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「卓球は血と魂だ」 第一章 八 田中良子、田舛吉二の育成

第一章    わが卓球の創造 -選手、役員時代-

八 田中良子、田舛吉二の育成


 戦後、日本の卓球が初めて海外遠征を目指したのは、昭和二十五年の春だった。それはアメリカ遠征だった。日本選手団の編成は大きなニュースになった。

 団長城戸尚夫、男子藤井則和(兵庫)、斎地繁敏(宮城)、女子渡辺睦子(静岡)、松岡貴代子(京都)の五人だった。この四人の出身県で盛大な歓送模範試合が開催されることになった。

 ところが主役の藤井選手の関西学院の卒業試験で替玉事件が起り、急遽第三位の私が藤井選手の代りに模範試合に呼び出され、静岡、熱海、仙台でプレーをした。

 残念にもこの米国遠征は、出発間際に中止された。その理由はよく知られていないが、「まだ経済的に困窮な状態にある日本人が、外貨を使って海外に遠征するのは好ましくない」という、実はGHQ(進駐軍司令部)からの命令だった。

 日本代表が初の世界大会に出場したのは、昭和二十七年二月のボンベイ大会だった。城戸団長、大門監督、男子藤井則和、佐藤博治、林忠明、女子楢原静、西村登美江選手たちだった。当時、楢原静選手のコーチをしていた私は、日本選手団を羽田空港まで見送ったが、見送人は十名前後の少数、オンボロの空港建物は米国軍人ばかりだった。新聞記者は一人もいなかった。

 ところが、日本チームは男子単複と、女子団体、女子複に優勝、世界を驚かせた。日本チームが羽田に帰着した時には、百名を越す盛大な歓迎陣だった。

 そのころの世界選手権は毎年開催されていた。翌二十八年はブカレスト大会だったが、日本は旅費の調達見込みが立たず、遠征を中止した。そして翌年のロンドン大会には選手一人につき八十万の遠征費を自己調達して出発した。

 団長後藤鉀二、監督長谷川喜代太郎、男子荻村伊智朗、富田芳雄、田舛吉二、川井一男、女子江口富士枝、渡辺妃生子、田中良子、後藤英子の十名の選手団が編成された。この中男子三番、女子二番までは正選手としてあとで一人三十万円が返還されたのであるが、当時は、大学卒初任給が一万円にならぬ時代、一人八十万円というお金の価値は大変なものだった。

 私達が育てた田舛吉二、田中良子の二人分の百六十万円を集めるため、柳井市では後援会が結成され、国米栄作会長はじめ全市をあげての応援だった。

 さて、この両選手はどのように育ってきたか、にふれたい。戦後、柳井高校の女子卓球部がまず復活した。戦前、昭和の初期に、柳井高等女学校時代に活動した卓球部だったが、その後は私のコーチで柳井女子商業にお株を奪われていたところ、中村清二という先生が赴任されて以来、熱心に練習をはじめていた。私はこれを知って柳井の練習の中心を柳井高女(後の柳井高校)におきかえ当時中学一年生だった田中良子、田舛美子らを訓練することにした。

 一方、私の家は大家族制で叔父田舛吉郎(昭和二十一年度全日本ベテラン第二位)一家も同居していたが、その次男田舛吉二(当時小学五年生)を私のあとつぎと考えて、カット主戦オールラウンドに育てつつあった。

 一般男子と少年少女たちの訓練が、柳井高女で合同練習の形ではじまった。田中良子選手は身体的素質が優秀で、メキメキ頭角をあらわしてきた。やはり私流にカット主戦オールラウンド選手をめざしたのである。

 彼女のカットはよく切れ、変化プレーも上達してきたし、強烈なフォアハンドドライブの威力も加わってきた。田中良子の上達の根源はその根性、負けじ魂であった。厳格な中村先生の下での猛訓練で、毎日ショートスカートのすそからポタポタ汗が流れるまでやっていた。

 田舛吉二も天才的なところがあった。彼の父、田舛吉郎(当時日本に珍しいシェークハンド)の影響も大きかった。吉二選手が中学二年生の時、山口県の男子一般は私と決勝戦となり、彼は二位となって国体の県代表に選ばれた。しかし中学生は国体出場を許されず、彼は涙をのんだ。もし、その全国大会に出場できていたら、彼はもっと早く成長したにちがいない。若い時にチャンスの芽をもぎとられることは重大なことなのである。

 ともかく、田中良子は、昭和二十四年の全日本選手権大会で(高校二年生で)女子シングルスに優勝、混合複は私と組んで優勝した。田舛吉二は昭和二十七年の全日本選手権大会で、準決勝に進出し(柳井商業高校二年生)、チャンピオンの富田芳雄選手(専修大学)と三-二の大激戦を演じ、惜敗したが、一挙に全日本のトップグループに選ばれることになった。

 田中良子選手は一枚ラバーの選手。田舛は高校時代に一枚ラバーからスポンジ(八ミリ)に転向していた。田舛は富田選手の猛攻を受けて一セットを落し、次のセットは苦しまぎれにショート戦法をとった。これが意外に成功して一-一となった。第三セットはまたカットに追い込まれて敗れたあと、ベンチの私は決断してショートで戦わせ二-二となった。最後のセットは大接戦で敗れたのであるが、この試合で田舛吉二のプレーは変り、強力なバックハンドを武器にショート主戦となった。

 一つの試合で苦しまぎれにとった作戦の変更で、ガラリと新しい方向転換となった好例といえる。こういう状態で昭和二十九年のロンドンの世界大会に入っていくのであるが、田中良子は女子シングルスで大活躍し、ロゼアヌ(ルーマニア)に敗れたが世界第二位となった。

 田舛吉二は団体戦で大活躍、決勝戦の対チェコ戦で二勝、しかも四-四のラストに出場し、スティペックをストレートで降し、日本男子初の世界団体優勝の立役者となった。その時彼は柳井商業高校を卒業したばかり、十九才、田中良子選手は二十一才だった。この二人は翌年の世界選手権ユトレヒト大会にも出場、男女日本優勝に貢献した。

 田中良子選手育成の第一の功労者は中村清二先生だった。中村先生は元選手ではない。だから自身の腕で選手をきたえることはできないが、自分も練習にはげみ、選手をきたえる方法を考え出された。即ち、相手は中村先生のフォアサイドだけ、自分はオールサイズ(全コート)で試合する方式だ。

 次は自分のバックサイドだけ、というやり方で猛烈に叱りながらゲームをやる。相手が反対のコートへ打球したら先生はその球を拾いに行かない。選手は大声で「スミマセン」とあやまって、球を拾いに走るのである。精神指導、礼儀作法もやかましい先生だったが、練習のあとは一転して家族同様に選手を扱われた。

 技術面は田中、田舛吉二とも私が指導した。二人ともカットを基本とし、バックハンドを得意としたのも私のプレーだ。しかし、私は自分より大型の選手に、という念願を常に抱いていた。田中は私にない強力なフォアハンドを持ち、田舛吉二の豪快なバックハンドは、その後今日までその例を見ない。

 選手育成という点でいえば、私達が指導育成したのは二人だけではない。多くの男女選手が柳井商高、柳井高校から出現していった。私が最も心がけ、努力し、成功したことは近隣の中学校の先生を指導者として育成することだった。そのため六年間にわたって柳井で近県中学校大会を開催し、指導者の育成と刺激をはかった。その一人が現在柳井商高卓球部の名監督松浦徹真先生である。

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