1. 卓球レポート Top
  2. その他
  3. 卓球レポートアーカイブ
  4. 「わたしの練習」
  5. わたしの練習62村上静代 体力を気力でカバーして

わたしの練習62村上静代 体力を気力でカバーして

 卓球を始めたキッカケは、中学に入ったときどこにでもあるクラブ紹介で、卓球部がなんとなく印象づけられたからです。そのときは、からだを強くするために運動クラブへでも入ろうかな、というような単純な気持ちで卓球部に入りました。環境的にはあまり恵まれない小さな中学校(松原市立松原第三中学校)でしたが、幸いにも熱心な寺田先生がいてくださり、学校側の暖かい応援もあって、ここで現在にいたるまでの基盤がつくられたような気がします。
 卓球部に入ってまもなく、ある男子の先輩から、私に直接「おまえはいちばん最初に辞めるだろう」と言われました。それがくやしくて、夏休みの練習を必死にやったことを覚えています。そのころのクラブは、練習中は決してすわってはならぬ、決して水を飲んではならぬ、という規則があり、それを実行するにはすごく苦しかったです。
 練習内容といっても、フォア、バックの乱打が主で、実戦的なことはほとんど知りませんでした。1日の練習時間も1時間足らずで、おまけに練習場は小学校のコンクリート・フロアの講堂を借りて行っておりましたから、試合前であっても小学校の都合で練習できない日がよくあったように記憶しています。中学校での成績は、四天王寺中学に負けっぱなしであまりパッとしたものではありませんでした。

 ◇3日に1回通院しながら

 四天王寺高校へ入学しました。高一のときはなにもわからず、ただついていくのが精いっぱいの毎日でした。体力のない私にとって、いままでにいちばんつらかったときはこのときではないでしょうか。からだが持たなくてよく休んでしかられ、泣き泣き練習場に通い、はたして自分みたいなものが3年間高校で卓球をやっていけるだろうかと真剣に悩みました。そんなことのくり返しで、上達したのかしないのか自分でもわからないまま1年が過ぎてしまいました。
 高校2年ともなると、やはりクラブに対する自分の気持ちも変わり、「フラフラしていてはいけない」という信念が少し出てきたのか、充実した毎日が送れるようになりました。意欲も出てき、先輩の阪本さん(専大)みたいになりたいとあこがれを持つようになりましたし、試合に対する考え方も1年のころとはなにか異なったものが持てるようになりました。
 しかし、からだにあまり自信がないし、それをどういうふうに持っていくかで、クラブのみんなに迷惑をかけていたようです。自分で自分の弱いからだがいやになったこともよくありました。でも吉村先生の勧めで自分の健康状態をよく知るために、4月の初めから松本内科に3日に1回の割りで通院し、練習量も少しずつ増やしていきました。そのたびに、前よりからだが少し強くなってきているのだから、ということを自分に言い聞かせて今日まできました。

 ◇伝統に支えられて

 インターハイは、高1のとき1回だけだしてもらいましたが、ほんとうに学校を代表して出るんだという気持ちで出たのは高2のときでした。わが校には2連覇という輝かしい伝統があっただけに誇らしくもあったし、それは私の使命感となってすごく重荷にも感じました。大関さん(青山学大)、梶原さん(住友金属)の両先輩に続いて1点でも私がポイントしなくてはと思い、その気持ちが強すぎてか試合前日まで何かこわくてこわくて、それでいて試合が早く終わってほしいような不安ばかりに悩まされました。が、その不安があまりにも早くやってきたのです。対由利高校(秋田)戦で4番の私が負けてしまい、2対2になってしまったときはほんとうに責任を感じてしまいました。でも由利のラストはカットマンで、わが校はカット打ちのうまい阪本さんでしたので勝つことができました。これで準々決勝に進出したのです。私はほっとしました。でもここで安心してはいられませんでした。いままでチーム全員が、先輩の築かれた栄光を支えに、また、私たちのチームになってからこの栄光を失ったと言われたくないためにも、打倒華頂女子高(京都)、桜ヶ丘高(愛知)を目ざして必死で練習してきたのです。とにかく優勝を目ざさなければなりません。結果はみんなのがんばりで団体優勝することができました。シングルスもベスト16に入りました。
 その年の全日本ジュニアの部も初優勝することができました。このときは自分で優勝した気がせず、なんとなくホッとしたような気持ちでした。

 ◇やる気になればなんでもできる

 このときから少しずつ自分の卓球というものがわかりかけてきました。そして、3月に行われた大阪硬式選手権で伊藤和子さん(大生信用組合)に勝って優勝することができたのです。このときはまるで夢を見ているようでした。せっかく自信がつきかけたのにそれもつかの間、練習で足をこわしてしまいました。それがなおったのは国体の前ぐらいだったでしょうか…。
 その間、インターハイがありました。私はもう高校3年。いままで以上に責任を感じたためか、インターハイ直前にあった近畿大会でコンディションをくずしてしまったのです。そのため大会5日前に富山に出かけコンディションの調整に必死で努めました。
 大会が始まり、決勝トーナメントで久保学園(岩手)の今野さん(愛工大)、京浜女子商の小餅さん(愛工大)、山口さん(専大)に苦戦しました。この試合では、足の故障の影響から試合中倒れてしまい、ふらふらしながら試合をしたのは覚えていますが、どうして試合を進めたのかはさっぱり覚えておりません。大切な試合でこのような最悪のコンディションしか持っていけなかったことは情けなく思いましたが、この試合から私は貴重なものを得ました。「人間、執念を持ってやる気になればなんでもやれる」ということです。このことは、現在までの私の卓球生活において最も教えられたことであり、身を持って感じたのでほんとうに理解できたことです。

 ◇実戦的な基本練習を主体に

 高校時代の練習は、チームあっての私でしたのでチームを中心とした基本練習中心の実戦練習と、精神鍛錬の併用です。せり合いになったとき自分のたよれるものは基本技術です。基礎ができていないと、最後の自分の切り札にすべきものができあがらないと、と私は考えるからです。そして、得意、不得意の練習、ツッツキ、ツッツキ打ち、サービス・レシーブなどが主で、試合前になるとそのなかに仮想練習(相手を想定して)、ゲーム練習を加えていきました。
 大学に進んだ現在は、カットの守備範囲を広げることと下半身の強化に取りくみ練習に励んでおります。目標にするべき多くの先輩はおられるし、いろんな人が応援してくださるし、まったく私は恵まれすぎかもしれません。でもこの良い環境におぼれることなく、じみちにこれからの自分のいくべき道を歩んでいきたいと思っております。
 「努力の前に不可能なし」尊い良い言葉だと思います。いまの私には、まだまだこの言葉に対する心がまえができていない、ほんとうにこの言葉を吸収し、ほんとうにこの言葉を自分のものとするには、まだまだ苦労しなければ、そして年月をかけなければ、と自分に言い聞かせながら、これからの毎日を過ごしていきたいと思います。

むらかみしずよ
四天王寺女大1年。一枚ラバー、シェークのカットマン
昭和41年度全日本ジュニア優勝。全日本ランク16位


(1968年11月号掲載)
\この記事をシェアする/

Rankingランキング

■その他の人気記事

NEW ARTICLE新着記事

■その他の新着記事