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世界一への道 河野満 
究極の前陣速攻選手 3

 世界チャンピオン、河野満。長い間「優勝候補」とささやかれながらも、世界はおろか、全日本でも優勝を逃し続けてきた河野。そんな苦難の時を乗り越え、30歳にしてついに世界の頂点に立った。
 ただ黙々と努力を重ね、己の限界に挑戦し続けた、河野満の足跡を追う。【前回の記事を読む】【第1回から読む

文=川合綾子 監修=辻歓則
※この記事は月刊卓球レポート2001年3月号を再編したものです

上下関係
「おい1年生、ネットがたるんでるぞ!」
 上級生の怒号が響き渡る。河野が入った青森商高の卓球部は徹底的な縦社会だった。上級生の言うことは絶対で、逆らうことは許されない。中学までとはまったく違う雰囲気に、河野は戸惑っていた。
 怒鳴られるだけならまだしも、殴られることさえある。卓球台が曲がっていると殴られ、床が汚いと殴られた。あげくの果てには、
「態度が悪い。明日からお前ら全員坊主だ」
などと言い渡される。1年生にとって、部活は地獄のようだった。
 上下関係だけでなく、練習自体も非常に厳しいものだった。走り込み、フットワークといったハードな練習が、5~6時間も行われた。
 小中学校時代はうさぎ跳びを徹底的にやっていたが、高校のトレーニングは走り込みがメインだった。ひたすら走って足腰を鍛えるという毎日が続く。走り込みが終わったら、先輩たちの後ろに立って球拾いをする。台を使うのは上級生が優先なのだ。
 5~6時間も練習時間があるのに、台についてボールを打てる時間はほんのわずかだった。河野たち1年生は、ぐっと我慢するだけだった。

全敗
 そんなある日、遠征試合の日程が決まった。相手は愛知の名電工高、京都の東山高など強豪ぞろい。日本のトップクラスの高校生たちとの試合を想像し、河野は胸を熱くした。この遠征試合で勝つことができれば、日本一に一歩近づけるだろう!
 いよいよ試合当日。緊張と同時に自信もあった。相手が全国レベルというならば、河野だって青森県チャンピオンである。
「河野、お前の番だ」
 いつも怒鳴ってばかりの上級生が、肩をたたく。がんばろう。気持ちを引きしめて試合に臨んだ。
 しかし、結果は無惨だった。
 このときの河野の戦型は、ペンホルダー裏ソフトの前陣攻撃型。しかし、攻撃が簡単にブロックされてしまう。相手のパワーに対応できない。気を取り直して臨んだ次の試合でも、簡単に敗北。結局、誰にも勝てないまま、遠征試合は終わった。
 全敗。この言葉は、河野に重くのしかかった。満足に台が使えなかったとはいえ、自分の力はこの程度だったのだろうか。自分はしょせん、高校では通用しない選手なのだろうか。
 がっくり落ち込む河野に、相川先生は言った。
「なあ、話があるんだ」

青森商高監督の相川光司先生

表ソフトでいこう
「はっきり言うぞ。お前はこのままではだめになる。自分でもわかっただろう」
 相川先生の言葉はショックだったが、真実だった。自分はだめなのだ。涙がにじみそうになるのを必死でこらえる。
「そこでだな。お前、これを使ってみないか」
 そう言って相川先生が差し出したのは、表ソフトラバーだった。表ソフトラバーならば、河野の前陣速攻型の卓球がより生きるのではないかというのだ。
 当時、表ソフトラバーは非常にマイナーな存在。使いこなせるのかという不安はあった。しかし、河野は相川先生の提案に乗ることにした。不安などと言っている場合ではない。強くなれる可能性があるのなら、がんばってみよう!
 固い決意とともに、河野は表ソフトラバーを使った卓球に転向した。次回へ続く)


Profile 河野満 こうのみつる
1946年9月13日生まれ。青森県十和田市出身。ペンホルダー表ソフト前陣速攻型。
1967年から1977年まで日本代表として世界卓球選手権大会に出場。
1975〜1977年全日本卓球選手権大会男子シングルス優勝。
1977年世界卓球選手権バーミンガム大会男子シングルス優勝。

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