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「作戦あれこれ」第39回 鋭いバック攻めにあって敗れた対斎藤・鍵本組戦

 ダブルスの試合の思い出も数々あるが、中でも大学1年生のときの'65年全日本選手権の決勝戦で、東日本学生チャンピオンの斎藤・鍵本組(早大)と対戦した試合が特に印象深い。
 このとき私のパートナーは、2年先輩のドライブマンの馬場園憲(ばばぞのけん)選手('63年全日本ジュニア1位、'66年全日本学生3位)だった。馬場園選手は大変器用な選手でダブルスがうまかった。全日本の1週間前に行なわれた全日本学生選手権では、馬場園選手の好リードに助けられ、決勝で野平・有本組(専大)を破って優勝していた。だからこの全日本決勝戦は、東日本の学生チャンピオン対全日本学生チャンピオンの学生同士の対決だった。
 決勝戦は、ふつうは準決勝の1~2時間後にやることが多いがこのときはテレビ放送の関係で翌日の4時に行なわれた。
 当日の我々は、昼にシングルスの試合があったので試合会場だった台東体育館の地下にある、大勢の選手が練習している練習場で体力のことを考えて30分程度の練習をしてから試合に臨んだ。このときの作戦は、恥かしい話だが「ストップレシーブがうまい早大ペアに対して前にしっかり動いて払っていく。ドライブで積極的に攻める。レシーブはできるだけスピードのあるレシーブで返す」という程度の考えだけで、作戦らしい作戦は全然考えていなかった。
 試合は、斎藤選手のサービス、馬場園選手のレシーブで始まった。つまり、3球目は鍵本選手、それを受けるのが私だった。
 このとき、斎藤選手の鋭い変化サービスを馬場園選手がレシーブでコースをついてゆさぶった。しかしこの馬場園選手のうまいレシーブを鍵本選手は、素早くフォアで動いてバック側に来たレシーブもフォア側に来たレシーブも頂点をとらえて私のバック側に3球目攻撃してきた。このような速攻でくるとは考えていなかった私は、スタートが遅れたために攻め返すことができず、つまりながらやっと返した。そのためにコースもつけず球威もなく、フォア強打のうまかった斎藤選手が待ってましたとばかりにバックに攻撃してきた。おそらく馬場園選手にしても、こんなに速い攻撃をされるとは思っていなかったのだろう。我々は、ときどき回り込んで逆襲したものの後手、後手のラリーをひかされた。
 また、馬場園選手のサービス、鍵本選手のレシーブのときバック側に短く落とされた鍵本選手のうまいストップレシーブに対して十分な作戦を立てておかなかった私は、足の運びがスムーズにいかずやっとつないだボールを斎藤選手にバック側を中心として攻められ、馬場園選手の足を引っ張ってしまった。1ゲーム目のスタートは、いま述べたように作戦の差が出て完全な早大ペースで進行した。中~終盤に入っても、早大ペアにレシーブ、3球目から思い切り攻められ、こちらがドライブで攻めたときもショートでブロックされて15本で完敗した。我々が得点したのは、早大ペアの短く止めるストップレシーブがコートから1バウンドで出たりバウンドが高くなったり、ショートサービスが1バウンドで出たりする送球ミスのときにドライブ攻撃で得点できるくらいで、後はポイントをあげたとしても相手の攻撃ミスによる得点が多かった。
 このままではいけないと、2ゲーム目に入る前に我々は「相手は、2ゲーム目もバック前にレシーブしてくるだろう。そのボールは前後にしっかり動いてコーナーへ攻めよう。ラリーに入るとバックに攻めてくるから、それにヤマをかけて攻め返そう」などと話し合った。
 我々は、相手に対する読みが的中したことと、徐々に調子が出はじめたことから冷静さを取り戻し、早大ペアがバック前にストップレシーブするのをあらかじめ予想していて前に動いて引きつけて短いスイングでいいコースに攻めた。
 そのおかげで5球目をドライブで攻めることができた。そしてロング戦に持ち込んで、早大ペアをショートや前陣のフォアショートのブロックに追い込むラリーが多くなった。だがしつこくコースをついて返してくる早大組のショートに対して前半は、取ったり取られたりの接戦となった。
 そして中盤には、徐々にレシーブのときにも落ち着きを取り戻し、レシーブをいいコースへ攻めては4球目ドライブ攻撃に結びつけられるようになり、球威の差を見せてやや有利に試合を進めた。しかし我々は、ラリーになればドライブやバックハンドで攻撃したり守ったりの粘り強い攻撃を見せたのだが、結局最後まで終始作戦が一貫していた早大ペアが2ゲーム目の終盤の競り合いになってもバックに返す我々のレシーブを思い切りフォアで回り込みフォアハンドドライブで攻撃する勝負強さと、気迫からヤマ場では我々以上の粘りを見せた。こうして2ゲーム目ジュースまでいきながらも斎藤・鍵本組の頭脳的なプレイの前に敗れ、我々は2位に甘んじた。

 試合前の練習内容が悪かった

 私は、この試合から反省することがたくさんあった。
 特に強く反省したのは、時間の使い方であった。我々のダブルスは体を十分に動かしたり試合をやりながら調子を上げていくタイプなのに、試合前の練習でコートのフォアクロスでサービス、レシーブとフォアロングの練習しかやらなかった。大勢の選手が練習しているので片面のコートしか使用できなかったせいだが、同じ片面のコートを使うにしてもストレートを貸してもらいストップレシーブに備える練習や、バッククロスを借りてフォアハンド強打で左回りにグルグル回るショート打ちのフットワークや、前後のフットワークなどをしっかりやるべきだった。または、シングルスの試合が終わってから決勝戦まで2時間もあったのだから、なんとかして試合ができる練習場を見つけてゲーム練習をやり試合での動きや勘を取り戻しておくべきであった。

 作戦が単調だった

 2つ目は、作戦を立てて臨まなかったのがいけなかったと反省した。とくにテクニシャンと対戦するときは、綿密に作戦を立てることが必要だ。相手の長所、短所、癖と自分の特徴を考え合わせて、相手はどのように攻めてくるか、それに対してどう対処したら勝てるのかの作戦をしっかりと立ててから試合に臨むべきだった。
 3つ目には、試合中作戦の転換がなかった。早大組のレシーブはバックとバック前に返すレシーブが80%近くを占めていたのに、フォアに払ってくるレシーブを警戒しすぎて足が止まってしまった。フォアに払ってくるレシーブは4本に1本か5本に1本なのだから、フォアに払ってくるボールはノータッチをしてもいいからバック側に返してくるレシーブにヤマを張り、前後にしっかり動いて積極的に攻めていくべきだった。
 また、試合の中では結局ドライブを過信しすぎて、クロスのドライブばかりになったのできれいにブロックされて逆に攻め込まれてしまったのも大きな敗因だった。やはり、ちょっとでも余裕があるときはボールをよくからだに引きつけて、コースを考えてストレートへ思い切って攻めたりスマッシュを混ぜていくべきだった。



筆者紹介 長谷川信彦
hase.jpg1947年3月5日-2005年11月7日
1965年に史上最年少の18歳9カ月で全日本選手権大会男子シングルス優勝。1967年世界選手権ストックホルム大会では初出場で3冠(男子団体・男子 シングルス・混合ダブルス)に輝いた。男子団体に3回連続優勝。伊藤繁雄、河野満とともに1960〜70年代の日本の黄金時代を支えた。
運動能力が決して優れていたわけではなかった長谷川は、そのコンプレックスをバネに想像を絶する猛練習を行って世界一になった「努力の天才」である。
人差し指がバック面の中央付近にくる「1本差し」と呼ばれる独特のグリップから放つ"ジェットドライブ"や、ロビングからのカウンターバックハンドスマッシュなど、絵に描いたようなスーパープレーで観衆を魅了した。
本稿は卓球レポート1978年10月号に掲載されたものです。

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