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わたしの練習⑤田舛彦介 独自のくふうに全力

 今の一流選手はもちろん苦労はあるが、いわば恵まれている人達だ。練習時間や環境などで比較にならぬ人達が大多数なのだから、そういう立場の人達の練習法が語られていい…といって私に書け、と編集者から註文がきた。現役じゃないし断るよ、とはいってみたが、昔のことながら私の場合は今でも多くの人に参考になりそうにも思えた。それで書いてみることにしました。

 指導者なしの練習

 山口県柳井町に生まれた私は、小学校6年生の時、近所の空地でオッサンたちの露天ピンポンに加わったのが卓球への病みつき。翌年柳井商業学校に入学と同時に卓球部へ。当時の県下中等学校大会で、柳商は優勝を争うグループにはあったが個人優勝したことはなかった。それでも私の入学した時の最上級生(5年生)は強くて歯がたたず、2台のコートのうち選手の仲間に加えてもらえず、其の他大勢が20人ぐらいでコートを争った。負けたら最後20人待たねばならぬ、という必死のゲームだけで毎日がつづけられた。2年生になってレギュラーへ加えてもらったが、その年の終わりには私は5年生に負けないようになった。
 当時の柳井町では柳井商業学校が一番強かった。したがって私は2年生の終わりには柳井一になったのである。しかし、柳井のレベルは中学校の大会ではまあ一流だったが、一般の大会へ出れば隣の岩国(帝人が強かった)や徳山(海軍燃料廠が強かった)、それに宇部、山口、下関、小野田等の実業界の人にとても歯が立たなかった。しかもその山口県の代表が全国大会へ出場すると1回戦で勝った人がなかった、という(もちろん隣県の広島、福岡より低水準だった)のだから、私は日本最低級の井の中の蛙だったわけだ。
 満14歳で柳井一になった私は対外試合が常に待ち遠しく、一般人の各種試合も進んで出たが、3年生で県下中等学校の団体と個人優勝、4年生で中国中等学校で個人優勝、5年生でやっと全県下の選手権をとった。そのころの技術は、まったく見よう見まねで、人のやっているいいフォームをなんでもやってみた。柳商に入るまでは2本がけ(ペンホルダーで人指し指と中指をラケットの表へ出す)でバックハンドを得意とするなんでも屋だったが、柳商へ入って正式なペンホルダーになった。からだは小さいし(今でも158センチ)この時代になんでも好きなようにやったことはよかったと思う。
 サービスはカット性が得意だったが、この時代はサービスを切ってはいけない、というルールだったので試合で何回もやり直しさせられて困ったことがある。柳商でレギュラーのドライブロングやカットというものを見て、そのすばらしさに目をみはり、何とかあんなキレイなプレーを、と一生懸命だった。2~3年生時代は上級生よりも強くなったのだから、技術的に学ぶことはなく、一時はカットとロング半々でつまらぬ時をすごした。この時期に一流のコーチを受けるか、強い相手にぶつかって、攻守いずれかをしっかり身につけたなら立派な選手になることも出来たと思う。
 4年生になった時、私を驚喜させる出来事が起こった。東京の大学(東洋大学主将)で活躍された斎藤博先生がわが校の国漢の先生として赴任(ふにん)されたのだ。初めて中央の技術にふれたのだ。夢ではないかと思うほどの喜び方はいいとして、毎日の授業時間でノートを開けば卓球台に見え、それに線をひっぱって斎藤先生を破る作戦の研究までやった。先生はフォアハンドドライブ主戦で、身をもって毎日1~2時間私のみを相手に練習して下さった。3カ月間は毎日キリキリ舞いにふりまわされ、練習も試合も段ちがいだったが、半年後には先生にも勝つようになった。

 相手を育てながら練習

 4年生の時から私は一段と卓球狂になったが、指導者は斎藤先生ただ一人、卓球の本は手に入らず、東京大阪で発行されていたパンフレットを入手しはじめたのも数年後だが、指導書もなかったことは痛かった。「卓球」という活字がちょっとでも新聞に出たら切りとってスクラップブックにはりつけるようになったのはそのころからで、今では100冊をこえようとしている。ともかく私は自分の力をのばすためにどうしたらよいのか、に日夜苦しむようになった。そして発見したことは、自分が強くなるためには練習相手を強くしなければならぬ、ということだった。
 同輩、後輩を育てなければならない、ということは自分のためだった。練習はほとんど学校でやるだけだが、3時すぎから5時半ごろまでの2時間余り、土曜は4時間、日曜は朝8時から12時までが平常練習だった。方法は軽いランニングと時たま4000メートルぐらい走るほかは卓球1本だった。フォアハンドの各コース打ちや、相手を動かす練習など1/3とって、多くの時間は試合練習にした。私が主将(5年生)をつとめるようになってからは練習をさらにはげしくしたが、私自身は後輩を指導する立場でもあり、練習をはじめたら終わるまでコートにつき、殆ど休まない主義をとった。だがその年(昭和12年)には日華戦争が勃発し、軍国調は日に増し濃くなった。戦前は各学校には配属将校がおり、学科の中に教練、武道が毎週数時間正科として課せられていたが、先生の中には軍国主義的な人がかなりいて、そういう人達からは「卓球なんか男のやる体育じゃない」という見方でみつめられていたのが一番つらかった。卓球部の練習場はしょっちゅうアチコチ変更された。武道場の片すみに1台とずっとはなれた所の廊下に1台となっていたものを、私が4年生の時に一つの教室をあてがってもらった。5年生で念願だった講堂をつかわさせて頂くことになった。神聖なる講堂で卓球なんかやるとは、とにらまれていたが斎藤先生(現在ご郷里埼玉県の大宮高卓球部顧問)の努力でやっと門戸が開いたのだ。われわれは喜びいさんで初めて3台をならべての練習になった。終わったら腰掛を元通りにならべて帰るのだが、夜間練習は絶対不可、毎日球が見えなくてカラブリするまでがんばり、たいていの日は日直の先生とか卓球のきらいな軍人あがりの事務室長あたりに「いつまでやっとるか!」とどなられて練習をやめるのだった。
 そんなわけで、卓球部は強くなっていったが、そのリーダーである私は教練とか武道の点はからくつけられた(と思っている)。通信簿には「操行(そうこう)」のらんがあって甲乙丙丁とあるが、悪いことはしないのに卒業直前までは乙だった。勉強の方は申し訳ないが熱心にやったとはいえない。まず数学がダメになり、ノートを開いたら卓球台に見えるようになってからは得意だった英語もダメになってきたが、これは英語の先生が卓球ぎらいだったせいが大きかった。家が商業を営んでおり、その手伝いもさせられる関係上、授業中だけは一生懸命に努力したつもりであり、成績は中くらいだった。

 一人練習に重点

 中学時代の私はこんな環境の中だから一貫した練習の指針なく、指導者のいわれること、人にきいたことを其の場そのばでとり入れてガムシャラ練習だったが、常に自己の全能力を練習にブチこんでやったことだけは立派なことだった、といえる。どうしてからだをきたえるべきか、選手生活の摂生はどう努力すべきか、なども真剣に考え実行したつもりだ。私が選手生活をつづけた30歳までタバコをすわなかったのもその一つだ。
 ガムシャラのほかに自慢のない練習法の中にただ一ついえることがある。それは練習相手なしでやれることはないか、と考えた末のことだが、サービスとフットワークだけは一人だけで練習ができそうだ。この2つだけでも日本一になりたい、と決心したことだ。相手が多数いたりすればコートを使うのはもったいない。サービスはだれもいない時か、家にかえってねる前にたたみの上で研究練習をした。フットワークは自分が休憩している時だがたいてい暗くなってから一人だけでやった。自分のゲームというものは、相手を攻撃型、守備型、中間型などに分けて、戦いの推移が予測できるし、自分の技術を生かす努力方向が考えてゆけるものだ。それを頭にえがきながら相手のサービスを受けるところから試合がはじまる。自分の仮想敵とするA選手とやったらこういう試合になる…それを追って敏速に動き、打ち、動く。そしてどうしてもうまくいかない動きをとくに、出してそれだけの動きを反復練習するのだ。これを30分もやったら、冬でも汗だくである。私の戦術は3年まではカットロング5分5分。5年になって全攻撃型選手、卒業後またカット主戦オールラウンドという経過だったが、これは自身いい経過とは思わない。自分であれこれまよったためだ。自分より強い選手がいてくれない。これくらい情けないことはない。強打1本で一流になろうとしてみたものの自分の強打を返してくれる人がいなければダメ。そして決心したものは何でも出来る選手、すぐれた部分品をたくさん持つ選手になろう。練習相手はオールロングでも、オールカットでも、オールショートでも戦ってみる。相手が下手ならオールバックハンドで一生懸命にやったこともある。一打でも、意義のある打球をし、誰とやっても相手を強くし、自分を強くしようと。

田舛彦介(たますひこすけ)
(元全日本硬式第2位・現タマス社長)

(1963年8月号掲載)

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