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わたしの練習⑥伊東隆弘 練習量不足をトレーニングでカバー

 なぜ速攻型シェークをやったか

 私が卓球に興味をもち始めたのは、小学校のとき、工作の時間に作ったラケットからです。中学に入学したときは卓球部はなく、初め剣道部に入った。その理由は私の祖父が藤堂藩の指南番で全国を武者修行して歩き、千葉周作とも手合いしており、この祖先の血の流れがあれば伸びるであろうと思ったからです。だが、中学時代の私は背が低く、よく後頭部をたたかれては毎日鼻血を出した。父母に「頭がわるくなる」といわれたので、剣道をやめ勉強にさしつかえない他のクラブを転々としているうちに、卓球部ができて一番に入部しました。中学2年の秋でありました。さっそく父につれられラケットを買ってもらったところ、それがバタフライの5枚合板のシェークで、表ソフト両面張り、目方は全部で50匁(188グラム)でした。現在もそれと同じです。
 これをもって練習していたところ、先生がラケットはどのようにもってもよいと申されたので、自己流でやっていました。当時は私の友人達は全部攻撃型のため、カットということは全然知りませんでした。
 中学3年の初め、卓球の試合など見たこともなかったのですが、四日市市で都市対抗の東海予選大会があったので、見に行きました。その大会の選手中には浜松の川合一男さんなどの有名人もおられましたが、四日市市チームが優勝しました。唯一のシェークハンド選手が四日市チームの井上さんでした。井上さんのプレーがいまの私のプレーと同じシェーク攻撃型でした。私は井上さんのプレーにまったく感心して自分のすすむ道はこれだと思いました。井上さんのプレーを頭にうかべ毎日猛練習を行ないました。
 3年生の秋に選手としてはじめて三重県大会に出場して、第2位となりました。そのときのうれしさは、たとえようもありませんでした。その準優勝が一層の猛練習をさせる原因となりました。
 四日市商業高校に入学した当時は卓球は三重県下最強の学校でありましたが、練習に参加してみて驚いたことには学校の強い選手はシェークでカット選手ばかり。その上矢田監督も初めて私のプレーを見て「シェークはカットをしなければ大選手になれない」と言われた。このときばかりは、ほんとにどうしたらよいか判らなかった。その翌日上級生の人から三重県男子のナンバーワンは小森さん(三重県庁)というシェークの攻撃型であるときかされたため、またシェークの攻撃型としてつづけて行くことに決心しました。高校時代の私は、ペンホルダーの選手と同じようにオールフォアでありまして、バックはまったくというほど打たなかった、いや打てなかった、いや打とうと練習もしなかったのです。(当時は名古屋電気高校の山本選手などを参考にしていた)このように私がシェークの攻撃型になったのは、カットを知らなかったことと、三重県にはシェークの攻撃選手が多くいたことが原因であると思います。

 一日2~3時間の練習、ランニングは毎日

 私は三重県四日市から名古屋の中京大まで電車とバスを利用して通学しています。往復所要時間5時間がとられますので、思うように練習できません。練習量は1日2~3時間ぐらいです。現在やっている練習の内容は大体次のとおりです。
 午前中は、体育館が体育学部の授業に使われるので、ほとんど使えない。卓球の規定練習は、午後3時間半からバスケット部と交代で、月、木、土曜は5時まで。火、水、金曜は7時までとなっています。練習時間が限られています。その上毎日練習をする部員は男子40人、女子10人となっていて使用する卓球台は5台です。練習前に全員体操の後、フットワーク(フォア、バック)1人20分ずつやります。1日20分のフットワークだけでその日の球を打つ練習は終わるのが常であります。このような理由のため、私は重点をランニングにおいています。朝、家でランニングをしなかった日は練習後走るようにし、絶対にランニングだけはやります。
 試合の始まる1週間前からは団体戦のレギュラー(校内リーグ戦で1部から9部まで分け、各部5人ずつ)の上位男子9人、女子9人で練習をします。その1週間を強化練習といいましてその間は体育館を半分借りて朝10時から練習を開始します。体操→フットワーク(フォア、バック)を20分→N式フットワーク→午後20分ゲーム(20分間に幾セットやってもよい)→総当たりリーグ戦(記録もとる)6時頃終了→以後は自由練習、の順です。私は毎日自由練習の時間を利用して3球目打ち、ツッツキ打ちを練習します。この3球目打ち、ツッツキ打ちは私の最大の得点源であるため、とくに重点をおいて練習をします。
 私の場合は球を打つ時間が少ないため、トレーニングを重要視しています。申すまでもなくトレーニングは卓球に勝つための体力をつける最上のものであります。体力がつくに従って耐久力も精神力も身についてきます。気力のモトは体力であります。体力ができるとむずかしいボールでもとびつくことができるが、それがとれると自身が湧き、そこで精神力は2倍にも3倍にもなります。ファイトをもたねばいかん、ハラをもたねばいかん、といわれると選手は頑張るが、体力のない選手はどうにもならない(勝てない)。私の場合、ランニングは少なくとも1日に7~10キロを精一杯の力で走り、多い日は耐久力をつけるために20~25キロをゆっくり走ります。またスピードをつけるために3日に1日ぐらい100メートルを全速力で5回ぐらい走ります。そのほかに試合が1カ月ぐらい後の時はサーキットトレーニングをやり(15日ぐらいつづけて)体力をつけるようにしています。腕力が弱いため、腕立てを1日50回ぐらいやっています。
 シェークの攻撃型である私が悩んだことは、インターハイ(全国高校選手権)の三重県予選では優勝できても全国大会ではいつも3回戦ぐらいで負けることでした。もう一つは、1人もシェークの攻撃選手がいなかったために、「シェークでは攻撃していてもだめなものかなあ」ということでした。私は1年から3年までインターハイに出場しましたが、出場するたびごとにこのことを悩み考えました。高校3年生のインターハイのあと、一枚ラバーに変えてカットをやろうとこころみたこともありましたが、いちど攻撃型になったためぜんぜんといってよいほどカットができず、攻撃型に逆もどりしました。
 こうなった以上は、ペンの有名選手のフォームなどを参考にして猛練習をやれば、きっといつかは目の出る時もあると信じて、練習に練習を重ねました。大学一年生の東日本学生選手権で幸運にも木村さん(早大)を破って3位になったときは、「シェークの攻撃型でよかったなあ」とつくづく思いました。やればやれるのだという自信もわき劣等感から開放されました。この試合以後、自信というものをもつことができました。

 3球目攻撃、左右の切りかえ等に重点

 中学、高校時代はほとんどバックハンドは使わなかったが、ただラケットに当てて返す程度でありました。バックハンドを使うようになったのは大学に入ってからです。5月に日大へ練習をさせてもらいにいったところ、外谷さんや佐光さんなどと対戦してみて、打たれた球が重くて早いのでこれではとてもオールフォアで回りきれないと思い、行きづまったような感じで中京大に帰り服部監督さんにも相談した結果、バックはハーフボレーで返す練習を猛烈にやりました。(シェークハンドはバックのハーフボレーはとくにやりよい。)2カ月で一応できるようになりました。しかしまだ試合などでミドルをせめられると、一瞬どちらでとろうかとまよっているうちにミスを繰り返す状態でありました。私のフォア、バックの切り替えに一番よい練習になったのはフォアで2本打ってはバックで1本打つ練習―これがよかったのだと今つくづく思っています。
 シェークハンドは手首がペンホルダーとくらべて固定されがちであるため、レシーブがしにくい(とくにフォアの小さいボール)ので、相手にとりにくいサービスをだしてもらって、これを打つ練習を特に他の人より多くしています。またフォア、バックの切り替えのためフォアで打ってはバックで打つのも他の人よりは多くしています。
 このほか、前にも述べたように特に3球目打ちは重点的に練習をします。

 今後の課題

 現在私はバックハンドをハーフボレーでかえすことはできるが、バックに浮いてきた球をバックハンドで強打できないため、強打できるようにしたい。それと、私のプレーはピッチは早いが球にスピードがないため、うしろで拾われた場合、普通の選手なら一発で打ち抜くところを3発~4発打って抜く有様であるから、まずスピードを増し、プレーに安定性をつけることであります。
 まだまだ技術が未熟ですので、猛練習をして頑張るつもりです。

伊東隆弘(いとうたかひろ)
(中京大学主将・全日本学生No.1)

(1963年9月号掲載)

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