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わたしの練習③水谷史朗 世界選手権優勝を目標に

 僕が卓球をはじめたのは、小学校を終(お)え、中学に入る春休みです。親類に古沢吉之助さん(元早大卓球部主将)という卓球選手がいて、賞状を見せてもらったり、世界選手権が東京であったとき(昭和31年)見に連れて行ってもらったりしているうちに、完全に卓球のとりこになってしまったのです。とは言うものの卓球選手の名前もよく知らず、知っているのは荻村さん、田中さん、ロゼアヌぐらいでした。ただ心臓が強かったのか、
『僕は荻村・田中さん以上の選手になるぞ。よし、世界選手権に出て優勝してやるんだ』
―そんな決心をして、それがずっと今日まで変わっていないようです。その頃、決心の底に、優勝したら自殺かなんかして皆をアッと驚かそうかな…などと、とっぴようしもない考えが流れていたのにくらべ、いまでは息の長い選手として頑張りたいと思う気持ちが心の中を占めているのが小さな変化かもしれません。

 毎晩一人でランニング

 立教中学へ入り、スポーツをやる人は足腰の丈夫なことが大切だと聞かされた。それからは、毎晩ランニングすることをつづけました。中学時代は大体2000~6000メートルを雨の降らない日に毎晩走りました。夜の10時すぎに一人で走るので、とてもさびしいし、いやになることもたびたびで、暗い所はこわいので思いっきり走ったりして、自然とインターバル走法をこなしていたようです。そのおかげか、豊島区陸上競技大会。2000メートルの部で1位となり、他の選手達が正規の陸上競技部員であっただけにうれしく、スタミナには自信をもちました。
 高校に入ってからは、1万メートルを大体1日おきぐらいに走っています。どんなことでも同じでしょうが、あまり順調にいきすぎると思わぬ障害があるもので中学時代に一応の成績をあげ、期待に胸をときめかして入学した高校の1年間は、苦しい下積み生活らしきものを味わってしまいました。ただガムシャラに卓球だけをやっていた頃ですので、自分をかえりみる余裕などあるわけがありません。高校最初の試合である関東高校選手権東京都予選につまづいてからは、石が坂をころがり落ちるように敗戦また敗戦の連続でした。その上、運が悪いことに、中学時代のライバル達がどんどん良い成績をあげ団体代表や個人代表となって本大会の経験を積むのを見て、真剣に“このまま卓球を続けるべきかどうか”を考えたものです。だが幸せなことに、僕は小学校以来現在にいたるまで、環境に恵まれていました。高輪高顧問の昆先生、実の子のように可愛がってくれる武田さん、また友人のMさんやいろいろな人達にはげまされて、やっとその苦しい生活にも耐えることができました。

 精神統一のため正座をはじめる

 1年の後半には、徐々に成績も上がってきました。この時とばかり、2年に入ってから頑張れるように地固めをしていましたが、36年度全日本硬式選手権ジュニアの部東京都予選の代表決定戦で1セット目をとり、2セット目20対15のリードを守りきれず押し流されてしまいました。
“なんのために1年間の下積みを味わったんだろう”
“少しも進歩がなかったんじゃないだろうか”
…などと精神的なもろさをつくづく感じ、それ以来試合1週間前から30分~1時間正座をして気持ちの統一をはかることをはじめました。『自分は、他人の多分やっていない正座をして気持ちの統一をはかった。だから、そんなことをしないで出場する選手達には負けない。よし、頑張るぞ』と、自分自身に言いきかせながらやっています。僕の場合、正座するということは、成功だったようです。

 ループドライブでキッカケをつかむ

 2年となり、最初の試合である関東高校選手権予選に再び望みをかけて練習していると、うまい具合に流行のループドライブをおぼえました。自分に一番必要な技術は何であるか?それをツカむことが大切だと思っていた僕は、代表になるまでは周囲からなんと批評されようとも絶対ループに頼って戦い、ある程度の実績をあげ実力をつけたら細かいテクニックをつけていこう―という考えでした。毎日2~3時間フォア打ちとループ練習に専念しました。予選の日も近づき、調子もだんだんと昇り坂となりました。
 予選の日が1週間以内に近づいたある日の昼休み、友達にさそわれ、つい校庭でゴムマリを手で打つ“野球”をしてしまいました。魔がさしたというか、走ってきたレスリング部のキャプテンの顔を力いっぱいたたいてしまったのです。相手は倒れたまま起きあがる気配がありません。そんなに思いっきりやってしまったのですから、手の方がたまりません。ズキンズキン痛み出し、はれ上がってしまいました。近所の医者にみてもらったら、たいしたことはない。よく風呂でもみなさい、と教えられそのとおりにしました。あまり痛くて2~3日練習はもちろん何もできなかったのですが、それでも予選当日ラケットを持つと、どうにか持てるので無理して出場してみました。痛みはまだとれないので、水でひやしながらやるのです。代表決定戦まで全部苦戦を重ね、運よく代表になったので、別の医者(専門医)にみてもらうと、親指の骨が折れているとのこと。最初の医者に誤診されたことがとても残念でした。でも考えようによっては、あのとき正しい診断を下されていたら、予選にはもちろん出場できなかっただろうし、いまこうしてレポートに書かしてもらうようなことはなかったろうと思うと、複雑な気持ちです。
 本大会(関東高校選手権)までは1カ月ぐらいしかなく、また診断によると3週間はギブスをはずされないということです。練習不足のまま、本大会を迎えました。はじめての本大会出場ですので、ボーッとあがってしまい、ただ無我夢中でやりました。人間というものは不思議な力を出すもので、まだよく曲がらない指で決勝まで行ってしまったのです。決勝では負けましたが、後に悔いを残さなかった試合という点では、いままで経験した試合のうちで最高のものといえます。
 最近、僕はよく1~2年生にこう言って聞かせます。
『誰にでもチャンスとキッカケは必ずくるものだからそれを絶対に逃さぬように頑張れ。また、その結果が思わしくないものであっても、全力をつくして努力したのなら悔いがないじゃないか』

 バックハンドの強化と3球目の練習

 最初のキッカケをループドライブという武器でつかみそれ以来ずっと一応の成績をおさめています。が、やはり土壇場にきたときとか、硬くなったりするとループに頼ってしまい、このままではいけないと思いながら、ズルズルと深みにはまってしまうようです。アジア選手権大会(38年2月)でもそうでした。フィリピンの選手とやったときなど、打てなくなるし、軽く勝てそうな相手に苦戦をしてしまいました。運よく韓国戦では、相手がループの処理が下手で勝てましたが、薄氷を踏む思いでした。
 帰国してからは、いままでフォアの強化とフットワークに重点をおいてきた方針に、バックハンドと3球目の強打を入れてやっています。コーチにきてくださる広瀬さん(早大出)が前陣速攻の戦法なので、大変勉強になります。3年生ともなると、進学の心配や卓球以外のことで考えねばならぬことも多く出てきますし、練習量をそう多くとることができません。中学時代必ず1日4~6時間練習していた時とくらべ、現在は2~3時間ぐらいしかやれず、歩きながら卓球のことを考えたりしても、練習量がともなわないことがハンディキャップに感じられ、短時間で効果のある練習を目標にやっています。特に卓球と勉強の両立ということにも悩まされ、球友の中には卓球のみという人も見え、なんだか差をつけられるようでいやな気持ちがします。でも、同じ全国高校ランクをもっている熊谷商工(埼玉県)の根岸君やその他何人かの球友は両立に成功しているようで、そんな例を見てファイトを燃やし、少しでも両立に近づこうと思っています。
 卓球をはじめて、もう6年目に入ろうとしています。いままで、比較的楽に進んできたこの卓球を、これから最初の目標<世界選手権優勝>まで進んでいくのには、苦しいことも楽しいことも多いことでしょう。苦難にはめげず、楽しみにおぼれず、いったんやりはじめたこの道ですから、最後までやり通したいと思っています。

みずたに しろう=東京高輪高主将、全日本硬式ジュニア第3位・全国高校第7位。東山高の原田選手と共に今年のアジア選手権ジュニア団体で優勝した。

(1963年6月号掲載)

 

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