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「世界一への道」松崎キミ代 ―史上最強と呼ばれた攻撃選手3―

 二つの戒め
『良薬は口に苦し』ということわざがある。松崎はこれを身をもって体験する。
 東京選手権大会で高1少女に敗れる
 大学1年で全日本選手権をとって前途が明るく感じられたわずか3カ月後、東京選手権大会で決勝までいったが敗れてしまった。相手というのが、なんと高校1年の可愛らしい少女。表ソフトの速攻に振り回されたのである。この大会で、学生のトップクラス、実業団のテクニシャンたちが枕を並べてこの少女の前に沈んでしまった。松崎は、大学卓球界の面目にかけて負けられないと思ったのだが。
 試合が始まった。彼女はスピードはさほどないが、決して台から下がらず、ゴムまりのように動いて相手のスピードを利用してトップ打ち、または浅いボールはバウンドの頂点を打ってくる。ショートもうまい。レシーブからでも思いっ切り払ってくる。レシーブがちょっとでも浮こうものなら左右に打ち込んでくる。それに対し、松崎はほとんどフォアハンド。相手のフォア側へ深くコースをついて体勢を崩させ、彼女を台から離そうとするが、ピッチの速さやショートで大きく動かされ、松崎の方が台から下げられる始末。いつもの粘りがきかず、高校1年の無名の少女に優勝をさらわれてしまった。
―この少女が、6年後に世界選手権(プラハ)で松崎とともに日本代表として団体戦連続優勝に貢献し、松崎と組んでダブルスにも優勝した、関正子である。
 自分の技術がまだまだだと思い知らされると同時に、「このときの特に『苦い薬』とは、試合中の失態にあった」と松崎は当時について話す。
「1ゲーム目、19-19となってこの試合の大きな分かれ目だと思い、流れを自分の方に変えたいと、お尻を床に下ろしてしゃがみ込んだのです。なりふりかまわずですが、これがバッドマナーであることは知るよしもなかったんです。中学時代、高校時代も、試合中はほんとうに苦しい場面では、先生も応援の人も両手を前に伸ばして、押さえつけるような大きなゼスチャーで『しゃがめ、しゃがめ!』と合図したものでした。しかし、この試合は東京選手権の決勝戦なのです。ほかの台は片づけられ、たった一台、フェンスで囲まれ、大勢の人が注視していました。閉会式があるため、東京卓球連盟の役員や幹部のお歴々がずらりと並んでいたんです。その人たちの様子が変わったのを感じました。怒ったような顔、不愉快そうな顔、失笑しているような顔も見えました。審判長が主審のところへ来て何かアピールしているので、私は(あ、いけないのかな...)と思い、立ち上がって試合を続けました。そのまま19本で落としました。やはり、山だったのです」と、松崎は当時を振り返る。
 「松崎はコートマナーが悪い」
「その試合から1カ月ほどたって、雑誌『卓球マンスリー』にその戦評が載っていて、私は釘(くぎ)付けになりました。『松崎はコートマナーが悪い。試合中に座りこんで休憩するなどもってのほか。将来有望な選手だけに自重を望む...』。
 この個所が、胸に突き刺さりました。自分は中央の卓球界に出てきて1年もたつのに、まだ田舎の前時代的なマナーをそのまま引きずっていたのだと知りました。それに対し、日本の中央の卓球界は昭和27年のボンベイから始まって、世界選手権に選手を派遣し、立派な成績を収め、昭和31年には東京での世界選手権大会を開き運営しました。すでに国際感覚とそれにふさわしいマナーが常識になっていたのです」
 そういえば、高校1年のとき初めて見た全日本選手権大会で、ロンドン大会の代表選手たちの爽(さわ)やかなマナーに松崎は感動したのだった。松崎は先輩にあたる川井や富田が大切な試合で敗れた瞬間、ボールを拾うよりも真っ先に相手のところへ駆けて行き、しっかりと握手する紳士的な態度を目の当たりにして、いつか自分も試合が終わった瞬間に、あのように締めくくれる選手になれたらいいなと、ほのかな思いを抱いていたという。
 松崎は元来、ルールはしっかり守る性格だ。自分に不利な判定をされた場合でも、寛容の精神を持っている。だが、知らないということはほんとうに怖いということを痛感し、今後は誰よりも強い選手になろう、そして誰よりもマナーのよい選手になろうと、心に誓った。この『苦い薬―戒め』を受けたことが、のちの世界の舞台で大きくものをいうことになるのである。
 松崎は逆転勝ちが多い。これは生まれつき持っている負けず嫌いで粘り強い性格だからだろうか。それももちろんあるだろうが、こんなエピソードがあるので紹介しよう。
 「なんぼ勝っとっても、負けは負け」
 卓球を始めたころは、よく逆点負けをしていたという。中学時代、そして高校に入ってからも県大会などで負けて帰るたびに、母親に「どうやった?」と聞かれて、「決勝で負けた。ほんでも、勝っとったんで。先に20本取ったのにジュースにされてやられてしもた」と、悔しさもあらわに家族に話した。全く歯が立たずに負けたよりも安心するだろうという思いもあってだ。事実、最初のころは、「ふーん、よう頑張ったんやナ」とニコニコしながら聞いてくれていたのだ。
 そして、高校2年のインターハイ。ひそかに期するものがあったのに、ランク決定戦で敗れてしまった。札幌まではるばる3日間汽車と連絡船を乗り継いで遠征したにもかかわらず、1年のときの成績に届かなかった。帰り着いた松崎は、「3ゲーム目リードしとったのになア...」と、しゃべり出した途端、母親が「お前のその言いぐさ、耳にタコができるほど聞き飽きたワ。なんぼ勝っとっても負けは負けや」とピシャリとさえぎった。松崎はハッとした。「言い訳に聞こえたのか...。自分自身でも逆転負けは本当に悔しい。あそこでどうして凡ミスをしてしまったんだろう。もっと積極的に攻めなければならなかった」と、後悔ばかりする。松崎は、この後悔することがとても嫌だったのである。そこへ、母親の、一切甘えを許さない突き放した戒めだ。ズシーンとこたえた。
「ほんと、『負けは負け』だ。よーし、これからは敗戦の報告をしなくてすむ、勝つ選手になろう!どんなに負けていても、最後には勝つ試合をするんだ」と、松崎は深く肝に銘じたというのである。
 多かった逆転勝利
 確かに松崎は選手生活の要所要所の大切な試合を、逆転勝ちでのし上がっている。
 高校1年のインターハイで、選手としてはまだ駆け出しのときに第3シードだった東京の木実谷をゲームオール18-20からひっくり返して14位に入った。高校3年のインターハイ、大学進学をかけた準決勝、広島の村上にゲームオール16-19から5本連続ポイントした。
 大学1年の東日本選手権大会の準決勝では、慶応大学の井手に5ゲーム目18-20から4本連続ポイント。このときは一進一退で40分以上も戦ってきて、マッチポイントを先に取られてしまった。「もうダメか」と、松崎も一瞬観念した。しかし、すぐ打ち消して相手の心理を読みながら、気持ちを積極的に盛り上げていった...。
 土壇場で気持ちが座る
「大丈夫、大丈夫。思い切っていくぞ、これからが勝負なんだぞ。後悔しないようにいくぞ」。それまでの、慎重でもうひとつ思い切りの足りなかった松崎が、もうあとがない土壇場になってスーッと気持ちが座るというか、いわゆる開き直ったのである。俄然、ミスを怖がらなくなり、打球に鋭さが加わったのである。
 19-20とし、フォア前に出された斜め下回転サービスを、迷わずスナップをきかせて思い切りフォアに払う。ノータッチでサイドを切って抜けていく。20-20とし、一気呵成に攻めてアッと言う間の逆転勝利だった。しかし、どうしてもっと早い段階でその思い切りのよさが出ないんだ、と松崎は反省する。
 その次の大逆転は、大学2年生のときの全日本選手権大会であった。この年は、翌年開かれる世界選手権の代表選考がかかっていた。
 この当時は、江口、渡辺、大川、田中良といったスター選手、それ以外にも大学や実業団の強い選手、難波、山泉、亀井、設楽など強い選手がひしめいていた。
 こんな強い人たちに打ち勝って上がっていくのは至難のことのように思えた。
 松崎は日夜猛練習の限界に挑んだ。今年ダメでも次回の世界選手権を狙うときは大学4年生であり、チャンスはもう一度あるわけだが、そんな気持ちでは二度とも代表にはなれない。今年しかないんだ。大学2年の心技体すべてに進歩があったかどうか試されるのだ。松崎は自分を追い込んだ。ところが、こんな大事な大会であるのに、またもや崖っぷちに追い詰められた。その試合とは、ランク決定の対中島戦である。中島は松崎より2年上、丸亀インターハイで3位、前年の全日本選手権で世界チャンピオンになった江口にロング戦で打ち勝った実力の持ち主である。全日本選手権の組み合わせを見たときに、1年前の、中島の対江口戦を見た先輩の何人かが、「松崎、おまえが世界で通用するかどうかを試すために中島のブロックに入っているんだから、頑張らなくちゃ」と言った。
 裏ソフト、両ハンド攻撃、女子には珍しいほどどちらからも思いドライブが伸びてくる。穴が見えない...。
 非常な緊張のなか、松崎は相手のペースにはまったまま1ゲーム目を落とす。「もっとミドルを有効に攻めなくては。バックに来るボールに対してはもっとショートを使おう」。中島は一気に勝負に出てこようとしたのか、打ち急ぎらしいミスにも助けられて、松崎は2ゲーム目を取り返す。最後の3ゲーム目は、再び押され気味に進み、重圧感にとりつかれて打つボールがなかなか決まらない。中島の両ハンドからの重いボールに次第に崖っぷちに追い詰められる。14-17、15-19、16-19となってサービスは松崎にまわったが、17-20とマッチポイントを取られてしまった。この瞬間、中島はホッとしたような表情をし、すぐ『ここで締まらなければ』という厳しい表情に変わった。松崎は「うーん、だめか...」とちらっと頭をよぎったが、気を取り直した。『さあ、これからだ!』と心の中でつぶやき、自分でそれにうなずいた。
「こうなったらもう硬くなって打つ必要はない。入るかな、と不安な気持ちで打つこともない。このボールが入らなければあとが苦しくなるなどと考えることもない。もう自分には1本も後がないのだから...」。松崎は初めて雑念がとれて、肩の力が抜けた。
 ここではとにかくレシーブから相手にいきなり強打されないようなサービスを出さなければいけない。そして、3球目からどんどん攻めていくんだ。バックハンドから横回転サービスを出そう。あまりコーナーを狙わなくていい、要はバウンドを低くすることだ。相手は慎重にフォアに返してきた。サービスは成功だ。足をしっかり運び、できるだけ高い打点をとらえてよく見て打つ、バックへ。もう1本もっと強くバックへ。よし、相手のミスだ!
 2本連取して19-20まで挽回(ばんかい)した。「その調子、積極的にいくぞ。後悔しないぞ」
 カットサービスを出すモーションからバックへロングサービスを出し、ショート対ショートの応酬からロング戦になる。不思議なくらい勝負を超越した真っ白な気持ちでボールに向かっていく。打ち勝った。20-20にこぎつけた。胸がキューッと痛くなる。ヨーシと飛び上がる。まだ、崖の上に踏みとどまっているのだ。「さあ、試合はこれからだ。今のように思い切ってぶつかるんだ。消極的になるな」。中島のサービスに変わる。また打ち合いになった。中島の5球目の伸びのあるボールが松崎のバックに深く入ってくる。左足をふんばって上体を思い切りそらして、ラケットを右脇に当てるようにして角度をつくる。「みぞおち辺りをかすりそう」と思った次の瞬間、構えていたラケットに当たり、ボールはまずまずのコースへ返っていった。そのあと、2本3本とラリーが続き、中島の方がミスをした。「よし!大きな1本だ」。ボディワークがきいた。松崎は努めて平静を装った。「まだまだ勝てるなんて思ったらダメだぞ」と言い聞かせる。
 しかし、またとないチャンスをつかんでいるのである。ここで松崎は勝負に出ようと思った。ほとんど間をおかずにバックハンドで相手のフォア前に小さくほとんど無回転サービスを出した。中島は明らかに動揺し、硬くなってレシーブしてきた。バックへスーッときたボールはわずかにサイドアウトした。フォアに払われるかもしれないと警戒していたが、最後はあっけなく終わった。終わった瞬間の松崎は、全身に鳥肌が立ち、心臓が早鐘のように打った。「よかった、ここで負けていれば、今までの努力が報われなかったんだもの」「こんな苦しい試合を乗り切ると、もうどんな相手も怖くない、どんな状況になっても怖くない、と思うものですよね。すっかり調子の波に乗りました。ランクに入ってからあとの試合は、決勝まですべて思う存分のびのびと打っていくことができました。決勝で、憧れ続けていた江口選手を破って初優勝ができたことも心底嬉しかったです。でも、その日の夜はほとんど眠れませんでした。中島さんに17-20からよくひっくり返せたなア。エッジやネットインが入っていたら...。3ゲーム目21-20と初めて自分にチャンスが来たときのあのサービス...。何気ないフォア前へのサービスがもしネットインでやり直しだったら、同じサービスを同じタイミングで出すわけにはいかなかっただろう、そうしたどんなサービスを出しただろうか...。そんなことが繰り返し繰り返し浮かんできて、そのたびに心臓がキューン、ドキドキ、大息をついて寝返りを打っていました。
また、過ぎ去った過去のことが走馬灯のようにめぐりました。父はなかなか大学進学を許してくれなかったなあ、頑固な人だよ...。あの頑固な人と闘って、毎朝とかみ山へ登ったなア...。そういえば、中学1年のとき卓球にとりつかれて、練習したいのにさせてくれず、卓球がそんなにしたいのなら出ていけ!と家の外に小突き出されたっけ...。
一計を案じ、誕生日のプレゼント何もいらんから1日卓球やらせて!と頼み込んだこともあったが、あれは子供ながらにいい考えだったなア。あの日の幸せだったこと...。それから母の、なんぼ勝っとっても負けは負けや!という言葉も、あれはきつい言葉やったけど、ずーっと私の心のなかにあるなア...、今ごろ両親も喜んでいるだろうなア...、などと」
 危機をチャンスに変えた勝負師・松崎
 母のこの言葉は、裏を返せば、「なんぼ負けとっても勝ちは勝ちや」ということになる。勝負師と呼ばれる選手たちは、どんな苦しいカウントであっても、ラリーのなかのどんな状況でも全く動じない。そしてあっと驚くような大胆さで勝利をもぎ取っていく。それが生半可な練習や頭で考えただけでできるものではないことを、松崎は体中で知っている。
 松崎自身、その背景からして、大学に進んだときからずーっと崖っぷちに立っている状態で練習に立ち向かっていたのだろう。強くならなければ家に帰れないと...。それでいて明るく、心底から卓球が楽しくて仕方がないのである。
 これらのことが、もうダメかと覚悟するほどの苦境に立たされてもスパッと開き直れる要因をなしているのではないだろうか。
 それにしても、中島戦の逆転勝ちはその後の松崎の卓球人生を決めた貴重な勝利だった。これがもし敗れていれば、当然のことながら、ランクに入れない。初優勝もない。したがって、世界の代表にも選ばれない。全日本から3カ月余り後の世界選手権初優勝もない。
 たった1本、中島が最後のとどめを刺せなかったために、松崎の方はこれらすべてを自分のものにすることができた。夢をかなえることができたのである。


(2000年8月号掲載)

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