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「世界一への道」松崎キミ代 ―史上最強と呼ばれた攻撃選手5

中国観衆をも魅了した松崎のプレー
-第26回世界選手権大会(北京)-
 
松崎の2度目となる世界選手権大会は、反日感情が渦巻く中国・北京で行われた。団体戦決勝は、男女とも日本対開催国である中国。国を挙げての強化対策で急激に力をつけた中国を相手に、松崎は日本の大黒柱としての大役を見事努める。
反日感情の中での戦い
 第26回世界選手権大会(北京)は1961年3月下旬に開かれた。男子代表は荻村、星野、村上(輝)、渋谷、木村、三木、女子は岡田(旧姓大川。1957年世界チャンピオン)、伊藤、関、そして松崎であった。
 国を挙げての、いわば社会主義の威信をかけたこの世界選手権大会だった。また、反日感情のあらわな観客の前で戦わねばならなかった。
 団体戦決勝は、男女とも日本対中国の対決となった。同時開始とあって、この時の会場内は異様な熱気に包まれていた。世界に君臨していた卓球日本を打ち負かす期待、そして侵略を受けた憎しみ、中国を正式な国家と認めない日本政府への苛立ち...。中国の人々はこうした感情でいっぱいだったのだ。
 松崎はトップに起用され、孫梅英と対戦することになった。中国はベテランの32歳孫梅英と24歳の邱鐘恵、最も大切な決戦に経験豊富な2人を起用してきた。日本は松崎と伊藤で立ち向かうことになる。一方男子はというと、ベテランの荻村、星野、若い木村の布陣、中国は前回ドルトムントチャンピオンになった容国団、徐寅生、若い荘則棟である。
 松崎は、試合前の練習で十分に汗を流し、体を柔らかくしていたはずなのに、いざ試合直前となると体が硬くなっているのがわかった。
「ボールの音が全く聞こえないのです。試合をしている者はすり鉢の底にいるのと同じで、周りから真上から大音響が襲いかかってくるようでした。ウォーッと吠えるような、ジェット機のエンジン音のような1万5000人の拍手と歓声とどよめきが、試合開始直後から絶え間なく続いたのです。男子のトップ、星野さんも荘則棟の速攻に苦戦しているのが分かりました。この体育館内を静かにさせるには、私たち日本選手がポイントを取り続けることしかないのですが、私は全く点が取れない。血の気が引いているのが、自分でもわかりました。いきなり、0-9にされてしまいました。最悪の出足に、申し訳なくてベンチを見ると、岡田さんや伊藤さん、関さんの3人が険しい顔で私を励まそうと何か叫んでいるのですが、もちろん私には聞こえるはずがありません(冷静になるんだ、考えるんだ。相手のペースにはまっているではないか。ボールをバックに集め過ぎている。孫さんはバックがうまいのだ。もっとフォアを攻めなければ...。2ゲーム以後のためにも早く調子を出すんだ)。だんだん落ち着いてきて、じわじわ挽回(ばんかい)したもののすでに出足で点を取られ過ぎていました」と、松崎は思い出す。
 20-22で1ゲーム目を落としたが、2ゲーム目からはのびのびと動き回り打ちまくるという松崎本来の卓球ができた。フォアを攻めるボールが生きて、上体を起こしたり泳がせたりできれば、相手の得意なバック側に打つボールも抜けるのだった。
 松崎は、勢いをつけて次の伊藤につなごうとどんどん攻めてポイントを重ねた。21-12、21-12と連取して、貴重な先取点を挙げた。
 2番目の伊藤対邱鐘恵。伊藤は国内では松崎より早く日本のトップに立ち、オーソドックスなラバーからの前陣オールラウンドプレーヤーとしてトップレベルを維持していた。ナックルショートが効いて、ほとんどの選手が打ちあぐんでいた。ところが、邱はショート対ショートになってもピタッと角度が合って、嫌がる様子が全くない。機を見てフォアハンドで左右に打ち込んでくる。「邱は明らかにドルトムントのときより強くなっている」と、松崎は思った。伊藤は粘り強く戦ったが、1対2で敗れた。松崎・伊藤組のダブルスも孫・邱組に振り回された。
「男子の方で、審判の判定の不公平さに日本が抗議し、ゲームが中断しました。確か、日本側は第三国の審判員を要求したと思います。観衆はまるで中国が優勝したような騒ぎでした。こんな状況の中で、ダブルスもズルズルとミスを重ねて敗れてしまいました。4番は私で、邱さんと対戦しなくてはなりません。これがもし負ければ日本の負けです。試合は女子の方も中断しました。観衆は男女とも中国の優勝を信じて途中の幕間を楽しんでいるように、威勢のいいざわめきがかぶさってきました。
 私は低いベンチにうずくまり、目を固くつむり、体全体にのしかかる重圧に押しつぶされないように拳(こぶし)を握りしめてふんばりました」
 邱鐘恵とは、前回のドルトムントのシングルス準決勝で対戦し3-0で勝っていた。それだけ見れば松崎の方が有利に思えたが、2年経った今、彼女はたくましく強くなっている。そして地の利があり、大観衆の大きな味方がついている。
「邱さんは、バックを徹底的に攻めてくるに違いない。それに対して台から下がらないでショートで処理することが大切だ。あとは勇気をもって、相手より積極的に攻めることだ!出足の失敗は繰り返さないこと。その場に応じて攻めるコースを冷静に判断すること。相手以上の頑張りの精神をぶつけること。自信をもって思い切って戦え!―と言い聞かせました。岡田さんが心配そうに私を覗(のぞ)き込んで、"マツさん、気楽にやれば大丈夫よ"と緊張をときほぐそうとしてくれました」
 会心の試合
 日本の抗議は入れられず、40分後男女とも試合が再開されることになった。
「私はコートに向かうとき、思いがけない言葉を発しました。"まかせておいてください。絶対勝ってきますから"ときっぱり言ったのです。今までそういうことは言ったことがありません。ベンチの重苦しい空気をやわらげて、チームメートを少しでも安心させようという思いと、自分の言った言葉には責任を持つんだぞ、という自分への最大の励ましでもありました」
 邱との対戦は、日本が王手をかけられて負けられない一戦であったが、松崎は会心の試合ができた。
「私は気力が充実していました。1本1本の振りが鋭く、足もよく動いていると思いました。ショート対ショートになると、バックハンドを使ってミドルやバックへ攻め込みました。ショートで振られたら、動いて打ち抜きました。レシーブや3球目が単調にならないようにスピードの強弱、回転の変化に気を配り、相手の速さに撹乱(かくらん)されないよう注意しました。
 1ゲーム目の前~中盤に競りましたが、18本で取りました。2ゲーム目に入ると勢いに乗ることができ、凡ミスがほとんどなくなりました。強打されてもバックショートで止めることができました。バックハンドもよく入り、スマッシュに結びつけることができました。中国選手に日本選手くみやすしという感触や自信は極力与えたくない。このあとの試合を考えても、徹底的に打ち抜いておこうと思いました。21-8で下したときは、本当にうれしかったですね」
 ラストで、伊藤が孫に小気味よく勝って、日本の女子団体優勝が決まった。
「代表選手4人で大いに喜びたいところですが、男子の方が深刻な状況に陥っていました。私たちはベンチの片隅で手をとりあって小声でよかった、よかったというのが精いっぱいで、すぐさま男子の応援に加わりました。
 しかし、日本男子は3対5で敗れてしまった。
「その瞬間から、館内は狂気興奮の大きなうねりとなりました。その大歓声に応えるため、英雄となった中国男子のメンバーや監督たちが、晴れやかにゆっくりフロアを一周していました」
 食事を抜いたまま、個人戦準決勝に
「個人戦に入ると、またまた中国旋風が吹き荒れました。それは、開会式の選手入場で男女32名ずつ64名が勇ましく堂々と行進してきたときに、ある程度予想はできましたが...。若さにおいて、体格において、運動能力や技術、パワーにおいて、団体戦に出場した選手に優るとも劣らない選手たちが、次々と姿を現しました。百花斉放、百家争鳴のスローガンは卓球界でも実践されていて、いろいろなタイプ、戦型の選手が育っていました。最初のうちこそバラエティーに富んだ国々の選手たちが試合をしていましたが、だんだん中国選手の占める割合が増えていきました。観衆が中国と日本の対戦をフロアに見つけると、熱狂的に応援するのは相変わらずでした。日本選手も次々に敗れ、女子の3人、男子もほとんどが中国選手に敗れたと記憶しています。
 私も、16歳の気の強い梁麗珍さんに苦しめられましたが、やっと勝ちました。前の年、左股関節をけがしてフォアハンド主戦の卓球ができなくなったため、前陣から攻めるバックハンドを覚えましたが、この26回大会の中国選手の速攻に対してどうにか間に合ったと実感しました」
 結局、シングルスで準決勝まで残ったのは松崎ただ1人だった。準決勝の相手はカットのコチアン、ドルトムントで苦敗を喫した強敵であった。試合は、最終日の10日目の午前。松崎には準決勝2試合が組まれていた。
「連日連夜の試合で、疲労と睡眠不足で限界にきていました。そのため、ホテルでの朝食を断って、40分多く眠りました。体育館に着いてから、空いた時間に選手用の軽食堂で熱い肉まんかおそばを食べようと思っていたのです。ところが、最終日とあって着いたときには店じまいしていました。
 最初の試合の混合ダブルスは、荻村・松崎組対星野・関組の同士打ちが長引いて、私たちがやっと勝った後も、空腹は感じませんでした。それにしても安易というか無謀というか、今の選手なら誰でもバッグの中にバナナかチョコレートを入れていない人はいないでしょう。全く注意力に欠けていました。運の悪いことにあの体育館の中のどこにも、また外にも近くに店はなかったのです。私は自分の体力がどのくらいもってくれるか...、コチアンのカットが壁のように返ってくるだけに不安でした。
 1ゲーム目はチャンスをつくるためのフォアハンドがいい位置に入ったし、カットミスを誘えるほど打球に力がありました。21-16で1ゲーム目を取りました。よし、幸先がいいぞ!と思いましたが、同時にグーッと空腹感が襲ってきました。2ゲーム目が大事。取るのと取られるのでは大きな違いです。2ゲーム目に入ると、コチアンのミスがぐっと減ってきてなかなかチャンスボールが来ないのです。ラリーが40本、50本と続くことが少なくありませんでした。それでも、19-16とリードして、このまま一気に...、とどんなに強く願ったことでしょう。しかし、19-18となり、20-18、また取られて20-19.何としてもジュースにはしたくないと思いました。慎重に強弱をつけて粘る、チャンスだ!と渾身(こんしん)の力を込めてミドルへスマッシュ!決まったかと思った途端、ネットインでポロッと入ってきて20-20と追いつかれてしまいました。続けて次もネットイン。次は私のスマッシュミスで、あっけなく2ゲーム目を落としてしまいました。もったいない!どうしたことか!続く3ゲーム目も同じような経過から逆転されてしまいました。カウントは18-17から20-18としていながら、20-19でエッジ、20-21でネットインで落としてしまったのです。"3-0で勝っているケースではないか!馬鹿だなあ、失敗したなあ"と改めて悔やみました。私の残ったエネルギーからして、勝利のゴールははるか遠くへ行ってしまったように感じました。
 中国の観客が松崎に拍手を送る
 4ゲーム目、勢いに乗ったコチアンにジリジリと離され、1ポイント、1ポイント体力がなくなっていくのがわかりました。3ゲーム目までのような激しい闘争心は薄れていましたが、最後まで頑張ろうと一生懸命ボールを追い、打ちました。
 そんなとき、体育館内の不思議な現象に気づきました。途中、10-15と離されていて、12-15と差を縮めかけたときがありましたが、私の得点に観衆が拍手し、私のミスは、まるで中国選手がミスしたときのような落胆の大きなため息が聞こえました。それは3ゲーム目の終わりの方の私の不運な失点あたりからだったかもしれません。それまではこのようなことは全然なかったのですが、中国の観衆が私を応援してくれているのです。でも、もう私に盛り返す力はなく、16-21、1対3で敗れました。疲れ果てていましたが、私の方からコチアンに駆け寄っていき、しっかり握手しました。観衆の長い拍手が続いていたように思います」
 女子シングルスは、そのコチアンを大接戦で破った邱鐘恵がチャンピオンの座に就いた。男子は荘則棟という若いスターが誕生した。
 中国にとっては、主要な3種目に優勝し、多くの若い選手たちが続々と育っているということからも、大成功の大会だっただろう。
 一方、日本は女子団体、男子ダブルス(星野・木村組)、混合ダブルス(荻村・松崎組)の3種目優勝に終わった。
 周恩来総理が松崎に「アナタイチバン」
 大会が終わって北京を発(た)つ前の夜、周恩来総理がわざわざ日本選手団のために送別会を催した。
「大会の前夜祭で初めて世界的な政治家と握手し記念撮影しただけで興奮したのに、一緒に食事とは凄(すご)いことだと、みんなで喜び緊張もしました。
 宴会場の入り口に周総理が立っていて、日本語でコンバンワと一人ひとりと握手しました。私の手を握りながら『アナタイチバン』と言われました。
 私は首を横に振って否定しながら、意味がよくわかりませんでした。邱さんが私の座る席へ連れていってくれました。彼女の隣に私の名前があり、座りながら右隣はだれだろう...、と思って見ると、周恩来総理と書かれた紙がありドキッとしました。選手団と日本からの報道関係者全員をていねいに迎え入れてから、周総理は私の隣に座りました。
 周総理は食事の終わりの方でスピーチされ、日本選手団の労と、また日中友好のために貢献されたとねぎらわれました。そして、『特に松崎さんのシングルス準決勝は、私は地方に出張し、テレビで観たのですが、中国人民に深い印象を植え付けました。あなたは負けたが一番です。勝っているときも負けているときも、微笑みを絶やさない。勝ってもおごらず負けてもくじけない。この風格を中国のスポーツマンは学ばなければいけない』とおっしゃいました」
 自身の管理に失敗した試合だったが、周総理の賛辞に松崎はこの26回大会に参加でき試合したことを心からよかったと思っている。また総理は、松崎の父親のために中国の名酒中の名酒を土産に持たせてくれた。スポーツ(試合)は言葉のいらない"肉体と心の極限での表現"である。松崎の試合ぶりは、中国の広範な人々を感動させたのである。その後、周総理は中国のあらゆる競技のスポーツマンに松崎のことを語って励ましたという。さらに、日中友好の使者として松崎自身が考えられないほどの高い評価、待遇を受けることになるのである。

(2000年10月号掲載)

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