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わたしの練習④三木圭一 世界選手権奪還を目指して

 昭和35年4月。中学高校時代に習得した基礎的な技術をもとにして、もっと柔軟性のある卓球を身につけようと志して中央大学卓球部の門をくぐった。しかし、先輩達の練習を見ていると、自分の技術がいかに未熟で頼りないものであるかを痛感した。フォアハンドにしても、確実性が少なくスピードもなく、自信を持っていた脚力の点でも、いま考えてみると全く幼稚なものであった。

 苦しかったフットワーク練習

 それから私は、基礎技術と体力の養成に全力をつくすことを決心し、本当に最初からやり直しを始めた。ロードワークは3~4キロ。フォアハンドは確実性を増すために300本、400本とラリーを引き、その後スマッシュの練習。ショートおよびショート打ち。脚力と感を良くするための前後左右のフットワーク練習…などをやった。特に前後左右のフットワーク練習は、非常に効果があった。しかしフットワーク練習は“疲れなければ効果がない”といつも言われていたように、非常に苦しいものであった。ある時は足の運び方が悪いと監督や上級生に注意され、汗と涙にまみれ歯をくいしばりながら1時間近くフットワーク練習をやったこともある。
 中央大学は練習場がせまく、卓球台は3台しかない。その上多くの部員をかかえている。だから台が空くと、まっさきに飛んで行って台を使用しないと、練習はいつになってもできなくなってしまう。だから台についた時の練習は、真剣そのものだった。1本1本の打球に精魂を傾けた。これは非常に大切なことであるが、なかなか実行されにくいものだ。ともすれば、ただ何となく練習をおえ、何の習得もないまま1日を費やしてしまう人も中にはいるのではないかと思う。私の場合は、それを不利な環境が救ってくれた。
 練習の合間に上級生の練習を見て参考にしたり良い所はまねてみたりした。また、勝負に関する本をむさぼり読んだのもこのころであった。
 授業の合間にも練習場へ行き、帰るのは午後8時か9時ごろ。練習量は1日平均6~8時間くらいだった。こういう練習が毎日、半年ほど続いた。その結果、秋季関東学生リーグ戦には幸運にも4勝1敗という好成績をあげることができ、ますます練習が楽しくなり毎日他人より多く練習をやらないと、なんだか1日中不安で仕方がなかった。そのころから、ある目標を持って練習をやり出した。1つは全日本硬式選手権か、全日本学生選手権のタイトルを取ることである。もう1つの目標は、毎日毎日練習試合を30セットずつ行うことだった。一口に30セットと言えば簡単なようだが、なかなか容易なものではなかった。

 卓球日誌で反省しながら練習

 私は大学1年のはじめから、卓球日誌をつけていた。その巻頭の所感には、『新しい選手生活を迎えるにあたり、大いなる希望と抱負を持ってこの記を記しはじめる。自分の欠点とする精神面の弱さを少しでも改められたら、また技術作戦等を少しでも会得できたらと思いながら…。』とある。卓球日誌に、毎日の練習試合の勝因と敗因とその他感じたことを書きしるしていった。この卓球日誌を見れば(自分がどのような時に調子がよいか)、(どのような時にスランプであったか)が一目でわかる。その上(これから自分はどのような練習を行えばよいか)、(自分の欠点を改めるためにはどのような練習をすれば良いか)と計画をたてるのにも大変役に立った。
 大学1年の後半にあった東日本学生選手権で、予想もしなかった単複決勝進出を果たすことができた。これによってそれまで試合に対して抱いていた恐怖感が逆に自信に変化して、試合が楽しくて楽しくて仕方がないようになった。その年の全日本硬式選手権では10位にランクされたし、全日本学生選手権では、第1の目標としていた全国制覇の夢を達成することができた。
 その頃から『君はサービス・レシーブと3球目の速攻、それと試合の運び方がうまい』と言われるようになった。それは私の練習場の問題と、“なんとかして先手をとって攻めよう”と心がけていたことによると思う。すなわち「攻撃は最大の防御である」という言葉を信じていた。サービス・レシーブの練習は多くの時間をかけてやったが、特にダブルスにおいてのサービス・レシーブ練習はそのままシングルスにも使うことができ、非常に有効で能率的な練習方法であった。

 サービス・レシーブの練習に重点

 サービスの練習はまずスピードサービスをどのコートへでも出せることからはじまり、同じモーションでの左右、上下の回転の変化。更に、私が実戦でよく使用するタイミングをはずしてサービスを出す練習も相当やった。少しタイミングをはずすことによって、なんでもないサービスでもよく得点でき3球目に絶好球が返ってくる場合が多かった。レシーブの練習では、台の中に出された小さなサービスをはじいて打つことによって、先制攻撃をかける最初の手がかりを作る練習を重点的に行った。試合運びの点では練習の試合においても、実際の試合と思ってやったことと、セット数を多くやったために自然と試合のかけ引きとか相手の心理をよむことが身についたのだと思う。
 昭和36年1月。幸運にも、私は第26回世界選手権(北京)の日本代表に選ばれた。だが、その発表があって間もなく、私は大きな失敗をしてしまった。その時の日記を抜き出してみる。
 『1月31日。晴午後2:30 今日で1月も終わりだ。この1カ月間2日から6日まで練習を行ったのみで1月を終わる。今も肩の痛みのため某病院に来ている。長い間練習をやらなかったせいか、反射的動作が非常に遅い。瀬川君と7セットやったが2セットぐらいしか取れない。サービスも正確に出せない有様だ。世界選手権の前にこんな事では…。どうしてこのようになったのだろうか。矢張(やは)り自分の不注意から来た所が多い。肩の冷えからだと思う。このような自分を大変不甲斐(ふがい)ないと思う。この1カ月ほどスポーツマンとして身体がいかに大切であるかという事を痛感したことはない。今のところは肩を余り使わない下半身の運動をなるべく多くしているがもとの身体には直らない。頑張れ!』
 これは、以前学生選手権の前に痛めた肩を、正月の強化合宿中に冷やしたためにそれが悪化して肩が全然動かなくなった時のことだ。それ以後は、再発をおそれて肩は常時温めているものの練習量は、1日平均4~5時間と少なくなってしまった。そのため練習の方法も必然的に変わった。すなわち基礎練習を主体としていたそれまでの練習から、練習試合を主体とした練習へと変わって行き新しい技術(サービス、ループの対策法等)もその練習試合の中で体得するように努めた。人数が多いため、一度試合で負けると次の番まで相当の時間待たなければいけなかった。それ故真剣さは決して忘れなかった。

 課題はバックハンドとツッツキからの強打

 私が現在一番ほしいものは、全日本選手権の決勝へ進出してもまだまだ余裕のある体力である。それともう一つは、バックハンドである。バックハンドの練習をあまりにも行わなかったことが残念で仕方がない。今後、中国選手のような前陣速攻の選手に対してはフォアハンドのドライブ一本槍ではちょっと勝つのは無理ではないかと思う。
 私の練習に今後加味してゆくもの。それはバックハンドとショートカット(ツッツキ)からの確実なスマッシュをマスターすることだと思う。この2つが私の課題だと思う。中学高校生および自分自身にも望みたいことは、
 ①目標を高い所におくこと ②豊富な練習量 ③計画性のある練習 ④たえず反省をしながら進んで行くこと ⑤基礎体力の養成―以上のようなことを念頭において練習にはげんでもらいたいし、私自身もはげみたい。
 私たち日本の卓球人に課せられた課題は、世界の王座奪還(だっかん)である。みんなの力でこれを実現させたいものだと思う。

三木圭一
(全日本硬式選手権保持者・中大4年・21歳)

(1963年7月号掲載)

 

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