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「作戦あれこれ」第42回 集中力の大切さ

 油断から国体県予選で落ちる

 私は、高校3年生のとき新潟で行なわれた国民総合体育大会(以下・国体)に、愛知県の高校の部代表として出場して運よく優勝したことがある。その国体の愛知県予選から国体で優勝するまでの間に、いろいろな経験をした。それは、試合のときに大切なことばかりでその後の選手生活を続ける上の大きな原動力となった。
 まず最初は失敗談だ。それは国体の愛知県代表を決める県予選会で、自信過剰から油断をして代表決定戦で負けたことである。
 ふつう国体は、毎年10月中旬頃に行なわれるのだが、この年(昭和39年)の新潟国体は、東京でオリンピックが行なわれるために4ヵ月も早い6月に開催される予定になっていた。そのために、愛知県予選会は4月に入ってすぐに行なわれた。国体の代表選手数は4名であった。
 私は、この大会何としても代表の4人を自分の高校で固めたいと思っていた。その理由は、私の高校(名電工→現在は名電)が毎年のように単独チームで出場し、しかも昭和29年からは10年連続全国大会優勝を成し遂げている伝統のある高校だったからだ。それゆえに、私はその伝統を何が何でも守りたかった。
 前年度の38年は山口国体で優勝し、37年は馬場園選手が全日本ジュニアで優勝するなど、みんな伝統を守るのに必死だった。そのことをよく知っているだけに、私達が今年もし全国大会で一つも優勝できなかったときは学校にいられないと思い、毎日必死の思いで練習をつんでいた。
 それにもかかわらず、最初の全国大会のしかも予選会で失敗を演じてしまった。
 私は、国体県予選会のベスト8が決まるまでは、順調に勝ち進んだ。そして、あと1回勝てば代表が決定するというときに、卓球部全員を集めてベスト8の中に入った他の3名の選手をしっかり応援するように指示した。別にこのこと自体は間違っていなかったと思う。まずかったのは、みんなに「しっかり応援を頼むぞ」と話をしたときに、もう自分はすでに勝ったような気持ちになっていたことだ。私はこの時「相手の選手は、苦手の左腕とは言うもののスピードもないしフットワークもあまりよくない。ドライブで簡単に打ち崩せるだろうしもし打たれても拾えば勝てるだろう」と楽観していた。しかもまずかったのは、試合が始まってからも全員で代表になろうと他の3人の試合を気にしながら自分の試合を進めたことだ。
 そのためにまったくボールに集中できず、サービスを出すときもドライブをかけるときもインパクトの瞬間にうまく力が入らなかった。しかも、集中力がないために反射的にすばやく動けず足の動きも手の動きも重くだるいようで勘が全く冴えなかった。そのため先に攻めなければいけないとわかっていても早い攻めなどできず、威力のあるボールで攻めなければならないと思いながら、ボールに伸びが出なかった。しかも焦りからコースが甘くなったために、攻めたつもりでもショートで逆にゆさぶられて強打を浴び1ゲーム目を先行されてしまった。
 2ゲーム目は必死に攻めてタイに持ち込んだものの相手を侮って1ゲーム目を失ったことが悔やまれ始めた。そう思うとどうしても負けられない心境となり、3ゲーム目は1本1本勝負にこだわるプレイとなってしまった。そのために、ものすごく力みだしドライブのコースが単調となった上に威力も思うように出ず、1ゲーム目と同様にショートで激しくゆさぶられたのちにスマッシュを浴び、思いもかけぬ敗戦を味わった。ああこれで単独チームで出場するどころか最悪の結果に終わってしまった!と、私はショックで1週間近く何もする気がしなかった。

 1本1本を大切にしたおかげでブロック予選通過

 ところが、愛知県の国体代表は私を破った選手が健康上の理由で代表を辞退したことから、私が変って選ばれ結局は名電工の単独チームでいけることになった。
 だが、本大会に出場するには東海ブロックの4県(愛知、三重、岐阜、静岡)で1位にならなければいけなかった。
 ブロック予選は、静岡県の島田高校の体育館で行なわれたが、この予選会も県予選同様私に勝負のきびしさを教えてくれた。私は、この予選会で1本1本を大切にプレイすることがいかに大事かを学んだ。
 この年の岐阜には、インターハイで3位になった試合巧者の左腕速攻型、加藤選手(中津高→大正大)。静岡には同じくインターハイベスト8に入った速攻の稲葉選手と、力のある田村選手(田方農→中京大)がいて、岐阜も静岡も強かった。
 その岐阜と私たち愛知は2回目に対戦した。そして前半で加藤選手に単複2点取られたため、4番の2年生の選手も固くなって敗れ結局3対1で負けてしまった。私たちのベンチは一時ガックリときた。その時、私は「まだ優勝できないと決まったわけではない。3者同率となったときは、勝率計算となる。勝率が同じであれば1人1人の得点ゲームをたした全部のゲーム数の得失点率となる。それも同じだと試合全体のポイント計算になる。しかも、今回の1位を決める方法は途中で勝敗がついてもラストまでやり、それも含まれることになっている。とにかく、1ゲームでも1ポイントでも無駄にしないでベストを尽くそう」と話しをし、みんなの気持ちを引き締めた。そしてラストはストレートで勝って3対2と1点差にこぎつけた。しかし、この時点では2勝0敗の岐阜の優勝が濃厚だった。
 第3戦で、愛知は三重を破り、岐阜と静岡の試合は混戦となった。ここで岐阜が勝てば岐阜の1位が決まる。ところが、まだチャンスのある静岡が猛烈ながんばりを見せ固くなった岐阜を3対2で破った。そして我々の期待通り3者(3-2で勝ち、2-3で負ける)同率となった。そこで次に得たゲーム数の計算をした。すると、岐阜と愛知が静岡を押さえてゲームの得失点率が同率とわかった。そこで、またこんどは全試合の得点計算で代表を決めることとなった。私は、どうなるものかとヒヤヒヤしていた。そして、全試合の総合ポイント計算の結果は、わずか2本だけ愛知が多く1位が決まった。このことを聞かされたときは、代表になれて良かったと思うと同時に1本1本大事にやって本当に良かった!とつくづく思った。

 中国のジュニアに負けて髪の毛を剃る!

 国民総合体育大会卓球競技の部は、6月7日、8日(高校の部)の2日間に予定されていた。
 その2週間前に名古屋で日中交歓大会が行なわれた。この大会に、私と同僚の深谷君の2人が代表として出場した。そして、中国のジュニア選手と2単1複の試合をしたのだが2対1で惜敗した。
 その夜、わたしと深谷君は試合を悔いて真剣に話し合った。そして「中国に負けた責任」と「一番のライバルとしていた京都の東山高校が、日中交歓で同じ相手に2対1で勝ったのに名電工が負けた恥をそそぐため」と考え、国体を目前に控えていたが床屋へ行ってゾリゾリと頭を剃ってもらった。
 ほとんどの人が経験したことがないと思うが、硬い髪の毛をカミソリで剃るのは痛い!ものだ。私は髪の毛を剃られて、痛い!と思うたびに「国体では絶対にがんばるぞ」と強く思った。
 それから国体までの数日間は、昼の3時30分から夜の9時30分までの規定練習以外に、12時近くまで国体代表の2年生を相手に猛練習をつんだ。まず一番の主戦武器であるフォアハンドに威力と安定性をつけるため、フォアハンドの強打対強打の基礎練習と、スピードのあるショートでランダムにまわしてもらったのをフォアハンド強打で動くフットワークを中心に練習をみっちりやった。必死の気持ちでいたのにくわえ、丸坊主にしたせいで汗をかいても頭がヒンヤリとさえ、まして髪の毛の格好なんかはまったく気にする必要がなくなったので、それまでより何倍もボールに集中することができた。坊主頭が予想以上の効果を生んだように思う。

 卓球だけに集中し、絶好調で優勝する

 国体の行なわれる新潟へは6月5日に出発した。高校3年生になってから初めての全国大会ということもあり、優勝を目標にはりきった気持ちで出発した。髪の毛は剃ってから10日しかたっていないので坊主頭といえた。
 これが試合のためには実によかった。
 私はこの頃、じっとしていることができない性格でよく体育館の中をブラブラしたり、友達を見かけると話しをしたりしていたし、夜になると仲の良い選手がいるチームのところへ遊びにいったりしていて、まったく落ち着きがなかった。そのために、国体の愛知県予選のときのように油断をして負けたり、試合中に遊んだせいで勝てる試合を落とすことがたびたびあった。また格好が気になる年頃だったので、格好に気をとられて集中力を欠いたり、周囲のことを気にして消極的な苦しい戦いをすることもあった。
 けれど、この国体の時は髪が短かったせいで人前に出るのも恥かしく自然と試合に勝つために必要な
 ・挨拶はしっかり行なうが、無駄話は絶対にしない
 ・会場を用もないのにブラブラ歩いたりしない
 ・他のチームの宿泊所に遊びに行ったりしない
などのことがしっかり守れたし、また
 ・試合においては、無駄なラリーを引かない
 ・スタンドプレイは絶対にしない
 ・動きまくる
 ・勝つときは1本でも少なく勝つ。負けるときは1本でも多くとる
 ・周囲に絶対に気を取られることなく、自分の試合だけに集中する
 ・しっかり動き、しっかり振り切る
...という、国体の予選の前とはまったく違った自分を押えに押さえた、卓球一筋に集中した日々がおくれた。
 大会が始まった。練習をやり込んでいたうえに集中した日々をおくった私は、熊本との1回戦からものすごい集中力で最高のできであった。相手がサービスを持ったときもレシーブのときもボールがすべてチャンスボールに見えた。レシーブ強打は入るし、サービスから回り込んでの3球目ドライブやスマッシュも気持ちの良いほど決まり、単複とも勝ち3対0で早々と試合を決めた。次の埼玉戦も絶好調でやはり3対0で勝った。
 こういう良いプレイのできた大きな原因を考えてみると、以前は試合をすること自体が人一倍好きで特にラリーを続けることが好きだったので、一発で決められるボールでも無理をせずラリーを引いて打ち合いを楽しんでいたが、今回は一発で決められるボールは思い切り勝負して一発で決めたり、クロスよりストレートに攻めた方が有利なときはストレートへ躊躇なく攻める厳しい試合内容で、1本たりとも甘いラリーをひかなかったのが良かった。
 その良いプレイで勝ち進むことが自信となり、また体力、気力、集中力も持続したまま準決勝の大阪戦、決勝での地元新潟戦でも絶好調を維持することができた。レシーブ強打やサービスからの3球目攻撃がよいコースへビシビシ決まり単複に全勝するとともに、チームも勢いに乗って全試合ストレート勝ちし、この年初めての全国大会でみごと伝統を守れた。
 もし伝統を守ることができなかったら学校にいられないと考えていただけに、優勝が決まったときの嬉しさは格別だった。
 今考えるに、この大会のとき今までと同じように髪などの格好にとらわれていたら生活の管理も集中した練習もできずに終わり、優勝できなかったのではないかと思う。
 私はこのことがあってからは、必ず試合の前日に髪を短くして大会に臨んだ。そして、このときの国体と同じような気持ちで試合をしたことが、好成績を残すことができた要因になった。また、数多くの試合を通じて「人間は1つのことに集中して一生懸命がんばっている姿が一番美しい」と悟った。
 油断をしたり、格好を気にしたりして集中できず、自分の力を出せずに負ける人がいる。どんな相手に対しても侮らず、恐れず集中してがんばろう。



筆者紹介 長谷川信彦
hase.jpg1947年3月5日-2005年11月7日
1965年に史上最年少の18歳9カ月で全日本選手権大会男子シングルス優勝。1967年世界選手権ストックホルム大会では初出場で3冠(男子団体・男子 シングルス・混合ダブルス)に輝いた。男子団体に3回連続優勝。伊藤繁雄、河野満とともに1960〜70年代の日本の黄金時代を支えた。
運動能力が決して優れていたわけではなかった長谷川は、そのコンプレックスをバネに想像を絶する猛練習を行って世界一になった「努力の天才」である。
人差し指がバック面の中央付近にくる「1本差し」と呼ばれる独特のグリップから放つ"ジェットドライブ"や、ロビングからのカウンターバックハンドスマッシュなど、絵に描いたようなスーパープレーで観衆を魅了した。
本稿は卓球レポート1979年1月号に掲載されたものです。

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