリーと長時間にわたる多種多様な基本練習など、想像を越えたものでした。初練習はバカ当たりし(先生や先輩から後日よく言われた)思ったほど当惑もせず、この分だと先輩について行けそうな気持ちになって、ますますファイトがわいてきたように思います。
 1年生のときのインターハイは京都で行われましたが地元の利が幸いし、予選を通りそわそわしながら出場しました。団体戦では、ベンチの端っこで先輩のプレーに声援を送っていました。準決勝で青森商に敗れ、個人戦が始まりました。「試合は無欲でのぞめ」と、よく言われますが、この大会でようやくその意味がわかりかけたように思いました。3回戦で第5シードの田中さん(鹿児島商)を破ったときは、全く無欲の勝利でした。4回戦はランク決定戦です。相手はいちばんきらいなカットマン芝野さん(大阪・泉南高出、現専大)。結局2-1で敗れ、自分のプレーに幅のないことが痛感されました。ぼくは表ソフトのためかどうも強い回転に対して苦手です。「強いトップスピンを使う選手や切れたカットを持つ選手には、どう対戦したらよいか」が以後の練習の課題になり「フォアハンド一点ばりでアタックしよう」を、その手段としました。まだまだガムシャラなプレーばかりでした。その後近畿大会で団体戦のレギュラーに選ばれ、決勝戦トップで赤山さん(神戸商)、また全日本硬式選手権でインターハイダブルスの優勝者川人さん(愛知・岡崎北高出、現関学)にそれぞれ勝つことができました。
 2年生になり、日中京都大会に先輩の馬淵さんと出場しましたが、この大会では勝ったという喜びよりも「フォアハンド一点ばりのアタックができた」「雰囲気を気にしなくなった」この二つの点に自信がもてたことの喜びの方がはるかに大きいものでした。

 ◇心・技・体の向上を目指して

 待ちに待ったインターハイでは、馬淵さん(専大)、岡田さん(早大)、亀田さん(同志社大)の先輩たちと共に団体優勝ができましたが、ぼくとしては非常に苦しいものでした。合宿中に両足の親指を切ってしまい動くたびにそれが痛み、満足なプレーをすることができなかったからです。優勝後の今井先生のうれしそうな顔を見たときは足の痛みも忘れてしまったが、反対に今まで張りつめていた気持ちが抜けてしまい、シングルスではまたランク決定で山川君(新潟・高田工)に敗れてしまい、心・技・体・和・知のすべてがそろわなければ立派な選手になることができないことを肝に命じた次第です。
 精神的には卓球部の「十の教訓」を守ることによって、日常生活の心構えを有意義なものにし、トレーニングも真剣なものとしました。先生は本当のチームワークは、仲良くすることではなくて競争することである、と言われる。東山では試合の1、2週間前の合同練習(部員全員)中に数多くのリーグ戦がありますが、部員の勝負に対する執念は恐ろしいもので、この競争によって心・技・体・和・知が向上するのは当然だと思われます。「お前は案外押された後のボールを打って勝負し成功している例が多く、反対にアタックアタックと攻められると意外に勝負に負けてしまうことが多い。個人戦では必ず失敗するぞ」という注意を受け、「打つばかりが能じゃない」「フォアハンドだけでは変化がない」「回転に対する処置」が目標となってきました。

 ◇課題練習と取りくみながら

 12月の全日本硬式から、今年の5月までは猛練習の連続でした。これらの強化練習にあたっては「無心でやること」「なんでもやってやろうという求める心」「研究熱をもりあげること」「一喜一憂をすべきでないこと」「不平不満をなくす和」などの戒めがありました。技術的には具体的に①サービスとそのタイミング(レシーブ)②多種多様なフットワーク③カット打ち④フォアサイドの強化⑤変わり身(バックとショートの切り替え)⑥ダブルスについてなど、約20の課題がこまかくあげられ一人一人がそのいずれかの練習を3日とか1週間に区切ってやり、計画に遺憾のないようたびたびミーティングが行われた。2月は入学試験の関係から練習場の都合が悪く、主として体力トレーニングを行い、①サーキット②ランニング③ダッシュ④腹筋、背筋、握力、跳躍など。3月、4月はリーグ戦が3日間隔ぐらいで行われました。
 夏を目ざしての強化は強行され、2年生も目にみえて上達し、僚友の西田、青木君らも快調でした。ぼくはちょうどこのころ全くふるわず、ずいぶんとあせりを感じたものでした。5月初旬熊谷商工、高田工に遠征に行きましたが全く最低のコンディションでした。どのようにしたら立ち直れるかが当面の大きな課題となりましたが、帰京するなり先生に一喝され、悲壮感から前向きになることができました。中間試験後(試験の4日前頃から練習はやらない)体力的なコンディションも整い、インターハイまでのスケジュールが発表されて練習時間が1時間延長(いつもは3時20分~6時30分まで。延長できない週は朝1時間早くからやる)され、また新しい課題もふえてきました。団体戦後の個人戦まで集中力をゆるめない精神力も要求されました。7月18日から合宿、とうとうくるべきときがきました。全神経を集中して最後のインターハイを思い切り戦うことを心に命じて、合宿にとりくんだつもりでした。
 近畿大会も順調に終わり29日から阿蘇内牧での合宿です。自信を持っていたはずなのにどうしたことか妙に不安につつまれ、調子も悪く、2年生が大会でどれだけやってくれるかなどぼくが考えなくてもよいことが頭から消えず、連日のミーティングや先輩のあたたかい指導もいっこうに効果がなく、全く当惑の状態でした。8月1日急に先生が阿蘇に登って心をおちつけようと言われた。あの雄大な光景を目の前にして、いままでの思い出を回想するにつれて、ふとこういうことが思い出されてきました。それは「インターハイに1年生から出場したものは必ず成功する」といつか先生が言われたことです。このことが心の支えとなって思い切ったプレーができたと思っています。度胸が出たことです。大会中、夜は「十の教訓」を部員全員で清書することにしています。雑念を払うのに格好のものです。
 僚友の西田君、2年生の小寺、土岡の活躍により団体戦に優勝し、昨年の優勝の感激とはちがった新たなものがありました。個人戦単複にしてもだいたい満足な成績をあげることができたのも、東山高校というおおぜいの熱心な先生方の好指導のもと、活躍中の多くの先輩諸兄や同僚に刺激される恵まれた環境で、いろいろな点で学び学ばれつつ思い切り練習できたことが、今日のぼくにとって非常にしあわせであったことは申すまでもないことです。
 高校時代を一つの飛躍台として「兜(かぶと)の緒(お)はしめられるときにしめよう」という気持ちです。後輩達に負けないよう努力したいと思っています。

たさか ときお
京都・東山高3年。表ソフトの攻撃選手。
昭和40年度全国高校男子シングルス優勝者

(1965年12月号掲載)

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