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「卓球は血と魂だ」 第一章 七 個人引退後、都市対抗で全国制覇

第一章    わが卓球の創造 -選手、役員時代-

七 個人引退後、都市対抗で全国制覇


 昭和二十一年より運動具店を経営していた私は、昭和二十四年三月からバタフライラバー・ラケットを発売、東京に出張所をつくっていた。東京は父が責任をもち、私は山口県柳井を根拠地として隔月上京していたが、仕事と卓球の両立はだんだん困難になってきた。特に従業員が増えてくるとなおさらだ。

 父は私に、早く選手をやめろ、と叱るようになった。「お前が遊んでいたんじゃ、社員の指導はできんぞ」というわけだ。私は一度全日本をとってやめたい、と思っていたのだが、遂に二十四年の十二月、この全日本で引退だ、と決心して試合に出た。シングルス三位、ダブルス七位、混合ダブルス一位(パートナー田中良子)が最後のみやげランキングとなった。

 しかし、引退はしたものの国体とマ元師杯(都市対抗)だけはやめさせてもらえず、あと五年間は団体戦の主将をつとめていた。国体では山口県の一般男子はいつもベスト四か八ぐらいだったが、マ杯全国都市対抗ではいつも東京、大阪、名古屋を破って二位とか三位の位置にいた。そして遂に昭和二十八年八月、常勝京都を五-四で破り、待望の全国優勝を成し遂げたのだ。

 マッカーサー元師杯全国都市対抗大会は、池田政三氏の奔走で昭和二十二年から開催が始まった。日本人が戦後の食糧難でやせ細っていた頃に、時の権力者マ元師が与えたカップでの卓球、庭球、軟式庭球の三競技大会。三競技関係や選手たちは非常に勇気づけられたものであった。

 私達の山口県柳井町は強いチームをもってはいたが、はじめは「町は都市ではないから出場できない」という人もいて、私達を怒らせた。都市の大なるものが市であり、小なるものが町や村ではないか-と反論して試合に出た。昭和二十二年から出場、初回は中国予選で惜敗したが、次回から連続して中国五県を制した。広島や岡山は全国大会に出しても四位に入る強豪だったから、私達柳井は常に全国の優勝候補の一つにあげられていた。

 一般男子単二、女子単一、男子複一、女子複一、少年少女各一、ベテラン一、シニア一の計九種目の編成で、京都、東京、大阪、名古屋、神戸などの大都市に対し、人口二万人の町が勝ち進むことが、現在考えられるであろうか。

 それは可能なのである。私達はそれを成し遂げた。柳井という町がいかに努力したか。借りものの選手は一人もいない。全員ゼロから育てるのだ。選手一人一人の努力とチームワークのよさ、その蔭にどれほど汗を流し、協力し合ったことか。

 一例を話そう。柳井の卓球界は、年間この都市対抗を中心に活動を続けた。柳井高校(男子高と女子高があった)、柳井商高の協力、合同練習は定期的に町中が一体になってやった。一般男女、少年少女、シニア、ベテランが平均的に強くなければならない。だから強い者が弱い者の強化を担当する。弱点にあたる選手は何とかして五〇%の勝点を、どこかで挙げたいもの、と真剣に練習するのだ。

 東京と京都には当時アナがなかった。大阪や名古屋はウィークポイントがあり、その弱いところで稼ぐことができるので、負けたことがなかった。

 東京と京都から五点とることは非常にむずかしかった。しかし、柳井は東京に対しては五分以上の戦いを示していた。ただ京都に対しては四-五でいつも敗れていた。それもトップの一般男子で私が相手の主将を倒しても、四点しかとれなかった。

 それが昭和二十八年、三回目の京都との決勝戦で、不覚にもトップの私が勝てる試合に敗れてしまった。折角のチャンスをまた失った、と私は落胆した。しかし、その時私は考えた。勝つ予定の者が負ける、ということが起るんだから、負ける予定の者を勝たすこともできる筈だ、と。

 私が負けるとベンチは沈む。私は沈み勝ちな自分の心を励まし、少年、少女、ベテラン、女子などを懸命に督励した。ベンチの空気を盛り上げることに努めた。その結果どうだろう。勝った、と思った京都側に油断が走ったこともあったろうが、一つ一つわが軍が盛り返し、一-三から逆転、五-四で奇蹟的な逆転優勝を遂げたのであった。

 私はこの体験を事業経営の中にも生かしてきた。勝っている時に油断するな。どんな苦境にあっても、必ずチャンスは来る-ということを。そのために最も大切なことはリーダーの心であり、態度である、と思う。

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