1. 卓球レポート Top
  2. その他
  3. 卓球レポートアーカイブ
  4. 「作戦あれこれ」長谷川信彦
  5. 「作戦あれこれ」第95回 妥協するな

「作戦あれこれ」第95回 妥協するな

 毎年2月、山口県柳井市で行なわれている西日本選手権大会に、今年も私は出場した。現役引退後、早いもので6度目の出場である。
 今年も外国から、西日本選手権の"顔"ともいえるダニー・シ―ミラー(アメリカNo.1)はじめ、昨年12月にバハレーンで行なわれたアジアジュニア選手権の団体戦で中国を5-0で破って優勝した韓国ジュニア男子2名、ジュニア女子2名、昨年の世界選手権で中国台北の名称で準加盟が許された中華台北から男子4名、女子2名、ブラジルから1名等、たくさんの外国選手が出場。日本からも2年連続全日本男子ベスト8の永瀬(日産自動車)、同じく全日本ベスト8の宮崎(和歌山相銀)、ベスト16の岡部(協和発酵)、また女子も世界大会日本代表の山下(明治生命)はじめ、三井銀行、第一勧銀の実業団一部リーグ選手らが出場し、ジャパン・オープン(東京選手権)に次ぐビッグトーナメントに成長した。
 私は、昨年の対宮崎戦の敗戦を反省し、今年は体力トレーニングをしっかり積んで出場したが、シ―ミラーと組んだダブルスは決勝戦で宮崎・村上組(和歌山相銀)に敗れ、シングルスはベスト4決定で永瀬選手に惜敗し、昨年同様のベスト8に終わった。しかし、今回もいろいろ多くのことを学ぶことができた。出場して本当に良かったと思う。敗戦を顧(かえり)み、シーズンを迎える読者みなさんの参考になれば、と思い、今回の"作戦あれこれ"を書いてみたい。

 ふつう人間になるな!

 私が、今回の敗戦の後、一番強く思ったことは「ふつう人間になるな」「自分に妥協するな」ということである。というのは、これらのことが原因でダブルス決勝も、永瀬戦も敗れた、と思ったからである。
 私は永瀬選手と対戦する前、新ルールのためにアンチカットマンからイボ高カットマンに変身した竹之内選手(協和発酵)と対戦し、スマッシュが不調であったためドライブで粘り倒す作戦に変更して、長い試合の末にやっと倒した。そのために、次の永瀬戦開始まで休憩が5分間しかなかった。
 私はすぐにユニホームを着替えたあと、対カットから対ロングに変わるので「対ロング用のシャドープレーをやらなければならない」と思ったが、竹之内選手との長い試合の疲れから、ウォーミングアップをはぶいて試合に臨んでしまった。また、疲れをとるのが精一杯で細かい作戦をたてることもできなかった。
 現役時代であれば、このような状態であっても絶対に妥協せず、短い時間でも必ず対ロング用のシャドープレーをし、作戦も真剣に考えてから試合に臨んでいたはずだ。そうすると、疲れていても再び闘争心がおき、次の試合に対する集中力がでる。そして、自分のプレーができる。しかし、今回は妥協してしまった。そのために年齢からくる闘争心の薄れに拍車をかけ、集中力も欠けた。
 ダブルスでも、準決勝までは試合前に額から汗が飛ぶほど入念にウォーミングアップを行なったが、宮崎・村上組との決勝の前は「ウォーミングアップをやったほうが良い」と心の中では思いながら、準決勝の試合のぬくもりもあったので「この調子ならだいじょうぶ」と安易に考え妥協してしまった。
 そのため、準決勝のときのようなフットワークの鋭さがなく、宮崎・村上組の威力のあるドライブとアンチを使ったうまい変化プレーの前に、つまらぬ凡ミスを繰り返しストレートで敗れてしまった。

 絶対に妥協しなかった現役時代

ウォーミングアップ不足、作戦不足で闘争心が薄れたか、試合に対する闘争心のうすれからウォーミングアップ不足、作戦不足になったかは、にわとりと卵のようなものだが、悪循環であったことはまちがいない。試合に真剣に臨む態度としてこれでは失格だ。ではどのようにしたらよいか?読者の皆さんの参考に、私の現役時代のことをふり返ってみよう。
 昭和54年度の全日本選手権は三重県伊勢市で行なわれた。このとき私は23才で、社会人2年目のディフェンディングチャンピオンであった。しかし、このときは大会に突入してからラバーを新しく貼り変えるほどの絶不調で「長谷川の優勝は難しい」といわれていた。というのは、大会前のヨーロッパ遠征のとき、疲れと時差で調子を崩したのがここまで影響していたのである。しかし、帰国後死に物狂いで練習と体力トレーニングをやり、自分としては「何としても」の決意で大会一日前に伊勢の地に入った。
 そして、伊勢で再び最後の調整にいどんだ。だが、このときは練習場であまりの絶不調に気が重く沈んで、練習後のランニング、ダッシュ、素振り、シャドープレー等のトレーニングによるコンディション調整をしようとしてもなかなか気が進まなかった。練習後、疲れた体をひきずって宿舎に帰った。「やろうか」「休もうか」大いに迷った。気は重く、体も重く、休んだほうがよいようにも思えた。しかし「ここで苦しいからといって体力調整を怠ったら試合でもっと苦しむ。ここは苦しくても耐えてやるべきだ」と、伊勢の海岸を走ったあと、ダッシュ、シャドープレーなどを懸命にやって汗を流した。「やるだけのことはやった」と宿舎に帰った。気持ちがやや軽くなった。
 夜はめったにこられない伊勢の町を散歩し、気分転換したい、とも思ったが「今夜は明日から始まる大会に臨む心構えと、対戦しそうな選手に対する作戦をノートに書きこむのがベストだ」と考え、外に出るのを我慢してノートに向かった。また、大会当日の朝食前のトレーニングも、試合前のウォーミングアップも、試合の合間の過し方も、食事、飲み物も「こうだ」と思ったことは苦しくても必ずやった。また、「こうしてはいけない」ということは絶対にやらなかった。
 こうして「どんなに苦しくても絶対にがんばるんだ」と一つの妥協もしなかったために、「これだけやって負けてたまるか」の闘争心と集中力がわきおこり、試合ごとに調子が上がっていった。夢中でがんばった結果は、大関選手(三井銀行)と組んだ混合複に優勝、伊藤選手と組んだダブルス3位、シングルスは世界チャンピオン伊藤選手、アジアチャンピオン河野選手を連破して絶好調の今野選手(早大)を、決勝で3-1で破って2連勝4度目の優勝を飾ることができた。
 もし、ちょっとでも今回のように妥協していたら、あのときの調子ではとても優勝に結びつかなかったろう。幸いにも全日本史上最多(6回)の優勝記録を達成できたが、勝負は常に紙一重、ちょっとでも妥協していたら、ずいぶん結果は変っていたろう、と思う。
 しかし、妥協しないためには「私はこの大会で必ずここまでいくんだ」という目標がなければむずかしいものである。それがなければ「苦しいことはさけ、楽な方に流れる」ごくふつうの人間心理になって、苦しいことに耐えられず妥協してしまう。したがって「必ず優勝するんだ」「必ずベスト4に入るんだ」「必ず5回戦まで勝ち進むんだ」という、自分のレベルに応じたしっかりした目標をまず持つことが大切だ。

 第1ゲームがもっとも大切

 西日本選手権大会でもう一つ強く感じたことがある。それは、第1ゲームを先取することの大切さである。
 私は現役時代「第1ゲームを落とすと、第2ゲームにものすごく集中しなければならない。そうすると第3ゲームに集中力が落ちる。作戦も余裕がなくなり、3ゲーム目は後手後手に回りやすく勝つことがむずかしい」という考えから、大接戦で苦しい試合も、大きくリードされていても挽回できないような試合でも、とにかく最後まであきらめず、必ず1ゲーム目を先行するように心がけた。そのため、疲れが出てたとえ2ゲーム目を落としても負けることが少なかった。
 ところが永瀬戦では、1ゲーム目を先行しようとしたが巧みにアンチを使う変化プレーに18-17から逆転されて先行されてしまった。私のあのときの体力からいっても絶対にとっておかなくてはならないゲームだった。そのため、あとがない私は2ゲーム目に全力を注がざるを得なくなり、2ゲーム目をモノにしてタイに持ち込んだものの、3ゲーム目は疲れから集中力が落ち、永瀬選手にプレーを読まれて先手、先手と攻められ、16-20とリードされた。ここから必死になってジュースに持ち込んだが、結局、集中力、気力に勝る永瀬選手の速攻の前に敗れた。勝負の世界で「もし、たら」という言葉は禁句だが、実力が接近している場合、もし1ゲーム目を私が先行していたら、逆の結果になるのが勝負の世界である。
 ダブルスの決勝戦も0-2で敗れはしたが、1ゲーム目を先行していたらどうなっていたかわからなかった、と思う。ところが、1ゲーム目の14-15からがんばりきれずにあっさり離されて先行されたために、2ゲーム目16-13とリードしていたにもかかわらず焦りから逆転され、優勝を逃してしまった。やはり「1ゲーム目が勝負」だった。
 このように、力が接近している場合、1ゲーム目を失うと非常に不利な戦いになる。したがって、試合前に作戦をたて、ウォーミングアップをしっかりやって、第1ゲームは大接戦であっても、大きくリードされても最後までがんばって絶対先行することが大切だ。

 体のキレをよくするランニング

 私は、ダブルス2位、シングルスベスト8の成績に終わったが、西日本選手権に備えて体力トレーニングをするうち、非常に強く再認識させられたことが一つある。それは、ランニングの効果である。
 私は西日本選手権に出場するからには「体力トレーニングをしっかり積んで、ベストコンディションで出なければ卓球選手といえない」と考え、大会2ヵ月前から基礎体力を高めるため、ランニングとウエート・トレーニングを中心にトレーニングを毎日1時間半ぐらいやった。もちろん徐々に多くしていく方法でだ。
 この中でランニングの量は、その日のコンディションによって調整したが、少ないときで30分、多いときは50分近く走り込んだ。疲れているときに無理をしたため大会一週間前にふくらはぎの筋肉を痛めてしまった失敗もあったが、この狙いは
①基礎体力を高める
②闘争心、気力を養う
③フットワークをよくする
④忍耐心を養う
...と、この4つが主目的だった。
 私は、減量する狙いもあって、防寒用の上下を着て走った。苦しくなったときは「もっと苦しめ!」と自分に言い聞かせながら走った。関東地方に大雪が降ったために雪と氷に足をすべらせ、3度転倒したのが良い思い出だが、1回走ると防寒用の上下を着て走ったため、1~1.5㎏体重が減った。
 ランニングをはじめてから2週間ぐらいたったとき、トレーニングの4つの主目的がかなり高められたことはもちろん、体がしまり、キレもよくなって、フォアハンドスマッシュ、フォアハンドドライブ、バックハンドスマッシュにスピードがついてきた。このときは大変嬉しかった。
 学生時代は、毎日のように10㎞前後走っていたので、そのときはランニングにどの程度の効果があるのかよく分からなかったが、休んでいてこうしてやってみると効果がよく分かるものだ。「ランニングはスポーツの基本」といわれるのもこのようなことからだろう。
 ランニングの効果は非常に高い。中学生ならば2~3㎞、高校生、大学生ならば4~5㎞は毎日必ず走ろう。全国大会の出場や、全国で上位を目指す選手なら、この2倍ぐらいは必要である。



筆者紹介 長谷川信彦
hase.jpg1947年3月5日-2005年11月7日
1965年に史上最年少の18歳9カ月で全日本選手権大会男子シングルス優勝。1967年世界選手権ストックホルム大会では初出場で3冠(男子団体・男子 シングルス・混合ダブルス)に輝いた。男子団体に3回連続優勝。伊藤繁雄、河野満とともに1960~70年代の日本の黄金時代を支えた。
運動能力が決して優れていたわけではなかった長谷川は、そのコンプレックスをバネに想像を絶する猛練習を行って世界一になった「努力の天才」である。
人差し指がバック面の中央付近にくる「1本差し」と呼ばれる独特のグリップから放つ"ジェットドライブ"や、ロビングからのカウンターバックハンドスマッシュなど、絵に描いたようなスーパープレーで観衆を魅了した。
本稿は卓球レポート1984年4月号に掲載されたものです。
\この記事をシェアする/

Rankingランキング

■その他の人気記事

NEW ARTICLE新着記事

■その他の新着記事