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「世界一への道」松崎キミ代 ―史上最強と呼ばれた攻撃選手2―

 松崎キミ代は1957年(昭和32年)に東京・専修大学に入学した。しかし、入学までの道のりは平坦なものではなかった。今月号では、松崎が専修大学に入学する前のエピソードから入学後、わずか9カ月で全日本学生チャンピオンになるまでを紹介する。
 家業の酒店を継ぐはずだった
 松崎キミ代が憧れの専修大学に入学するまでには大きな壁が立ちはだかっていた。現在なら、自分の子が卓球が好きで、その上本人が大学へ行って自分を試したいと言ったら、反対する親はあまりいないだろう。しかし、松崎の両親はそれを頑として許さなかった。松崎は6人姉妹の長女である。小学校の時からご飯作り、掃除、洗濯、店番、酒の配達と、両親を手伝っていた。
 素直で明るくて客や近所の人達の評判もよく、酒屋の看板娘と言われていた。両親にとっては頼りになる跡取り娘のはずであった。その娘があろうことか大学へ、それも遠い東京の大学へ行かせてほしいという。
 両親は片腕をもぎ取られる思いだったに違いない。松崎は自分の置かれている立場は十分わかっていた。しかし、高校時代から次第にふくらませていた夢をなんとしても捨てたくない、と心に決めていた。
 不可能を可能にした作戦
 両親の機嫌のいい時を見計らって、「行かせて専修大学!お願いっ」と何度かねだってみた。最初のうちは鼻で笑っていたが、そのうちにかんしゃく玉が破裂したように怒鳴った。「何を寝ぼけたことを言うとんじゃ。いかんものはいかん」「女が大学へ行ってどうするんじゃ」。うちには学士はいらん、という訳だ。松崎は困り果てた。どうすればいいんだろう、考えあぐねた。先生に頼んで説得してもらう?そんな、父からあとあとまで怨(うら)まれるかもしれない貧乏くじなど誰にもひかせられない。
 思い付いたのが、朝登校前の、山へのランニングである。
 家から1㎞のところに、高瀬富士と呼ばれたとかみ山がある。海抜は250mくらいとさほど高くはない。それでも頂上まで登って走って返ると30分かかる。インターハイで2位になれて、一時の気まぐれで軽い気持ちで頼んでいるのではないことを全身全霊で示さなければ、と考えたのだ。同時に足腰の鍛錬にもなると。
 松崎は黙々と続けた。雨の朝も、冬の寒風の吹き荒れる朝も...。
 入学願書の締め切りが迫ってハラハラしている時になってようやく父親が折れたのである。この時の嬉しさは何にもたとえようがなかった。子供がたくさんいて経済状態にゆとりなどなく、その上長女という働き手を欠くことになってしまう両親...。松崎は心の底から感謝した。
 この時の父親の「おまえにゃかなわんワ、専修大学へ行け」という一言が松崎のその後の人生を大きく変えるのである。
 道場の中にお手本がいっぱい
 専修大学を選んだのは、関東の名門校であり、男子も女子もスケールの大きな攻撃選手が数多くいたからである。卒業した大先輩の中には日本が大活躍したロンドンでの世界選手権大会の代表選手8人のうち3人が入っていた。川井一男、富田芳雄、渡辺妃生子。
 現役の中にも、世界チャンピオンの荻村、田中を破った経験を持つキャプテンの甘竹、野平(明)、津野、星野、バックハンドの上手な大村など。女子は日本女子卓球界を背負いはじめていた設楽...。
 松崎は、このように豪華な上級生たちの技術を自分に一つひとつ取り入れて総合すれば、理想の卓球ができるだろうなア、と想像した。
 なんとしても強くならなければ。
「やっぱりいかんかったワ」とすごすごふるさと高瀬へ帰るわけにはいかない。練習や生活の面でどんなに苦しくても打ちのめされても我慢する覚悟だった。
 魔のフットワーク
 専修大学の合宿は「予想していたが、やはり厳しかった」と松崎は当時を振り返る。初めのころは気絶するほど苦しかった。フットワークの時は男子に混じって行うこともあった。
「その一番最初のフットワークは忘れられません。2年先輩の津野さんとの組み合わせになりました。津野さんは野平(明)さんと組んで全日本男子ダブルスチャンピオンです。恐れ多いほどの緊張感で台につきました。サウスポーから打たれる津野さんのフォアハンドはスピードを押さえていても右利きとは違って私のフォア側に少し流れてくるんです。バック側へは私の体の方へくい込んでくるんです。1人30分、15分で返球コースを変えるのですが、3分たったところでもう息切れがして苦しくて腕や足に鳥肌がたっているのが見えました。ラリーは続かないんです。3本目か4本目には間に合わなくなってしまう。なんとかそうならないように厳しく打ったりするのですが、そこは名手津野さんのことですからビクともしないで回してきます。苦し紛れに打つからミスも続出するわけです。後ろのほうから上級生に怒鳴られるんです。頭では頑張らなくては、とかけ声はかけても体が動いてくれません。
 口でハアハア息をするので気管がゼーゼーヒーヒー音をたてるのです。心臓はますます破れそうに痛み、頭もガンガン痛みはじめましたが、ちょっと一息入れようとすると、後ろの方から『コラーッ、松崎は何をもたもたしてるんだ、バカヤロー』と大きな声が飛んでくるんです。
 30分はとても長く感じ、終わった時はフラフラだったのですが、休むわけにはいきません。今度は津野さんを動かす番です。相手は何といっても男子の日本のトップクラスの選手であり、上級生です。私が相手なために津野さんの練習の質が落ちては申し訳ない。しっかりコーナーとコーナーへ打ち分けなくては、と思いました。少しでもコースが甘くなったら相手は小さな動きですむことになり、こんなことは失礼なんだ、と思いました。でも、なかなか狙ったところにいかない。それでも津野さんは正確に動いて打ってきて、凄いものだなア、と驚きながら打ち分けることに集中しました。津野さんがだんだん疲れてきて私への返球がぐいぐいと威力を加えてきます。私のミスを誘うか、コースを甘くさせるためなのでしょう。津野さんとしては面子(めんつ)にかけても私に、もっと小さく回せ、とは言えなかったんでしょう。時々、動ききれなくなって体勢がくずれると苦笑いの表情が見えました。そこへ『津野ファイトだ』と大きな声が飛んでいました。私はミスをすると身が縮むほど恐縮しました。重いボールを、狙ったところへ打ち返すことの難しさを入部早々身をもって知らされました」と松崎は当時について語っている。
 卓球は激しくて速い、だから最も厳しいトレーニングをしよう
 合宿練習はトレーニング1時間、ボールを打っての練習7時間とハードなもので、このフットワークが午前と午後に組み込まれていた。松崎は3日目に発熱してダウンしてしまった。
 現代の卓球では規則的なフットワーク練習は、やってもあまり意味ない、という話を聞く。これは質の問題ではないだろうか。動ける範囲にボールを回しても、初心者以外には効果がないだろう。生きたボールで、動ける範囲を超えたところに回す。それをどのように素早く動かなければならないか、どういうボールでどこに狙うのが得策か、が養われるのだ。バック側にきたボールに対してボディーワークを使って打つ工夫もする。
 津野、松崎の2人がフットワーク練習をする光景を思い描くと、ラリーはそんなに続かない。そして力の差もあったろうが、お互いに大きく動き動かされ、そこには火花を散らすような真剣さ、激しさが満ちている。
 松崎はこの基本的な実戦練習、実戦的な基本練習ともいえる魔のフットワークを重ねることによって多くのことを身につけていった。もちろん、素早い足の動き、下半身のバネ、持久力、呼吸法など...。
 体勢をくずさずに素早く動いてブレーキをかけて逆の方向へ動き出す、そして同時に打球するという瞬時の中でのいくつもの動作。これを繰り返す卓球の、あらゆるスポーツの中で最も激しくて難しくて体力を消耗する特性を、松崎はしっかりと理解した。
 それを高めるために暇をつくってはうさぎ跳びに挑んだ。松崎は「笑われるかもしれないし、ひんしゅくを買うかもしれませんが、私の下半身はうさぎ跳びとランニング、特にうさぎ跳びが強くしてくれたと思います。ただ跳ぶだけでなく、前後左右、斜めと、痛いけどこのひと跳びひと跳びを卓球の動きのなかに生かそう、と一生懸命でした」
 心臓肥大と不整脈を乗り越えて
 松崎は他の選手があの苦しいフットワークの間、自分ほど苦しそうにしていないのが不思議だった。自分は顔や唇がすぐ青くなって苦しい。同級生たちが心配してくれる。不安になって病院に行った。医師から「心臓肥大、不整脈がある。病気ではないが、あまり激しい運動はしないほうがよい」と告げられる。しかし、ああそうですか、とフットワークの時間を短縮させる松崎ではなかった。
 そこで、フットワークの時に、呼吸のしかたに問題があるのではないかと考えた。
 案の定、打球の時に息を吐く、動く時に息を吸う、という規則的な呼吸をしていなかった。これでは苦しくなるはずだ。この呼吸のしかたを覚えてから、フットワークの苦しさが少しずつ改善された。
 心臓肥大と不整脈という心配を、視点を変えて乗り越え、フットワークのコツまでつかんでしまう。さらにスポーツ選手に必要な強靭(きょうじん)な心臓をつくりあげようと自分から負荷をかける。このように、何からでも卓球に生かそうと工夫をし高めていく。これが松崎の凄さなのである。
 上京9カ月で全日本学生チャンピオンに
 香川県の片田舎から大志を抱いて専修大学卓球部に入った松崎の目は大きく開かれた。そして血となり肉となるように吸収され、卓球の面でも人間的にも成長していった。
 10月の東日本学生選手権で慶応大学の井手に2-2の最終ゲーム、18-20から逆転勝ち、優勝。全日本選手権では、ランク決定戦でベテランの田坂の技巧に完敗して意気消沈。ところが、その2週間後の全日本学生選手権で、2週間前に日本一になったばかりの山泉和子を徹底的に攻めきって完勝、学生日本一になった。
 親元を離れてからちょうど9カ月がたっていた。高校を卒業するまで本格的なフットワークもやったことがなかった、と恥かしそうにいう松崎が長足の進歩をとげている原因―それは卓球への情熱、意識の高さ、挑戦する気迫など、どれも並はずれていたのだと納得させられる。それは、一つ先輩である星野展弥の話の中でも知ることができた。「松崎は、入学当初は自分とフォアクロスの打ち合いをしてもボールがミドルに入ったりとコースが定まらなかったし、フォームも直すべきところがたくさんあった。しかし、彼女はそうした欠点を直すのに時間はかからなかった。それだけ努力していたからね」と、松崎が全日本学生チャンピオンになって当然という如く述べていた。
 「私は、松崎キミ代が世界をとることを確信していた」(星野展弥・談)
 松崎キミ代は、私が大学2年生のときに入学してきた一つ下の後輩でした。第一印象はとにかく底抜けに明るい子だということ。新入生の挨拶の時、通常は名前と出身校を名乗って歌を歌うのですが、松崎は何を思ったのか名前を言う前に歌をうたったんです。これにはみんな笑いました。
 彼女のエピソードは事欠きませんが、なかでも意外にも卓球部で野球大会をしたときのことが印象的でした。その大会で松崎は自ら「3塁を守らせてください」と言うので守らせてみたのですが、飛んできたボールをつかんで投げる、その投げ方が他の女性とまったく違ったので大変驚きました。肩が強く、松崎の運動能力の高さを垣間見ました。
 松崎とはよく練習しました。初めて私のボールを打った時には、松崎は私の曲がって伸びるボールに押され、私のミドルあたりに打つのがやっとでしたので、「マツ、どこに打っているんだ」と言っていたものです。しかし、私のボールにもすぐになれてしまいましたが...。
 私との練習では、私が様々な球質、打球点を変えて返球するので、松崎は女性とする5倍以上もの球数を連続攻撃しなければボールを決めることができませんでした。これは松崎にとってよい練習になったはずです。
 松崎は誰よりも熱心に練習し、試合においても心技体すべてに優れていました。試合でどんな状況におかれても動じることもない、「心」の技術ももち合わせていたのです。彼女が1年の全日本学生選手権で山泉和子(現姓 伊藤和子)選手を破ったときに、私は「松崎は世界をとる」と確信しました。それほど、インパクトのある選手だったのです。私も長年卓球指導を続けていますが、松崎キミ代ほどの偉大な選手は後にも先にも出てこないでしょう。


(2000年7月号掲載)

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