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「作戦あれこれ」第79回 表ソフト攻撃型と対戦した場合②

 大学1年のインカレ(全日本大学対抗)で、裏ソフト速攻型の河野選手(当時専大、'77年世界チャンピオン)に辛勝した後、私は次の対戦に備えて彼のプレーと自分のプレーをじっくり分析した。彼とは今後何度も対戦するだろうとも思ったし、対表ソフト速攻型に強くなるためにはどうしても必要なことだと感じたからである。

 消極的になったときにズルズル得点される

 最初にまず勝因を振り返ってみた。
 ①「勝てる」と自信を持って積極的に攻めた
 ②レシーブから4球目、サービスから3球目を素早く動いて、相手の逆をつくように激しくゆさぶった
 ③ドライブで攻めるとき、ボールをしっかりひきつけバック側に打つモーションからフォア側へ攻めた。それに、ときどきストレート攻撃をして相手を攪乱した
 ④バックハンドもストレート攻撃でフォアを攻め、コースを一定にしなかった
 ⑤どんなに苦しいラリー展開になったときでも、あきらめずに変化をつけながら打ち返した
 ⑥ツッツキで返すときに、フォアコーナーに鋭く切って返し相手の攻撃を封じた
...などだ。
 次にどんなときに多く得点されたかを振り返った。
 ①ショートサービスからタイミングの早いフォアハンド3球目攻撃で、ミドル、バックをつかれたときにミスが多い。ショートで返しても不安定で狙われた
 ②フォアに動かされたあと、バックに攻められたときのバックハンドが不安定
 ③ミドル前のショートサービスに対するレシーブが甘い
 ④意識的にコートから離れてロビングを上げたときはほとんど得点していない
 ⑤打球がバック側に集まったとき、連続得点されている
...などである。
 逆転勝ちとはいえ、大学1年ですでに日本一攻めの速い、また将来有望視されていた河野選手に勝ったことは、対表ソフト速攻に大きな自信となった。だが、河野選手には「少しでも油断をしたら負ける相手だ」と思っていたし、当時の世界No.1~No.3の中国選手に勝つためには、まだまだ対表ソフト速攻を研究しなくてはいけないと、全日本大学対抗直後にあった中国遠征で、中国式前陣攻守型の攻略法を研究し、帰国後も当時東海学生No.1だった左腕ドライブの西飯選手(名商大→現在三重県で卓球専門店経営)に、愛工大の練習場に来ていただいて、夜遅くまでこれらの課題に取り組んで猛練習を行なった。

 東日本学生の3回戦で対戦

 好敵手河野選手との2度目の対戦は、すぐにやってきた。それはインカレから2ヵ月半後の北海道札幌市で開かれた東日本学生選手権だった。札幌は10月中旬なのにすでに木枯しが吹き、冬が間近という気候だった。私は、出場校中一番遠い名古屋から参加しているだけに、悔いのない試合をしよう、と考えていた。
 河野選手との対戦は、シングルス3回戦の16決定戦だった。そのため、私は東西優勝校対東日本代表決定戦の専大対中京大の試合を見学した。
 この試合、河野選手は中京大エースで全日本ベスト16の強豪田中英也選手と対戦、2対1で破った。それも、ミスが出てもレシーブ、3球目からいきなり思い切り強く攻める速攻で破った。1ゲーム目から2ゲーム目の中盤まではミスが多かったが、2ゲーム目の中盤過ぎから速攻が決まりはじめ、田中選手は2ゲーム目は手も足も出ずコートの中央で立っているだけの感じだった。私は、河野選手のプレーを見て「対ドライブマン戦法をかなり研究してきたな」と思った。
 そのため、私はこの河野選手に対抗すべく、次の10のことを頭にたたきこみながら朝のトレーニングに打ち込んだ。
 ①自信をもってプレーする
 ②ボールに向かっていく
 ③サービスから3球目、レシーブから4球目を素早く動いて両サイドを激しくゆさぶる
 ④ボールをしっかり引きつけて打つ
 ⑤コースはフォア側を主に攻め、勝負どころでストレート攻撃をする
 ⑥サービスを持ったとき、ロングサービスとショートサービスを混ぜ、サービスから攻める気持ちで臨む
 ⑦攻めるべきボールは思い切って攻め、つなぐべきボールはしっかりつなぐ
 ⑧河野選手のサービスに対するレシーブ、特にミドル前のレシーブをしっかりやる
 ⑨両ハンドともミートを強くし、振り切る
 ⑩打球後のもどりを早くする
 ⑪激しく動き回る
―フォアを攻める狙いは、表ソフト攻撃選手はフォア側から攻撃するとき平行足気味になりやすく、手打ちになるからだ。このため回転が鋭くかかっているドライブに対してミスが出る。ツッツキでフォアコーナーに強く切って返す戦術も同様の考えからであった。
 "自信を持ってやる、ボールに向かっていく"というのは、思い切りのいい攻撃、自分のプレーをするためであった。また、"レシーブから4球目、サービスから3球目のとき、素早く動いて両サイドを激しくゆさぶる"のは、相手を攪乱し有利なラリー展開に持ち込むためであった。

 作戦を切りかえゲームオールのジュースで勝つ

 河野選手との試合は、最終日の(第3日目)の朝一番に行なわれた。結果は私が勝ったが内容は全く互角だった。
 河野選手は、「1ゲーム目の中盤までは速攻ミスが続出しても、終盤から入ればよい」という思い切りの良い戦術をとって出足から強攻してきた。対する私は、この作戦を逆手にとった。というのは、この戦法は荒々しい迫力はあるがこちらが冷静、緻密に攻めると崩しやすい。それで出足リードを奪い、勢いにのって終盤にのぞめると思ったからだ。
 そこで、河野選手の動きをよく見て、ドライブ、ツッツキに変化をつけ、河野選手の読みの逆コースをついて労せず先行した。
 2ゲーム目は、河野選手にその戦術を読まれた。1ゲームのようにムチャ打ちせず、難しいボールはコースをついて攻め、打てるボールを強攻してきた。私が勝ちを意識して知らず知らずのうちにレシーブと3球目が慎重になって打球点を落としたため、河野選手のタイミングにピッタリあって、先手先手と攻められてしまった。こうなったときの河野選手のコースの取り方は抜群で、まったく手が出なかった。
 そして最終ゲーム。2ゲーム目「相手のミスを誘う作戦で敗れた」と気づいた私は、再びレシーブから積極的に攻めた。サービスから3球目も同じく積極的に攻めた。攻撃できないボールは、できるだけ早いタイミングで次を攻めやすいようなコースに変化をつけて返し、両ハンド攻撃ができる位置で次球を待った。
 すると、河野選手は打点を落とさない私のつなぎボールに対し、打球するときの余裕がなくなり、泳ぎながら打ったり、つまりながら打ったりすることが多くなった。それを得意のドライブで攻めたり、バックハンドで攻めたりして、河野選手をショートに追い込む。そして次を休まず素早く動いてドライブ攻撃で得点した。
 こうなると、河野選手得意の速攻もミスが出はじめた。ロビングでやっとしのいだボールにも「このチャンスを逃してはならない」と固くなるため、スマッシュミスが出始めた。試合は私のペースで進み、20対15とマッチポイントを握った。しかし、このあとはさすが河野選手。この土壇場で私の意表をつく思い切ったドライブロングサービスからの連続攻撃をしかけてきた。
 私はドライブで攻め返したがロビングに追い込まれ、5本連続得点されジュースに追い込まれた。最後はロビングで逃げ切ったものの苦しい試合だった。

 レシーブと4球目を強気で攻めたのが勝因

 この試合の勝因をしいてあげるなら
 ①レシーブと3球目を強気で攻めた
 ②早いタイミングのつなぎボールを混ぜた
 ③ロビングでしのぐ得点が要所で出た
 ④強打を浴びても逃げずにフォア攻めを続けた
 ⑤払えないときはフォアへ深くツッツいてから台からの距離をとり、得意のロング戦に持ち込んだ
―ことだと思う。それ以外は河野選手も私をよく研究していて、苦しい場面が多かった。私は「これではまだまだいけない」と強く反省し、さらに対表ソフト速攻作戦を研究した。



筆者紹介 長谷川信彦
hase.jpg1947年3月5日-2005年11月7日
1965年に史上最年少の18歳9カ月で全日本選手権大会男子シングルス優勝。1967年世界選手権ストックホルム大会では初出場で3冠(男子団体・男子 シングルス・混合ダブルス)に輝いた。男子団体に3回連続優勝。伊藤繁雄、河野満とともに1960〜70年代の日本の黄金時代を支えた。
運動能力が決して優れていたわけではなかった長谷川は、そのコンプレックスをバネに想像を絶する猛練習を行って世界一になった「努力の天才」である。
人差し指がバック面の中央付近にくる「1本差し」と呼ばれる独特のグリップから放つ"ジェットドライブ"や、ロビングからのカウンターバックハンドスマッシュなど、絵に描いたようなスーパープレーで観衆を魅了した。
本稿は卓球レポート1982年9月号に掲載されたものです。

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