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「作戦あれこれ」第41回 対左腕速攻の李景光戦

 '66年~'73年にかけて活躍した世界の代表的プレイヤー李景光選手(中国)のプレイを記憶している人もまだ多くいることだろう。
 日本男子チームは、彼に何度も痛めつけられた。テレビで見て知っている人も多いと思うが、'71年に名古屋で行なわれた世界選手権大会の決勝で、彼は河野、長谷川、伊藤の順に連破し中国4度目の団体優勝の立役者となった。次回のサラエボ大会でも、深夜におよぶ4対4の激戦のラストで、当時の日本チャンピオンであった高島選手を倒し日本の優勝を2度続けてはばんだ。日本はその他の大会でも何度も彼に苦汁を飲まされ、日本にとっても私にとってもにっくき選手だった。中国にとっては実に頼もしい選手だったと思う。
 この彼と、私は10回以上にわたって対戦した。その彼をはじめて見たのは、彼が17歳のときにジュニア代表として来日した日中対抗のときだった。
 このとき、私はもう一人のジュニアの呉小珠選手と2度ともあたり、彼との対戦はなかった。
 だが背が高く腕も長く、体形からしてやりにくそうな感じを受けた。実際、プッシュショートとショートからの強打、サービスからの3球目攻撃が抜群にうまかった。しかも長い変化サービスや低いツッツキに対しては、強打だけでなくドライブもでき、どのような変化サービスやドライブ性ロングサービスに対してもうまいレシーブをみせていた。ストップレシーブが特にうまく、強打に対してのブロックショートもすばらしかった。ジュニア当時からこのようにすばらしい前陣攻守型ですでに日本のトッププレイヤーと対戦しても互角のように思われた。実際にどんな大観衆の前でも少しもものおじせずに、勝つのが当然であるかのように7戦全勝で帰国した。

 ■無策で試合に臨む

 李景光選手と私が初めて対戦したのは、その年の10月に私がジュニア日本代表として中国遠征をしたときだった。ジュニア男子は、河原智選手(横浜商→早大)と私の2人だった。
 彼と対戦したのは、'61年に北京で世界選手権大会が行なわれた工人体育館で日中対抗第二戦が行なわれたときだった。
 一日前に行なわれた第一戦では、高校チャンピオンの河原選手が対戦したがどこへ攻めても打ち返され、全く歯が立たずストレート負け。だんぜん彼のプレイは中国ジュニアの中でも光っていた。
 この翌日に私が対戦した。
 私は試合前「絶対に負けるものか」と思いながら彼と握手をした。でも正直いってそれは気持ちだけではっきりとした自信はなかった。恥かしい話だが、彼のピッチの早いフォアハンド攻撃と壁のようなブロックショート、そして威力のあるプッシュショートに対して、どのように攻めれば得点できるか全然といってよいほどわからなかった。私の頼みのつなは一万人を越す大観衆を前にしたときの緊張から彼のサービス、レシーブがコートから出たり、スマッシュミスをしてくれることだけだった。そうすれば得意のドライブで先手を取れるし、ロビングも効くということだからである。そのときの攻めるコースとしては、彼の弱点であると思えたフォアをつこうと考えた。

 ■速攻の前に惨敗を喫す

 相手の精神状態というのは、コートに入ったときの態度と練習の態度でだいたいわかる。彼は練習のときの力を試合でもそのまま出すタイプで、第一戦に戦った相手とはまったく違っていた。
 試合が開始された。
 彼はサービスを持つと、バック側から右足を前に出して広いスタンスをとって得意のフォアハンドサービスで両サイドどちらにも出すぞ、というふうに構え小さいスイングで下に切ったり、斜め下に切ったり、切った格好をして切らなかったりし、ときおりドライブ性ロングサービスも出してきた。それも、私の動きをよく見て私の読みの逆へ逆へと出してきた。2度にわたって同じコースをつくときは、必ずといってよいほど1つ前と違う変化サービスを出してきた。たとえば横に切った次は下に切るというように。しかも、ショートサービスを出すときは必ずコートで2バウンド以上するサービスだったし、相手をよく考えたサービスの出し方だった。
 私は、このサービスに対して当然少しでも有利なラリー展開に持っていこうと、強打されにくいコースに払ったり、ツッツいてレシーブしたが、コースと変化のわかりにくいサービスのために、相手のコートに入れるのがやっとのレシーブでしか返せなかった。
 そのために、バック前に出されたサービスを彼のバック側にツッツキレシーブしたときはフォア側へ強烈な流しスマッシュを浴び、低いツッツキで返しても私のバック側に回転のかかったドライブをかけられて次の5球目でバックショートをねらい打ちされてしまった。
 バック前の変化サービスを両サイドに払った場合は、プッシュ性ショートとフォアハンドでフォア側へ回された。フォア前のレシーブを両サイドへ低くツッツいたり、払ってレシーブしたときはミドルとバック側へプッシュ性ショートかドライブによる3球目攻撃をされた。少しでも浮いたレシーブをしたときは、思い切ったスマッシュで打ち抜かれた。というように多彩で理詰めな3球目攻撃、すばらしい速攻だった。
 この速攻に対して、ショートやバックハンドで返球すると、彼は私の未熟なショートやバックハンドをつぶそうとさらにバック側に攻撃を加えてきた。またときどきフォアへも強打をしてくるので、私はさらに余裕をなくして回り込めず、ショートやバックハンドでの防戦一方となってしまった。
 このとき私は、少しでも有利なラリー展開に持ち込もうとしたが、日本の速攻選手よりもボール3個~4個早い打球点をとらえる攻めの早い攻撃に対してはしのぐのが精一杯でどうしようもなかった。ときどきサービスからドライブで3球目攻撃をしたり、李の弱点であるフォアを連続攻撃したりして得点したものの、攻めの速いしかも正確な攻撃にしのいだボールを打ち崩され1、2ゲームとも13~14本という惨敗を喫した。
 そして、私はこのとき初めて「私の攻めの遅い卓球では通用しない。国際試合で活躍するにはパワードライブ+中国のフォアハンドと対等に打ち合えるバックハンドをマスターしなければならない。ショートもうまくできなければいけない」ということを学んだ。それと「作戦の立て方が未熟だった」ことを痛切に感じた。

 ■対李戦は、"敵を知らず、己を知らなければ戦うたびに負ける"であった

 私は、今この試合を振り返り技術の差以上に作戦が本当に未熟だったと感じている。
 孫子の兵法書に「敵を知り、己を知れば百戦危うからず。敵を知らず、己を知れば、ひとたび勝ち、ひとたび負ける。敵を知らず、己を知らなければ、戦うたびに負ける」ということばがある。李景光に対する私の戦い方はその中の「敵を知らず、己を知らなければ、戦うたびに負ける」であった。
 彼は、前陣で強打、ドライブ、ショート、長短のツッツキ、同じモーションからいろいろな変化サービスを出し、自由自在の攻撃ができるタイプであった。中でもネットプレイが抜群にうまかった。それだけに、私のようなドライブは得意だがネットプレイを不得意とする選手に対してはサービス、レシーブを短く止めてドライブを封じてくることは当然の策で、それぐらいは読んでいなければならなかった。
 けれども私は、呉選手に2度とも勝っているせいもあって一生懸命にやろうとだけしか考えておらず、何回か彼のプレイを見たにもかかわらず彼のプレイの分析をしていなかった。そして、私の技術でどう戦うべきか考えていなかった。これが一番の敗因だった。

 ■バック側からドライブをかけさせ、それをフォアに攻めてからバックを攻める作戦をとるべきだった

 私は、李景光選手の卓球の特徴と自分の卓球の特徴を考えた場合、次のような作戦をとるべきであったと考えた。
 彼の卓球は、バック側が非常に強い。プッシュ性ショートあり、止めるショートあり、短いストップレシーブあり、回り込んでの強打もある。しかもいずれも正確である。
 しかしフォア側は、ドライブか強打か、フォアのブロックショートがほとんど。しかもその中のドライブはそれほど威力がなく、スマッシュで狙える。強打やブロックショートもバック側と比べるとミスが多い。
 私の卓球は、フットワークを生かしたフォアハンドドライブとつなぎのバックハンド、それとロビングによるしのぎが中心だ。だがこの中のバックハンドとロビングは通用しなかった。ところがフォアハンドドライブで戦ったときは対等にやれた。だが、この時点での私はドライブをドライブで引き返すことができなかった。
 このことが作戦を立てられなかった大きなガンとなっていた。それというのは、彼のボールのなかで一番攻めやすかったのはコートから1バウンドで出てくるサービスやツッツキで、2番目はツッツキをドライブで攻めてくるボール。そしてその次がショートだったからだ。強打は速いしストップボールはネットプレイが下手なこのときの私にはとても狙えなかった。
 ところが一番攻めやすいコートから1バウンドで出てくるサービスやツッツキは、相手の手元が狂わないかぎりこない。しかし、次に攻めやすいツッツキをドライブさせるボールは私のやり方次第でできる。
 だから、彼に対してはショートサービスやストップレシーブに対しては、バックに低く切ってツッツキで返し、ドライブで攻めてくるのを前陣で彼の弱点であるフォアサイドぎりぎりに攻めて激しくゆさぶり、フォア側に動いてつないでくるのを威力のあるドライブで思いきって攻めることだ。もし、ドライブで攻められないときはバックハンドまたはショートでバックサイドを再び激しく攻め、ショートでつないでくるのを回り込んでドライブで攻める。
 そして、ときどきはフォア側からつないでくるボールをもう1本、さらにフォアサイドに動かすように返し次を回り込んで攻める。ときどきレシーブからいきなりフォア側を攻める。バック側にも意表をつく思い切った払うレシーブをする。そしてつないでくるボールを攻める。相手に余裕を持ったドライブ攻撃をさせない。このような攻撃をして、前、中陣の打ち合いで互角に持っていき、あとはロビングに追い込まれたときに執拗に粘り守備面で勝つ。というような戦い方に持っていけば、互角か、あるいは彼に焦りを生じさせ勝つチャンスがあったろうと考え反省した。
 彼と2度目に対戦したのは、翌々年('66年)の5月で約1年7ヵ月ぶりの対戦となった。この間、私はバックハンドを強化しかなりバックハンドが振れるようになっていた。そしてドライブをドライブでかけ返せるようになっていたので作戦どおりに彼のドライブを勝負どころで攻め、またロビングに追い込まれたときも執拗に粘ってスマッシュミスを誘い2対1で雪辱を果たした。日本は中国に敗れたが彼には一矢報いることができた。



筆者紹介 長谷川信彦
hase.jpg1947年3月5日-2005年11月7日
1965年に史上最年少の18歳9カ月で全日本選手権大会男子シングルス優勝。1967年世界選手権ストックホルム大会では初出場で3冠(男子団体・男子 シングルス・混合ダブルス)に輝いた。男子団体に3回連続優勝。伊藤繁雄、河野満とともに1960~70年代の日本の黄金時代を支えた。
運動能力が決して優れていたわけではなかった長谷川は、そのコンプレックスをバネに想像を絶する猛練習を行って世界一になった「努力の天才」である。
人差し指がバック面の中央付近にくる「1本差し」と呼ばれる独特のグリップから放つ"ジェットドライブ"や、ロビングからのカウンターバックハンドスマッシュなど、絵に描いたようなスーパープレーで観衆を魅了した。
本稿は卓球レポート1978年12月号に掲載されたものです。
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