1. 卓球レポート Top
  2. その他
  3. 卓球レポートアーカイブ
  4. 「わたしの練習」
  5. わたしの練習⑬石井清彦 得意のドライブを生かして

わたしの練習⑬石井清彦 得意のドライブを生かして

 男子でしたら誰でも、小さい頃は野球選手にあこがれをもっていると思います。僕も野球が好きで、近所の小中学生と野球クラブを作って遊んだものでした。
 そんなとき、兄から「お前は体も小さいことだし、野球選手になっても先が見えているので、卓球をはじめてみたらどうだ」と言われ、なんとなくラケットをもつようになりました。

 ◇紅葉中時代に飯塚先生と朝7時から練習

 当時、小学校6年でしたので、台から頭が出るか出ないかだったと思います。その兄がレギュラーで頑張っておりましたので、試合のたびに応援に行き、強い人のフォームを見てはよくマネをしました。
 そんなわけで、小学校の頃でだいたいのフォームができたので、中学に進むとすぐ実戦に移れました。
 中学は都内でも名門に入る紅葉(こうよう)中学です。名門のおかげで強い先輩に教えてもらうことができ、いろいろな点で恵まれていました。が、それ以上に忘れてならないのは飯塚先生です。先生の家から学校まで1時間以上もかかるのに朝7時前には体育館にきて、僕たちと練習です。夏休みになると、先生のポケットマネーで静岡へ遠征したりしました。僕がここまでこられたのは、飯塚先生のおかげだと言っても、言いすぎではないと思います。
 その頃の練習を思い出すと、基礎練習などは全くしないで、実戦練習(ゲーム)のみで毎日をすごしていたように思います。

 ◇つらかった荒川土手のランニング

 そのため、高校に入ってからは、関商(関東商工)の伝統的な基礎練習の多い練習方法についていけず、苦しい毎日でした。関商の伝統的な練習法の一つに、放課後荒川の土手を約8,000㍍毎日欠かさずに走るトレーニングがあります。このトレーニングになれるだけでも、大変なことでした。そのほかに、一般的なトレーニングとして、うさぎ飛び、柔軟体操、腹筋運動などを一通りやります。それがすむと、実戦さながらの気合いの入った乱打、ゲームなどをします。
 1年の頃はこの練習方法がつらく、理由を作っては練習を休んだものでした。そんなことをしたためか、せっかく都の中学大会で優勝したにもかかわらず、同学年の水谷君(高輪高)、山之内君(中大杉並高)などに先を越されてしまい、一時は卓球がきらいになったこともありました。おまけに膝(ひざ)の関節炎をわずらってしまい、“泣きっつらに蜂”とは、このようなことを言うのでしょう。
 そうこうしているうちに、僕にも後輩ができるようになりました。2年になりますと、練習も自由にできるようになり、いままで学校だけでしか練習しなかったのがしぜんと卓球場へ出かけて練習するようになりました。卓球場へ行くようになりますと、どうしても、いろいろなタイプの選手と練習するので、いままでの型にはまった練習から一変しました。これが気分転換にもなって、かえってよかったように思います。

 ◇卓球場に通い実戦練習を重点に

 卓球場の練習は主に先輩たち(大学生)とします。卓球場のため、どうしてもゲームが主体となってしまいます。僕はドライブが主戦なので、特に、
・ドライブのタイミングをとる練習
・ショート(プッシュを含む)からフォアハンドの切り替えし
・ショートからバックハンドの攻撃
・中陣から両コーナーへスマッシュ
などに重点をおいて練習します。守備面では、
・切る球とナックル(無回転)をまぜたツッツキ
・ショート
・押されたときにある程度ねばれるロビング
などの練習が多い。

 ◇練習量は1日3~4時間

 練習時間はその日によってちがいますが、多くて4時間、ふつうで3時間程度です。基礎練習よりも実戦的な練習に重点をおきます。
 僕には特別なコーチはおりませんが、自分の練習相手、試合の相手などは、みんなコーチャーのつもりで学ぶところが多いと思っております。
 2年になって、自由に練習ができるようになったためか、しぜんに調子もよくなり、昭和37年3月国立競技場(千駄ヶ谷)で行われた都内の高校大会で2位に入りました。高校に入ってはじめて入賞したため、有頂天になったのも、このころでした。
 そんな矢先に、関東高校選手権の都予選が始まりました。自分では最高の調子だったにもかかわらず、3回戦で負けてしまいました。すっかり萎縮(いしゅく)してしまい、自分でもくやしいと思うより以上に、天狗になっていた自分が恥ずかしく、穴があったら入りたい気持ちでした。この敗戦は、僕にとっていい教訓でした。それからは、この精神面の弱さを克服するために、猛練習をはじめました。この結果、ある程度、精神面の弱さが解消されたように思います。
 どんなに強い人でも、一度はスランプというニガい経験を味わうと思いますが、僕の場合は高校1年の初めから2年の秋までの間でした。この期間は、苦しい思い出しかありませんが、いま振り返ってみて、この経験がいかに重要であったかは言うまでもありません。

 ◇正月の高校合宿で学んだ練習法をとり入れて

 今後さらに選手生活をつづけていく自分にとって、今年の正月におこなわれた強化合宿での成果は、精神的にも技術的にも、非常に大きな意義があったと考えます。合宿から帰ってからは、練習でも試合でも、自分の実力がいつでも大差なくスムーズに出せ、ある程度余裕をもってプレーできるようになったことは、自分にとって一大転期になったものと考えます。
 また合宿では、自分にあった練習を身につけたことですし、ベストコンディションで試合できる余裕もある程度出てきたように思います。この練習法を一時的なものと考えないで、僕のこれからの練習法として、また関商の先輩として、後輩にこの練習法をとり入れた練習が伝統の一つとなるよう残していければ、幸いと思っております。
 今後の課題としては、ドライブのみに頼らず、それを主力武器としたオールラウンド・プレーができるようになりたいと思っております。誰にでも自信のある武器が一つはあると思いますが、僕の場合はドライブ・ボールがそれです。ドライブ・ボールがきまったときには、結果からみて勝てたことになるわけですが、それのみに頼りすぎて、主力武器が主力武器でなくなったときは、苦しい試合になります。ですから武器は武器として、ショート、レシーブ、サービスなどを十分に自分のものにして、より以上に余裕がもてるプレーができるよう心がけ、練習にはげみたいと思っております。大きな夢をもって一歩一歩前進し、たとえ夢が夢で終わったとしても悔いの残らぬよう、頑張りたいと思います。
 大学に入れば、強い選手が多勢いますから、とてもいままでのようにはいかず、“出ると負け”の連続になると思います。そのときは、いままでのことをふりかえってファイトでぶつかってゆこうと思っております。
「熱意なくして成しとげられた偉業は、いまだかつて一つもない」ということを頭に入れながら…。

いしい きよひこ
昭和38年度全日本硬式選手権ジュニア1位、全国高校選手権2位、関東高校選手権1位、関東商工(東京)を3月に卒業し、4月から国学院大へ。左腕、裏ソフト、ペンホルダーのドライブ型攻撃選手。ショートやバックハンドもうまい。

(1964年4月号掲載)

\この記事をシェアする/

Rankingランキング

■その他の人気記事

NEW ARTICLE新着記事

■その他の新着記事