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「世界一への道」河野満 ―究極の前陣速攻選手―2

 上下関係
「おい1年生、ネットがたるんでるぞ!」
 上級生の怒号が響き渡る。河野が入った青森商高の卓球部は徹底的な縦社会だった。上級生の言うことは絶対で、逆らうことは許されない。中学までとはまったく違う雰囲気に、河野は戸惑っていた。
 怒鳴られるだけならまだしも、殴られることさえある。卓球台が曲がっていると殴られ、床が汚いと殴られた。あげくの果てには、
「態度が悪い。明日からお前ら全員坊主だ」
などと言い渡される。1年生にとって、部活は地獄のようだった。
 上下関係だけでなく、練習自体も非常に厳しいものだった。走り込み、フットワークといったハードな練習が、5~6時間も行われた。
 小中学校時代はうさぎ跳びを徹底的にやっていたが、高校のトレーニングは走り込みがメインだった。ひたすら走って足腰をきたえるという毎日が続く。走り込みが終わったら、先輩たちの後ろに立って球拾いをする。台を使うのは上級生が優先なのだ。
 5~6時間も練習時間があるのに、台についてボールを打てる時間はほんのわずかだった。河野たち1年生は、ぐっと我慢するだけだった。
 全敗
 そんなある日、遠征試合の日程が決まった。相手は愛知の名電工高、京都の東山高など強豪ぞろい。日本のトップクラスの高校生たちとの試合を想像し、河野は胸を熱くした。この遠征試合で勝つことができれば、日本一に一歩近づけるだろう!
 いよいよ試合当日。緊張と同時に自信もあった。相手が全国レベルというならば、河野だって青森県チャンピオンである。
「河野、お前の番だ」
 いつも怒鳴ってばかりの上級生が、肩を叩く。がんばろう。気持ちを引きしめて試合に臨んだ。
―しかし、結果は無惨だった。
 このときの河野の戦型は、ペンホルダー裏ソフトの前陣攻撃型。しかし、攻撃が簡単にブロックされてしまう。相手のパワーに対応できない。気を取り直して臨んだ次の試合でも、簡単に敗北。結局、誰にも勝てないまま、遠征試合は終わった。
 全敗。この言葉は、河野に重くのしかかった。満足に台が使えなかったとはいえ、自分の力はこの程度だったのだろうか。自分は所詮(しょせん)、高校では通用しない選手なのだろうか。
 がっくり落ち込む河野に、相川先生は言った。
「なあ、話があるんだ」
 表ソフトでいこう
「はっきり言うぞ。お前はこのままではだめになる。自分でもわかっただろう」
 相川先生の言葉はショックだったが、真実だった。自分はだめなのだ。涙がにじみそうになるのを必死でこらえる。
「そこでだな。お前、これを使ってみないか」
 そう言って相川先生が差し出したのは、表ソフトラバーだった。表ソフトラバーならば、河野の前陣速攻型の卓球がより生きるのではないかというのだ。
 当時、表ソフトラバーは非常にマイナーな存在。使いこなせるのかという不安はあった。しかし、河野は相川先生の提案に乗ることにした。不安などと言っている場合ではない。強くなれる可能性があるのなら、がんばってみよう!
 固い決意とともに、河野は表ソフトラバーを使った卓球に転向した。
 反抗
 表ソフトラバーに転向した河野は、それまで以上に練習に打ち込んだ。フットワーク練習、そしてサービスとレシーブの練習。相川先生のアドバイスを受けながら、必死で練習した。
 しかし、1年生が台について練習できる時間はわずか。ほとんどの時間は上級生の球拾いをしなければならない。河野はそれがとても不満だった。もっと練習がしたい。
 ある日、ついに河野は上級生に詰め寄った。
「球拾いばかりじゃ強くなれません。もっと台を使わせてください」
 しかし、返ってきたのは、頭ごなしの怒鳴り声だった。
「生意気言うな!球拾いも練習のうちだ」
 この言葉に、河野はカチンときた。台を使いたいというのを、どうして怒鳴られなければいけないのだろう。なんとかして練習する方法はないかと考えた。
 そして、出した結論は、早朝練習をすること。同級生と二人で示し合わせ、授業が始まるまでの朝の時間で練習をした。こうして河野は表ソフトラバーにもなじんでいき、着々と実力を培っていったのである。
 卓球で借りを返す!
 さて、早朝練習を続け、力をつけていった河野は、「そろそろ借りを返すときだ」と考えた。卓球台が曲がっていると殴った先輩、床が汚れていると殴った先輩、そういう上級生たちに復讐(ふくしゅう)するときが来たのだ。
 と言っても、殴り返そうというのではない。自分は卓球選手なのだから、殴られた借りは、卓球で返せばいい。
 こう考えた河野は、次々と上級生たちに試合を申し込んでいった。自分を殴った相手と試合をして、卓球で勝つ。負けん気が強い河野は、こうして次々と借りを返した。
 やがて河野は、上級生からも一目置かれる存在になっていった。
 恩
 上り調子の河野をさらにステップアップさせてくれたのは、OBたちだった。青森商高卓球部は卒業生とのきずなが深く、毎日のように4~5人のOBが練習場を訪れていた。
 河野もよく試合をしてもらい、その中からいろいろなことを学んだ。フォアハンドの基本から、戦術的なことまで、学ぶことはたくさんあった。河野の卓球はOBの指導によって、より一層発展したのだった。
 何人かのOBたちは、技術指導だけでなく、経済的援助もしてくれた。私財を投げ打ってまで、母校の卓球部の発展に尽してくれたOBさえもいた。
 成長
 OBの指導のおかげもあってか、青森商高のメンバーはめきめきと力をつけ、インターハイでは団体戦優勝を飾った。河野が高校2年生のときである。河野の役割はシングルス1番とダブルスの両方だった。
 準決勝の東山高戦、河野は馬淵と対戦した。以前の遠征試合で、こてんぱんにやられた相手である。しかし、河野に恐れはなかった。今の自分は、あのときとは違う。練習量に裏打ちされた自信があった。
 ストレートで馬淵を下した河野は、決勝の名電工高戦でも活躍。終わってみれば、単複ともに全勝、青森商高のインターハイ優勝に大きく貢献した。
 さらに河野は、この年の全日本選手権大会でジュニアの部2位という成績を収めた。こうした成果が認められ、河野は全国高校選抜強化合宿のメンバーに選ばれた。この合宿が、河野の卓球に大きな影響を与えることになるのである。
 バックハンド
 全国高校選抜強化合宿。参加している選手はそうそうたるメンバーだったが、指導陣はもっとすごかった。技術指導を担当するのは、なんと世界チャンピオンの荻村伊智朗。河野はドキドキしながら合宿に臨んだ。
「ランニングだ!」
の声とともに、合宿は始まった。10キロのランニングの後には、百メートルダッシュが30本。選手たちはへとへとになったが、休む間もなく台について練習。このとき、ショートでブロックの練習をしていた河野に、荻村は言った。
「お前は、もっとバックハンドを振っていけ」
 河野がバックハンド攻撃を覚えたのは、これがきっかけである。後に世界を取った河野のプレーは、フットワークを使ったフォアハンドの連続攻撃と、ペンホルダー選手には珍しい強烈なバックハンド攻撃が武器。バックハンドとの出合いは、河野のプレーを大きく広げた。
「おい木村、河野がバックハンドやるから、お前はドライブを打ち込んでやれ」
 荻村から木村と呼ばれたのは、全日本チャンピオンの木村興治である。全日本チャンピオンは河野の相手をして、1時間もドライブを打ち込み続けてくれた。
 そこまでされては、どうしたってバックハンドをものにしなければならない。合宿から帰った後も、河野はバックハンドの練習を取り入れた。自分のプレーがどんどん発展していくのがとても楽しかった。
 野平さんとの出会い
 全日本選手権大会ジュニアの部で2位になった直後のこの時期、河野にはもう一つの大きな出会いが待っていた。その後、河野が「野平さん、野平さん」と長きにわたって慕うことになる、野平孝雄との出会いである。
 当時の野平さんは専修大学の学生で、全日本でもトップクラスの名選手。同じ専大出身の相川先生の紹介で、河野のところを訪れた。初めて対面する河野に向かって、野平さんは真剣な表情で言った。
「専修大に来ないか。いっしょに卓球がしたいんだ」
 うれしい申し出ではあったが、正直言って、河野は迷った。実はこのころ、いろいろな大学から声がかかるようになっていたのである。青森商高のOBたちもこぞって声をかけた。
「河野、法政大に来ないか」
「いや、中央大でやろう」
 早稲田大、慶応大、明治大、数え上げればきりがなかった。どこに行けばいいのだろう。河野は戸惑っていた。
 結果を出そう!
 迷う河野の心を揺さぶったのは、野平さんの熱意だった。野平さんは東京から青森まで何度も何度も河野を訪れ、専修大に入ってくれるよう説得した。専修大の部長までもが、河野を説得に訪れた。
 それは、高校3年生のインターハイで河野が無惨に敗れた後も、途絶えることはなかった。
「河野、俺は絶対に4年間お前の面倒を見るよ。専大でいっしょに卓球をやろう。河野が卒業するまでは、俺が面倒を見るから」
 野平さんの熱意に打たれ、河野は専修大進学を希望するようになっていた。しかし、インターハイでも結果を出せなかった自分は、本当に野平さんの熱意にふさわしい選手なのだろうか。このままではいけない。大会で結果を出そう。野平さんの熱意に、結果で答えよう。河野はそれまで以上に激しく練習した。
 こうして迎えた全日本選手権大会。ジュニアの部で、河野は本当に結果を出した。練習に練習を重ねたバックハンド攻撃で、準決勝、決勝とも相手を圧倒し、見事に優勝。よかった、これで野平さんに顔向けができる。
 全国タイトルを手に、河野は胸を張って専修大学へ入学した。
 大学
「やっぱすごいな」
 河野が専修大に入り、最初に感じた印象だ。「すごい」にはいろいろなニュアンスがある。全国から選りすぐりの、すごい選手がたくさんいるということ。そして、すごい厳しさ。
 一人悪けりゃみんな悪い。それが、専修大卓球部を支配する考え方だった。誰かが遅刻すれば、全員が殴られる。誰かがトレーニングの手を抜けば、全員が殴られる。その厳しさは、高校時代以上だった。
 ライバル
 そんな中、河野は一人の男と親しくなった。山口訛(なま)りで話す豪胆そうな男。後に、河野より先に世界チャンピオンとなる、伊藤繁雄である。ともに田舎から上京してきたためか、非常に気が合った二人は、よくいっしょに行動した。
 半面、伊藤は河野にとって一番のライバルでもあった。伊藤が居残り練習をすれば、河野も負けじと練習し、伊藤がトレーニングを始めれば、河野も負けじとトレーニングをした。
「俺ちょっと走るから、荷物頼んでいいか」
 ある日の練習後、伊藤にそう言われ、河野に対抗心がわき上がった。こいつ、自分だけランニングして、俺に差をつけるつもりだな。そうはさせるか。河野は、自分も走ることにした。
 伊藤を追いかけて走り、コースを1周して戻ると、伊藤は2周目に行ったようだ。負けじと、河野も2周目を走る。あいつが疲れて体育館に戻っても、俺は走り続けてやるぞ。お互いにそう考えた負けず嫌いの二人は、門限ギリギリまで走り続けた。
 次の一歩
 大学に入って少し経ったある日、野平さんがどことなく改まった様子で声をかけてきた。
「おう、河野。お前にちょっと聞いておきたいことがあるんだけど」
 そうして切り出された話の突飛さに、河野はすっかり仰天してしまった。 こうして河野は青森商高に入学した。しかし、卓球部に入った河野には、これまで経験したことのない厳しい環境が待ち受けていた。

(2001年3月号掲載)

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