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わたしの練習⑩藤井美枝子 守備範囲が広く切れるカットを目標に

 ◇姉さんの影響で最初からシェークのカット

 私の卓球歴は、山口県中学大会で10年連続優勝を成しとげた伝統ある大和中学校から始まっている。姉が卓球をしており、試合ごとに優勝し、うれしそうに帰ってくる様子を見て、小学6年頃から卓球にすごい憧(あこが)れを持ち始めた。しかも、その憧れは姉と同様カットに対する憧れであったから、ラケットを手にしたその瞬間からシェークしかやっていない。
(編集部注:藤井選手の姉の紀代子さんは、シェーク選手で柳井高校時代に全国高校選手権のシングルスに優勝している)
 私の中学時代は、田舎の学校であるだけに、中央の卓球については何もわからず、シェークは一般にどんなフォームを持っているかということも当然わからなかった。自然に上級生のフォームと同じものが出来上がっていった。手を思いきり伸ばし、その状態で円を描くような要領でカットしていた。だから、普通には下に切れるボールが横に切れてしまう。中学時代はそれでも十分通用した。20分フォア打ちをした後、すぐ試合練習で、基本練習など全くしなかったが、他の中学校とは違い10年連続優勝という伝統を持っていたし、近くに柳井高校、柳井商工などの強い高等学校があったから、それらを模範に正月と試験のとき以外はほとんど毎日練習をした。おかげで県下の諸大会では全部団体優勝をした。いま考えれば不思議な気がする。
 アチーブのために県大会が終わると、勉強一途に進んだ。そして夢にまで見た柳井高校に入学できたのだが、中学時代に基礎的な技術が全然身についていなかったこと、半年も卓球から遠ざかっていたこと、などのためボールに対する感が全くにぶっていた。なかなか元の調子にもどれなかった。
 けれども3年後に控えた国体のために、私も上級生達と一緒に練習させてもらえた。いくら練習しても上達の気配はこれっぽっちも見られず、つらかった。希望に大きく胸をふくらませて入学したのだが、同級生達があちこちで活躍しているのを耳にすると、全く自信をなくしてしまった。ある時は自分には卓球なんか向いていないのだろうか、今のうちにやめて勉強に全力をつくした方が良いのではなかろうかとも考えた。
 そんな苦しいどん底の下積み生活が一年あまり続いたある日、強化合宿が柳井市の体育館で開かれた。見込みのある者、見込みのない者に対して徹底した区別をする中村先生だが、たいした見込みのありそうでもない私にサジを投げられるでもなく、一生懸命に指導下さり、この時も特別に補助員くらいで参加させていただいた。リーグ戦をしたところ、思わぬ人に勝てたことから、少しずつ自信がついた。さらに高校入学後初めての正規の試合で、県下でもかなり上位にいた3年生に勝てたことから急激に卓球のヒントがつかめだした。誰にでもあるチャンスが、私の場合この合宿にあったわけである。

 ◇卓球日誌で研究しながら練習

 このころから、先生の命令で卓球日誌をつけるようになり、毎日毎日を研究の跡が見られる練習に持っていった。日誌にどんなことをメモしたかについて書いてみると…。カット打ちの上手な富重さん、名取さん、行田さん達に毎日鍛えてもらえるという恵まれた環境にいた私は思いきり羽根をのばし、自由な練習が出来たから、今日は徹底的にボールを拾ってやろう、次の日は思いきり切ってみよう、などと計画を立てその成果に対する反省をするようにした。あるいはカットをする時の重心のおき具合、サービス、レシーブなど技術的な詳細をメモしたり、時には部員全部にわたって一人一人の弱点と得意点を研究し、弱点を突いた試合、反対に得意なところへボールを持って行った時の試合などいろいろな行い、その反省なども書いた。
 成果はすぐには現れなかったが、試合をする際相手によってどのような作戦を取れば良いかが、漠然としてはいたが自分なりにわかるようになってきたことは大きな収穫だったように思う。
 練習も張合いがありすごく面白かったが、このころから自分の性格について非常な悩みを持ち始めていた。精神的なモロさが上達過程に当たって災いとなったからだ。自分が相手より優位にあれば良いが、負けそうになるとすぐ試合を捨ててしまう。いわば意志の弱い負けず嫌いと言えよう。卓球を始めて以来、常につきまとうこの問題を、このときほど痛切に感じたことはなかった。たとえ5本で負けていても最後まで頑張る人がたいそううらやましく思えた。こんな私をご指導下さった中村先生、橋本先生に感謝しないではいられない。
 3年になると、キャプテンの大役を受けもたされた。皆をリードして行く際に、いろいろな問題にぶつかり、なかなかうまく行かなかった。間もなくすると、練習場がなくなった。一時間あまりかかる東洋紡へ通って練習させてもらったり、市の体育館を借りたりで正味一時間半しかできない日が続いた。練習があまりにも平凡に見え、気ばかりあせり、飛躍的な考えが頭に浮かぶのみで、空虚な毎日を過した。大会を目前にそのような練習しかできない私達は、捨て鉢の気持ちがしょっちゅう起きた。中村先生に「それでキャプテンと言えるか!」とひどく叱(しか)られた。先生の気持ちが良くわかっていただけに、努力しない自分がはがゆくもあり、みじめでもあった。あたりまえに練習ができだしたのは8月の全国高校選手権の後である。この大会で完敗した私は、全く自信を失い「6年間卓球を続けていったい何の収穫があったのだろうか」などとしょっちゅう考えるようになっていた。
 そんなとき、先生の命令により「国体を目指して」と題された日記をつけることになった。その日から枝葉をたどっている自分を軌道にもどそうと必死で頑張った。なかでもフォアとバックのカット、カットと打ち込みの並行が保たれないことにすごく悩まされた。しかし2年生も一段とカット打ちが上手になり、多少練習が面白くなった。
 前後の動きとしてストップを混ぜて打ってもらい、左右のフットワーク練習にはショートあるいはロングで動かしてもらった。さらに、自分も相手を動かす練習にフォアとバックへ交互にボールを持っていった。ツッツキ合いでいかにチャンスボールを作るか、などにも重点をおいた。中途はんぱなカットだけに、どうしても打ち込みを混ぜないとカットだけでは試合で通用しない。そうすると打ち過ぎになってしまう。このように、カットが切れないこと、打ち過ぎであること、カットに自信がないことなど、問題が次々に続出し、苦しいけれど張合いのある毎日が続いた。

 ◇国体の優勝を機会に…

 第18回国体(昭和38年10月~11日)は地元であっただけに強化合宿や合同練習が再三再四行われた。私はあくまでカットに自信を持つことをモットーに合宿にのぞんだ。腕が伸びがちになるフォームを、ヒジを曲げてなるべく体の近くでカットするようにした。以前より多少安定感が見られるようになった。国体の1カ月ほど前から、練習時間は3時20分から7時までに延長された。しかし掃除やトレーニングをすると4時になり、3時間たらずの練習をフォアとバックのクロス打ちのほか、新しくツッツキ合いから打つ練習を加えた。相手の手元からボールが離れたら、すばやくフォアでまわりこんで一発で決める方法だから、早い動きとカンを要する(カンを養う練習にもなる)。命中率は3割ぐらいだが、試合に非常に役立ったので、この点を今後さらに研究してみたいと思っている。サービス、レシーブ、3球目の処理など基本的な練習を6時までやり、それから試合練習をした。トレーニングも平常の半分にへらし、スタミナも十分に貯えた。
 私達のトレーニングは、練習前に20分ほど柔軟体操、なわ飛び、フットワークなど主に筋肉をほぐす運動を行い、練習が終わって腕、足、腰、腹筋などを強くするトレーニングを10分ほどした。ビール瓶に砂を詰め、それを振って手首を強くする方法もやっている。
 国体の最後の総仕上げとして、10月23日から合宿を行った。全般的に皆の調子が良く、それだけに自分一人取り残されたような錯覚を起こした。あれだけ一生懸命練習しても強くなれない自分がはがゆくなり、コーチにきて下さった広瀬さんに指導してもらうとき、思わず泣いてしまった。
 以上のように、いろいろなことに悩まされただけに、予想もしなかった国体の優勝に不思議な感激を味わった。6年間を通じて中高校とも、伝統のある学校であったことが私に良い教訓を与えてくれたと思う。さらに大切なことは、試合の前に必ず日記をつけたことで、これがすごく勉強になった。
 国体の優勝を機会に「意志のあるところには必ず道がある」をモットーに、カットを十分に研究することが現在の私に課せられた使命だと考え、相手に壁のような感じを与え、良く切れるそして自信の持てるカットにするよう努力したいと思っている。

ふじい みえこ
山口県柳井高校3年。裏ソフトのシェークカットで、サービスや反撃がうまく勝負強い選手である。昭和38年2月アジア選手権少女団体優勝。夏の全国高校選手権では振るわずランク9位となったが、秋の国体では単複に全勝し山口優勝の原動力となった。

(1964年1月号掲載)

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