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「作戦あれこれ」第76回 大会前のコンディション調整

 2月の西日本選手権の敗戦から、私は多くのことを学んだ。先月述べた「朝食の大切さ」もその一つだが、もう一つ非常に強く反省したことがある。それは「試合直前のコンディション調整」についてである。
 私は、「今年も西日本選手権大会に出場するからには、若い選手のためになるいい試合をした。できれば優勝したい」と思い、1月から本格的にトレーニングを開始した。卓球レポ-トの原稿書きや、私の会社(バタフライ)が「日本の卓球の向上の発展のために」と、伊藤選手('69年世界No.1)と私を、地方のみなさんのための技術講習会に派遣してくれる仕事の都合があって、練習時間こそトレーニングと合わせて3時間ぐらいしかとれなかったものの、今の体力を考えれば調整には十分であった。やる気もあった。
 このとき、特に力を入れてやったのは、基礎体力や精神力を養うための「ランニングとウエート・トレーニング」、フォームの安定性を高めるための「素振り、シャドープレー」凡ミスをなくし、動いたときに正確な攻撃をするための「フォアハンド、バックハンドの基本練習とフットワーク」、ゲーム感を取り戻すための「連続ゲーム練習」であった。
 急に練習をやりこんだために、手の平にマメができたり、ラケットに強く当たる中指の第三関節に水ぶくれができる、などのアクシデントもあった。しかし、1ヵ月後にステパンチチ選手('79年世界複No.1、ユーゴ)、シ―ミラー選手(アメリカNo.1)を迎え、伊藤選手、私をはじめ4人の講師で各地の講習会を行なうころには「順調な仕上がり」といえるほどになった。講習会の最後にステパンチチ、シ―ミラー対伊藤、私の国際対抗試合では、非常によいプレーができた。そのせいか、この試合は大変に盛り上がって地元の卓球ファンに大変喜ばれた。
 このときの私は絶好調。シ―ミラーにも、ステパンチチにも2戦2勝の全勝。シ―ミラーが2勝2敗のタイ。ステパンチチが1勝3敗という結果だったので、大会3日前の2月11日の時点では、3人の中で西日本選手権で勝つ可能性が一番高かった。

 油断からシ―ミラー選手に敗れる

 ところが、4戦全勝した満足感から、12日に大会開催地・柳井市に入ってからの「コンディション調整」に甘えがでてしまった。
 "大会前日の選手は、自分のコンディションの調整を真剣に考えてやらねばならない"が、このときの私は―今思うと油断から―いつもの調整方法とはまったく違ったことをしてしまった。
 私は、ライバルであるはずのステパンチチ、シ―ミラー選手と一緒に講習会をやって、「同じ仲間」という気持ちにすっかりなってしまった。そのため、外人選手のコンディションがすごく気になった。「彼らが西日本でよいプレーをみせられなかったら」と危惧し、私は自分の練習はさておいて2人の練習相手になったり、シ―ミラーと一緒にトレーニングをしてはげますなどライバルに気を使いすぎてしまった。
 ―否、それは2の次の理由だ。西日本で私が不調だった第一の原因は「まあいいだろう」の精神で日々を過したことだ。私は「サービス練習やフットワーク、レシーブをさらにやった方がよい」とは思ったが、「何とかなるだろう」「まあいいだろう」という甘えた気持ちで、大会前日も一試合しかなかった大会初日も自分の練習をやらなかった。中でも基本練習をしなかったことは悔いがのこる。
 そのために、大会最終日は前回書いた「朝食不足による体力消耗」で昼過ぎに体力が衰えはじめると、フォームが急に乱れはじめた。そして勝ち進むごとにいつもとは反対に調子が落ち込んでいった。これは、基本練習をやり込んでいない時におこる現象である。
 逆に不調だったシ―ミラーは、調子が悪いことを自覚して、基本練習、フットワーク、そして練習以外のときも常に真剣に卓球に打ち込んでいた。そして、そのままの気持ちを持続して大会に臨み、私とは逆に登り調子の選手や、基本練習、トレーニングに打ち込んだ時がそうであるように、勝ち進むごとに自信を取り戻し調子を上げていった。そして準決勝に進出、全日本2位の坂本選手(日産自動車)を破ったときの、心・技・体・智の充実はすばらしかった。シ―ミラーは完全に立ち直った。
 逆に私は、最悪のコンディション。朝食不足による体力消耗を、基本練習をやり込むことによる技術面の安定性でカバーできず、絶不調。私は最後の手段として「決勝戦は気力をふりしぼってのりきろう」と試みたが「気力は体力」からくるもの。心・技・体・智とも完全にシ―ミラー選手の方が上回っており、18本、13本の大差で不本意な敗戦をきっした。
 私は大会を振り返り、多くのことを学び反省した。その中でも「コンディション調整のむずかしさ」をつくづく感じた。「コンディション調整」というのは、今回のように勝っているとき、調子のいいときでもとても重要なものなのだ。いや、そういうときこそ気をひきしめ気を使わなければならないものかもしれない。

 戦術が9割は成功するように練習した現役時代

 では、現役時代は試合前どのような「コンディション調整」の仕方をしていたか。読者のみなさんの参考になれば、と思い出してみよう。
 現役時代の私は「大会の決勝戦に最高のコンディションに持っていくように」と常に真剣に考え、それが確実にできるように練習、生活していたように思う。
 たとえば、3年連続5度目の全日本優勝を飾った'71年の全日本選手権。このとき、私は社会人3年目で、全日本の3ヵ月前に北京で行なわれたアジア・アフリカ友好大会でシングルスに優勝して絶好調だった。
 しかし西日本と違ったのは、好調に甘えず勢いにのって「さらに勝つためには」と中国遠征後すぐに全日本優勝に照準を合わせ、綿密な計画を立てたことだ。
 このとき、まずどんな苦しい練習にも耐えられるように「必ず全日本選手権を獲得するんだ」という目標を持った。次に優勝するためには、'77年世界チャンピオンになった前陣攻守型の河野選手、伸びざかりの左腕速攻の井上選手('70年学生No.1、'75年世界代表)、同じく左腕ドライブの阿部勝幸選手('74年全日本No.1)らの強豪を破らなければならないと考えた。
 技術的には非常に接近していた。大会で勝つには、「体力と強い精神力が必要」と私は考えた。そこで毎日10キロメートルのランニング、ウエート・トレーニング、サーキット・トレーニングなどを、試合の苦しい場面を想定しながら行なった。そして、大会5日前ぐらいからは逆に量を半分、そして1/3と徐々に減らして体力を温存させた。
 次に彼らを倒すには、どんな技術をどこまで高めなければならないかを真剣に考え、考えた目標を必ず成し遂げるように計画的に練習をした。
 このとき、3人を確実に倒すには「凡ミスしないこと。レシーブ力、ドライブ力が必要」と、技術課題をきめ、「基本動作を忠実に守ってのフットワークと基本練習」「強く払うレシーブ練習」「威力のある下回転サービスからの3球目ドライブ練習」を軸に、対河野用、対井上用、対阿部用の特別練習をやった。
 この内容は、たとえば河野選手には「フォアのコーナーいっぱいに鋭く切るツッツキでレシーブし、ドライブをかけてくるのをドライブで狙う練習」といったもの。その選手のクセと自分の技術を考え、有利に試合を運ぶための個別練習であった。
 また、練習の最後には「素振り」を多くやって、かならずフォームの矯正をした。電車の中や歩いているときにも、彼らと実際に戦っている場面を想定して「こうきたらこう返す。次にこうきたら、こう攻める」と、イメージトレーニングをたくさんやった。とにかく、自分が「こうした方がいい」と思ったことは、大会が終了するまですべて絶対に妥協しないで全生活を賭けてやった。
 こうして気をゆるめず万全な態勢で臨んだおかげで、勝ち進むにつれて調子が上がり、阿部選手、河野選手を倒して井上選手との決勝戦のときには、過去最高の調子に持っていくことができた。おかげで5度目の優勝をすることができた。

 西日本が終わって2ヵ月過ぎた。西日本と、'71年の全日本を比較して「よいコンディション調整をするには"大会に目標を持ち、よいと思ったことは絶対に妥協せずに実行する強い心"が必要なんだなぁ」と今、強く思っている。



筆者紹介 長谷川信彦
hase.jpg1947年3月5日-2005年11月7日
1965年に史上最年少の18歳9カ月で全日本選手権大会男子シングルス優勝。1967年世界選手権ストックホルム大会では初出場で3冠(男子団体・男子 シングルス・混合ダブルス)に輝いた。男子団体に3回連続優勝。伊藤繁雄、河野満とともに1960〜70年代の日本の黄金時代を支えた。
運動能力が決して優れていたわけではなかった長谷川は、そのコンプレックスをバネに想像を絶する猛練習を行って世界一になった「努力の天才」である。
人差し指がバック面の中央付近にくる「1本差し」と呼ばれる独特のグリップから放つ"ジェットドライブ"や、ロビングからのカウンターバックハンドスマッシュなど、絵に描いたようなスーパープレーで観衆を魅了した。
本稿は卓球レポート1982年6月号に掲載されたものです。

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