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「世界一への道」長谷川信彦 ―人の3倍練習し、基本の鬼といわれた男―5

 喜びと不安と
 全日本選手権大会に優勝した信彦だったが、時間がたつにつれ、喜びよりも、次第に不安が大きくなっていった。
「世界チャンピオンになるためには、世界一苦労しなくちゃいけないんだ。自分はそれに耐えられるんだろうか?世界チャンピオンになって、日本のエースとしての責任を果たせるんだろうか?」
 この当時、日本のレベルは世界から見ても高く、日本代表として戦うということは世界チャンピオンになることを意味していたのだ。しかも、その日本のチャンピオンならば、なおさら勝たなくてはいけない。
 全日本チャンピオンとなった翌日、名古屋に帰った信彦は後藤鉀二先生に優勝の報告に行った。
「いつもは怖い後藤先生も今日は喜んで、褒めてくれるだろう。1日くらい休みをもらえるかもしれない」
 信彦はそう思いながら後藤先生に報告した。
 ところが、予想に反して、返ってきたのは「よし、じゃあ、今から練習をやれ」という言葉だった。
 信彦は高校3年のときに、国民体育大会で優勝した後、次の目標を見つけられずに失敗してしまった、苦い経験を思い出していた。
「あのときは次の目標が見つけられなかったからだめだったんだ。今回は世界一になるという大きな目標がある。今俺がやるべきことは、その目標に向けて、ひたすら練習することだ」
 そう考えていた信彦にとって、後藤先生の言葉は、かえってうれしく思えた。
「やっぱり後藤先生は俺のことを、しっかり考えてくれているんだ。後藤先生のためにもがんばらなくちゃ」
 世界を目指して
 それから、世界一へ向けての練習が始まった。このときの目標は「打倒中国」だった。
 授業が終わると、午後3時30分から午後10時までがボールを使った練習だ。中国選手は攻めが早い。2球目や、3球目からオールフォアでドライブをかけていくのは難しい。だが、それでも主戦武器であるドライブを生かすことを意識して内容を考えた。そのため、この時期にはそれまでよりもフォアとバックの切り替えの練習に力を入れた。試合でバックやミドルを狙われることが多く、そこをうまく処理できれば得意のフォアハンドドライブにつなげられるからだ。もちろんフォアハンドの基礎練習やフットワーク練習もたくさんやった。
 長谷川はこう話す。
「卓球は体で覚えなくちゃいけないんだ。『こう打てば良い』と頭で理解しただけじゃだめなんだ。卓球選手のくせに練習の嫌いな人や、練習をサボる人は尊敬できないね」
 トレーニングもそれまで以上に激しくやった。朝起きると、まず持久力を鍛えるために1時間のランニングをやる。その後ダッシュ30メートルを5往復、うさぎ跳び50メートルを3往復、腹筋運動を100回といった瞬発力を鍛えるトレーニングをやった。
 教訓
 翌年の2月、信彦はヨーロッパへ遠征した。このときには、前年の世界選手権大会男子シングルス3位のカットマン・シェラー(当時・西ドイツ)と4回対戦して3勝1敗と勝ち越すなど、成績は良かった。世界でも戦えるという手応えを感じることができた。
 だが、このころ練習での疲れもあったのか、肩を痛めてしまった。この故障に信彦はずっと苦しめられた。腕立て伏せなどのトレーニングができないばかりか、ひどいときにはバックハンドがまったく振れないほどだった。
 同じ年の8月には、北京国際招待大会に参加した。このときは中国選手に惨敗してしまった。原因の1つは中国が強かったこと。だが、もう1つの敗因、信彦が失敗したのは体調管理だった。8月に行われたこともあってか、会場は非常に暑く、団体戦の準決勝が終わった後に炭酸飲料をたくさん飲んでしまったのだ。そのせいで体調を崩し、自分の力を出せずに負けてしまったのだ。
「体を壊して自分の実力を出せずに負けるなんて、選手としてこれほど情けないことはない」
 そう反省し、これ以降は水分の取り方にも気をつけるようになった。
 1967年、ストックホルム
 そして、翌年の1967年4月、スウェーデンのストックホルムで行われた世界選手権大会に信彦は日本代表として初めて参加した。
 だが、この年は最大のライバルと思われていた中国が文化大革命の影響で世界選手権大会への不参加を表明した。だが、この知らせは選手たちを喜ばせるよりも、むしろ動揺させた。みな「打倒中国」を合言葉にして苦しい練習を積んできたようなものである。そんな空気を察して荻村伊智朗はこう宣言した。
「よし、中国が不参加ならば、目標は全種目制覇だ」
 こうして日本選手たちは再び目標を見つけ、決意を新たに団結することができたのである。
 ストックホルムへ発(た)つとき、信彦は戦場へでも旅立つような気持ちだった。出発前に、母にはこう告げた。
「もしも、団体戦で優勝できなかったら、日本には一生帰りません。スウェーデンで皿洗いでもして暮らします」
 信彦は、優勝できなかったら日本に帰ることはできない、と本気で考えていたのだ。
 このときの団体戦のメンバーは、信彦の他に、河野満、鍵本肇の2人だった。そして男子チーム監督には木村興治(個人戦には選手として出場、ベスト4)、総監督には吉田南、選手団団長に愛知工業大学学長の後藤鉀二という顔ぶれだった。
 木村は初めての世界選手権大会に臨む信彦の不安を見抜いたのか、こう言った。
「死に物狂いでやれ。8年間卓球をやってきたことを全部ぶちまけろ。勝負にこだわらず、思い切りやれ」
 そのおかげか、信彦は肩の力が抜けた気がした。
「世界選手権大会には、初参加だ。自分から見たら、みんな先輩みたいなものだ。誰とやっても、向かっていく気持ちで、思い切ってやろう」
 団体戦で日本チームは順調に準決勝リーグへ勝ち進んだ。だが、ここで日本チームはソ連を相手に大苦戦に陥ってしまった。実はストックホルムに入る前、日本チームはソ連(当時)で練習試合をしていた。このときはソ連を相手に1-5で惨敗していた。この試合でも日本は最初の2点を落とし、嫌なムードが漂った。だが、そこから何とか信彦が2勝するなど踏ん張り、3-3の同点となった。そして、重要なカギを握る7試合目、日本は長谷川信彦、ソ連はゴモスコフとエース同士の対戦となった。バックハンドのうまいゴモスコフに対し、信彦は苦しみ、最終ゲーム13-17とピンチに追い込まれた。
「ここで負けたら、せっかくこちらへ傾きかけた流れが相手に行ってしまう。弱気になったらだめだ。相手の弱点のフォアを思い切って攻めていこう」
 追い込まれた信彦は、開き直って攻めまくった。苦しいボールでも何とかしてフォアへドライブしていった。そして16-19と追いすがり、さらにそこから何と5ポイント連取して勝利したのだ。
 勢いに乗った日本チームは次の鍵本も勝利し、苦しい試合ながらも何とか5-3でソ連を下したのだった。
 絶対に負けられない
 そして迎えた団体戦決勝、相手は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)。試合前の予想では、北朝鮮が有利かと見られていた。だが、この試合に勝たなければこれまでやってきたことがすべて無駄になってしまう。選手も応援もみんな必死だった。
 日本はトップの河野が、北朝鮮の金昌虎に負けてリードを許してしまう。2番手は信彦、相手は鄭良雄。
「この試合は絶対に負けられない。どうしても勝ちたい」
 極度の緊張のためか、信彦にはコートに霞(かすみ)がかかって見えた。試合が始まってからも体が思うように動かない。序盤は一方的に攻められ、1-6と離されてしまう。だが、中盤になるとようやく調子を取り戻し、そこから強烈なドライブが決まりだした。そしてついに11-11と追いつき、第1ゲームを21-17で押し切った。第2ゲームは鄭良雄の速攻に対してジュースで落とすが、最終ゲームは出足からリードし、21-16で勝利。貴重なポイントを挙げた。
 3番手の鍵本は、マイペースで朴信一を倒し、日本は2-1と逆にリードした。
 4番手、再び信彦の出番だ。相手はトップで河野に勝っている金昌虎。
「みんな調子がいいみたいだ。俺も今日は足もしっかり動くし、ドライブも絶好調だ」
 しかも金昌虎とは今までに3回対戦して1度も負けていない。信彦は1試合目で勝ったことから自信満々でコートに入った。
 今度はコートが霞んで見えることもなかった。この試合は、先程とは逆に序盤からサービス、3球目ドライブがよく決まって6-0とリード。後半に追い上げられたもののドライブの打ち合いで何とか競り勝ち、21-18で1ゲーム目を取った。だが第2ゲーム、信彦は油断したのか、前半からドライブをカウンタースマッシュされるようになり、逆に18-21で落としてしまう。最終ゲームも勢いに乗った金昌虎の速攻を最後まで止めることができず14-21と敗れ、団体戦での初黒星を喫してしまった。
 信彦は金昌虎に負けたことでショックを受け、ドッと疲れが出てしまった。そこで5番と6番の試合が行われている間に、スウェーデンのマッサーにマッサージをしてもらった。
 その間、日本は5番手の河野が勝ち、6番手の鍵本が敗れて3-3のタイになった。再び3-3の場面で、信彦の出番が回ってきた。相手は朴信一。
「大事な決勝戦でもうこれ以上負けるわけにはいかないんだ。そのためには何としても第1ゲームを取るんだ」
 だが、先ほどのマッサージがどうやら体に合わなかったようで、信彦は筋肉の調子を崩してしまった。
 さらに、再びものすごいプレッシャーが信彦をおそった。1試合目と同様に、出足からレシーブミスや、ドライブのミスで0-8と離されてしまったのだ。しかし、またもや信彦の逆転劇が始まる。ドライブが決まりだし、じりじりと追い上げ、ついに9-10から信彦が打ったドライブを朴信一がミスして10-10に追いついた。追いついても信彦は攻め続け、このゲームを21-16で何とか奪った。
 第2ゲーム。このゲームは序盤から信彦が攻めて10-6とリードした。だが、この日3試合目ともなるとさすがに疲れてきた。信彦は朴信一の踏ん張りの前に14-14と追いつかれた。
「この試合で最後だ。何とか力を振り絞ってドライブを打っていかなきゃ」
 そこから信彦は再びドライブの連打を相手のコートに叩(たた)き込んだ。1本取るのに15回以上のラリーが続く。18-16から続けざまに強打を打ち込み、21-16と勝利。貴重な1ポイントを挙げ、優勝に王手をかけた。
 8番手は、鍵本対金昌虎の試合となった。日本のベンチは必死で応援した。試合が終わった信彦も必死で声援を送った。そしてついに最後の1本を金昌虎がネットに引っかけ、3時間45分の熱戦が終わった。
 あともがんばれ
 日本の優勝が決まった瞬間、満員の観衆から歓声が上がり、選手たちの目からは涙が流れ出していた。もちろん信彦もみんなと一緒に喜びの涙を流した。
「全日本チャンピオンになったときから、世界選手権大会の団体戦で優勝するために練習してきたようなものだ。もうこれで、全日本チャンピオンとしての自分の責任を果たすことができたんだ。後藤先生や木村さんにも恩返しができた。もう個人戦は、どうでもいいや」
 実は信彦は、世界選手権大会が始まってから1度も個人戦の組み合わせを見なかった。団体戦に集中するためである。
 だが、個人戦が始まって2日目、家族から電報が届いた。そこには、ローマ字でこう書いてあった。
「OMEDETOU ATOMOGANBARE」
 おめでとう、あともがんばれ...
 個人戦はどうでもいいと考えていた信彦は、これを読んで驚いた。家族が自分のことをどれだけ思ってくれているのかが伝わってきた。
「俺を応援してくれる家族のためにも、個人戦もがんばろう。よーし、1球だって無駄にするもんか」
 信彦は心にそう決めて、シングルスの試合に臨んだのだった。
「10日間の大会中にあきらめたり、気を抜いたりしたボールは1球もない。転んでもいいから、どんなボールでも追いかけるようにした」
 世界の頂点へ
 家族からの電報で、気を引き締め直した信彦は、快調に勝ち進んだ。結局1ゲームも落とさずに決勝まで勝ち進んだのである。
 決勝戦の相手は何と同じ日本選手で、団体戦でも共に戦った河野満だった。だが、河野は信彦にとって一番嫌な相手だった。
河野とは今まで13回試合をして全勝。数字だけ見れば得意な相手だが、その分絶対に負けてはいけない相手というプレッシャーがのしかかる。
「もしこの試合で負けてしまったら、今までの13勝がすべて水の泡だ」
 そして、ついに運命の決勝戦が始まった。第1ゲームは信彦が快調に攻めて簡単に取った。第2ゲーム、序盤は第1ゲームと同じような展開だった。しかし後半、信彦のループドライブに河野のブロックやカウンタースマッシュが合いだした。最後は19-21で河野がこのゲームをものにする。第3ゲームになると2人のラリーは激しさを増した。信彦もドライブだけでなく強打を打ち込み、素晴らしいラリーの応酬(おうしゅう)となった。だが、ジュースにもつれ込む大接戦の末、最後はネットインが決まって20-22と河野がゲームを取り、世界チャンピオンにあと一歩と迫った。信彦は試合中、「河野には負けられない」という大きなプレッシャーに常にさらされていた。
 第4ゲームも同じように点差が離れないまま進んだが、9-9になったあたりから河野に焦りが見え始めた。
「これまで1度も勝ったことがない長谷川に初めて、しかも世界選手権大会の決勝で勝てるかもしれない」
 河野が焦っているのが信彦にもはっきりとわかった。このゲームの中盤から、河野に攻撃のミスが増え始めたのだ。勝ちを意識したために、力が入ってしまったのだろう。信彦はこの試合で初めて「いける」と思った。21-14で取り、試合は2-2のファイナルゲームへともつれ込んだ。
 そして5ゲーム目、泣いても笑ってもこれで最後。信彦には1球1球が、とても重く感じられた。勝ちを意識しまいとしても、どうしてもミスが怖くなる。思い切りボールを打っても、全然ボールにスピードが出ないように感じる。だが、やはりこのゲームも河野の攻めにミスが出て、信彦は18-12とリードした。
「まだ油断しちゃだめだ」
 信彦は何度も何度も自分に言い聞かせ続けた。最後まで動き続け、そして攻め続けた。
 最後の1本が決まったとき、信彦はうれしさと同時にホッとした。同士打ちだったこともあり、あまり大きく喜びを表すことはできなかった。
 だが、表彰式が始まり、表彰台の一番頂点に立ったとき、満足感が込み上げてきた。
「自分は世界一になったんだ」
 まるで地球で一番高いところに立っているような気分だった。
 ついに信彦は世界チャンピオンになったのだ。体は小さく、運動神経も悪い。だが、誰よりも卓球が大好きで、家族や恩師への感謝の気持ちを大切にした。そんな少年がトレーニングと基本の鬼となり、世界一へとたどり着いたのだ。人の3倍努力して...。
(2003年1月号掲載)
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