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「世界一への道」江口冨士枝 ―超人と呼ばれた選手―5

 フットワーク
 長谷川喜代太郎は、合宿会場の一角に違和感を感じていた。長谷川が日本選手団の団長として合宿に参加して3日目。ある選手の行動が日ごとに長谷川を不安にさせていった。
「はあ、はあ」
 朝から晩まで、1日中フットワーク練習ばかりしているのは江口冨士枝。合宿初日から3日たつが、その間ずっとフットワーク練習だけをしているようだ。
「はっ、はっ」
 なぜ彼女はそれほどフットワークにこだわるのだろう。
「はっ、はっ、はっ、はっ」
 しかも、その練習は日増しに厳しさを増している。コース、速さ、すべてが徐々に厳しくなっている。驚いたことに彼女は休憩時間にまでフットワーク練習をしている。こんな練習では、体への負担は限界に近いだろう。
「江口、もうやめろ!」
 長谷川は冨士枝を呼びつけた。
「お前はもう練習するな。それ以上やれば必ず崩れる」
「いいえ、やらせてください。私は自分の限界に挑戦したいんです。自分の卓球に、自分で責任を持ちたいんです」
 1959(昭和34)年、26歳の冨士枝は最後の世界戦に臨もうとしていた。
 ―これが最後。
 そう決意した冨士枝は、かたくななまでに自分の卓球を追究していた。得意のフォアハンド攻撃を生かすため、冨士枝はフットワークを極限にまで高めようとしていたのだ。
 バトンタッチ
 地獄のようなフットワークを決意するような心境に至るまで、葛藤(かっとう)がなかったわけではなかった。1957(昭和32)年に24歳で世界チャンピオンになった冨士枝は、その後の目標を見いだせずにいた。自分自身についての漠然とした疑問があり、自分の現在というもの、自分の将来というもの、それらをどう考えたらいいのかが見えなくなっていた。
 そんなとき、冨士枝に喝を入れた人物がいた。卓球用品メーカー・タマス創業者の田舛彦介だった。ちょっと来なさいと、阿佐ヶ谷の家に呼ばれ、冨士枝は田舛と向かい合った。1958(昭和33)年の初冬、全日本選手権大会前の寒いときだった。火鉢にあたりながら、田舛は冨士枝にこんこんと論した。
「今のあなたはダメだ。心の中に迷いがある。もう全日本選手権大会は目の前に迫っている。あなたは確かに強いけれど、今のあなただったら1回戦で負けますよ。もっと自分に自信を持って、卓球に集中しなさい」
 他人からこんなふうに説教されるのは、冨士枝にとって後にも先にも初めての経験だった。冨士枝は静かに聞いていたが、心の中の不安は簡単には消えなかった。
 ―それは自分でもわかっている。でも、わかっていてもどうにもできない。
 だが、冨士枝は闘志を振りしぼった。自分のためにこんなに親身に言ってくれるこの人。この人の思いを無駄にしてはいけない。迷いを捨てて、全力でぶつかろう。
 1カ月後、冨士枝は全日本選手権大会の決勝の舞台にいた。相手は松崎キミ代、急成長中の新人だった。松崎の卓球は速かった。その速い攻撃のペースに引きずられるような形で、冨士枝は敗れた。
 ―完敗だ。
 悔しさが込み上げる半面、冨士枝は安堵(あんど)に似た思いも感じていた。
 ―松崎さんになら、バトンタッチできる。
 後継者を見つけた、自分のすべてを彼女に残していこう。冨士枝はそんな思いを抱いたのである。やり残したこと、後継者へのバトンタッチ、それこそが冨士枝が自らに課した使命だった。
 最終戦へ
 そして1959年、世界選手権ドルトムント大会へ向けての合宿で、冨士枝は全日程すべての時間を通してのフットワーク練習を敢行した。最後の戦いに悔いを残したくはない、自分の限界までがんばろうと思い、技術面の課題については考えに考えた。弱点を強化することも考えた。しかしその結果、やはり最後に頼れる自分の武器を研ぎ澄ますことにしたのだ。
 ―私の持ってる一番の武器は何?足を生かしたフォアのロングだ。これを誰にも負けないように仕上げよう!
 こうして冨士枝は自ら地獄のようなフットワーク練習を選んだのである。冨士枝は後に言う。
「私がなんでそれをしたかというと、日本代表としての責任や、自分の弱さを克服するためだったんです。
 日本代表には4人しか選ばれない。だから、選ばれたからにはみんなと同じような練習をしていたら申し訳ないと思ったんです。私よりももっと努力しているのに日本代表に選ばれなかった人もいるかもしれない。だから、その人たちの分までがんばらなきゃダメだと思ったんです。
 それから、私は精神力が弱いと思っていたので、それを鍛えるために、自分自身を限界まで追い込む必要があったんです。もちろん『体力の限界を知る』っていうことも目的の一つだったんですけど」
 また、冨士枝は自分のノウハウをすべて伝えるべく、松崎とすべて行動をともにすることを心がけた。そして、松崎もそれに熱心にこたえた。トレーニングメニューにあるランニングだけでは足りず、冨士枝が自主的に始めた早朝ランニング。そのとき冨士枝とともにランニングをしたのは、日本代表選手の中で松崎キミ代ただ1人だった。
 こうして冨士枝は120パーセントの準備を整え、ドルトムント大会へ挑んだ。
 アクシデント
 だが、ドルトムント入りして早々、日本女子選手団は手痛いアクシデントに見舞われた。期待の松崎が高熱で倒れたのである。
 団体戦を翌々日に控えた夜、眠っていた冨士枝の部屋の電話が鳴った。深夜0時を回っていた。
「はい、もしもし?」
「江口さん、少し体調が悪いんです」
 受話器の向こうは、松崎の弱々しい声だった。慌てて冨士枝が駆けつけると、松崎はひどい熱を出していた。熱のせいだろう、息遣いが荒い。
 冨士枝は目の前がすっと暗くなる気がした。これが最後という思いでがんばってきたが、この土壇場で松崎が高熱に倒れてしまった。すぐに医者を呼び、注射をしてもらったのだが熱はいっこうに引かない。松崎のためにタオルをしぼりながら、冨士枝の頭は団体戦をどうするかということでいっぱいだった。だが、ここは腹を据えるしかなかった。
 ―世界選手権大会よりも、この人の命の方が大事だ。
 冨士枝は試合のことを忘れて看病に徹した。一晩中うわごとを言う松崎に付き添いながら、冨士枝は「大丈夫よ、大丈夫よ」と励まし続けたのだった。
 団体戦が始まっても、松崎の調子は戻らなかった。序盤のあまり強くない相手ならば、松崎なしでも戦える。だが、日本の新星・松崎キミ代が出場していないことに周囲はどよめいた。
「松崎選手はなぜ出ないのですか」
 他国の選手や新聞記者が質問してくる。
「この次から出るんです」
 松崎が倒れたことが知れれば、ライバルたちは精神的にずいぶん優位に立ってしまう。アクシデントを悟られぬよう、冨士枝はごまかし続けた。そして看病を続けた。
 そのかいあってか松崎は少しずつ回復していった。
 死闘
 さて、団体戦は進行し、日本は最大の難敵とぶつかることになった。予選リーグ最難関で事実上の決勝と目されるハンガリーである。まだ体調は完全ではないものの、この戦いには松崎も参戦した。
 だが、松崎は前半のシングルスを落としてしまった。日本はダブルスも落とし、1-2の窮地に立った。
 シングルス4番、1-2で冨士枝の出番となった。冨士枝が負ければ日本は1-3で負けることになる。優勝候補と目されていた日本の苦戦ぶりに、多くの観衆が注目した。
 冨士枝の相手はハンガリーのキャプテンのコチアンというカットマン。コチアンは先ほどの松崎戦に勝って意気揚々としていた。日本の新星・松崎を倒したという自信で勢いづいたコチアンは、冨士枝との対戦時は絶好調になっていた。後に江口冨士枝は語る。
「『死闘』というものを、私は世界選手権大会5回目にして初めて知りました。もちろんストックホルム大会の女子シングルス決勝もしんどかったんですけど、この団体戦4番のしんどさは段違いでした。私の卓球人生で最も印象に残っている試合です。でも、自分の最高の力を出し切ったというか、本当に選手冥利(みょうり)に尽きるようなプレーができました」
 1ゲーム目、冨士枝はコチアンのカットからの反撃のうまさに驚いた。2年前の世界選手権大会で見たときとはまるで違う。
 ―これは油断もスキもないなあ。松さんが負けたのもわかる。
 1ゲーム目はコチアンに奪われた。しかし、それでもなんとか勝機をつかもうと、冨士枝はボールに様々な変化を与え、コチアンのミスを誘った。それが功を奏し、2ゲーム目になるとコチアンの攻撃にミスが出始めた。
「しめた!攻撃にミスが出た。じゃあ、もっと攻撃を誘おう」
 こうして2ゲーム目は冨士枝が取った。1-1である。だが、3ゲーム目が始まるとコチアンは冨士枝の誘いに乗らなくなった。どんなに誘ってもカットでしか返球してこない。コチアンの一番の武器は、正確無比のカットなのだ。
 こうなると、冨士枝も技巧に頼ることはできなくなった。最大の武器のフォアハンドでしか勝負できなくなったのだ。
 死闘が始まった。
 冨士枝とコチアンは、お互いに自分の最高の武器を出し合っていた。カット対フォアハンド攻撃。飾り気がなくなり、淡々としたラリーが続く。しかし、その1球1球は意気が詰まるほどのエネルギーを帯びていた。
 渾身(こんしん)の力で冨士枝が球を打つ。「決まった!」と誰もが思う。しかし、コチアンのカットは返ってくる。また渾身の力で冨士枝が球を打つ。「決まった!」と誰もが思う。しかし、コチアンのカットは返ってくる。
 それはまさにシーソーゲームだった。1本取ったら1本取られ、カウントが2本と離れない。1ポイントを取るのに60回ものラリーの応酬が行われる。しかも冨士枝はそのラリーをオールフォアハンドで行っているのだ。
 ―超人。
 冨士枝のフットワークを目の当たりにして、誰もがその言葉を頭に浮かべた。そのあまりの凄絶(せいぜつ)なラリーに、時の国際卓球連盟会長モンタギューは会場中の全試合をいったん中止させた。これほどの試合を観戦しない者が会場内に1人でもいてはもったいないという計らいだった。巨大な競技場の中には、冨士枝とコチアンのラリーの音だけが響いていた。
「息をしてもボールが飛ぶんじゃないか」
 ピンと張り詰めた会場の空気に、このときは選手団の一員となっていた星野展弥は呼吸することすらためらわれたという。
 結果は僅差(きんさ)で冨士枝の勝利だった。
「ミス・エグチ、いい試合を見せてくれてありがとう」
 へとへとになってベンチに戻った冨士枝に握手を求めたのは、国際卓球連盟のモンタギュー会長その人であった。
 事実上の決勝戦とも言える予選のハンガリー戦、冨士枝の活躍で2-2と首をつないだ日本チームはラストの勝負で松崎が勝利し、決勝リーグへと駒(こま)を進めた。そして、日本女子は団体戦で優勝を手にしたのである。
 そして、続く女子シングルスでも冨士枝は決勝まで勝ち残った。決勝戦は日本人同士の対決、松崎キミ代対江口冨士枝だった。
 13-21、7-21、と冨士枝は2ゲームを連取された。だが、焦りはなかった。
 21-18。3ゲーム目は冨士枝が取った。しかし、冨士枝はそこまでだった。続く4ゲーム目、松崎の若いパワーが冨士枝を圧倒した。
 18-21。
 冨士枝は破れた。世界チャンピオンの座は江口冨士枝から松崎キミ代へと渡った。こうして、一つの時代が終わったのである。
 1959年世界選手権ドルトムント大会。男子団体(荻村伊智朗・村上輝夫・星野展弥・成田静司)、女子団体(江口冨士枝・難波多慧子・松崎キミ代・山泉和子)、女子シングルス(松崎)、男子ダブルス(荻村・村上)、女子ダブルス(難波・山泉)、混合ダブルス(荻村・江口)と、日本は7種目中6種目に優勝を飾った。思う存分戦い、日本チームとしての結果も残し、冨士枝にもう未練はなかった。
 ―このドルトムント大会は私の卓球の集大成だ。もう何も悔いはない。
 冨士枝は選手生活から引退した。
 その後
 さて、冨士枝は現役選手は退いたが、卓球から退きはしなかった。現在は主にレディース卓球や障害者卓球の普及・振興に携わっている。1人でも多くの人に卓球を楽しんでほしい。それが冨士枝の願いだ。また、週2回の卓球教室も行っている。
 さらに、現在冨士枝はスウェースリングクラブの会員として、国際的にも活躍している。スウェースリングクラブとは、卓球の元世界チャンピオンなどで構成されている国際的な組織である。
「私たち元選手がどういうふうにしたら卓球界のお役に立っていけるかなということ。それが今の私のテーマなんです。いろいろな人と人とのつながりを掘り起こして、世界中の横のつながりをしっかりして、みなさんのお役に立つといいなと思っているんです。地道な話ですけど、コツコツ築き上げていきたいと思っています」
 選手時代の地道な努力は、こうした活動に形を変えて今でも続いているのだ。
 ―超人と呼ばれた選手、江口冨士枝。
 現役時代は世界チャンピオンとなり、現在も国際的に活躍する冨士枝は、決して天才的なプレーヤーではなかった。
「スランプや逆境も切り抜けてきましたから、それを抜けたときの喜びっていうのはよく知っているんです。それは言葉で言えないくらいの喜びですよね。その喜びを知っているから、また次も努力する。『今はこんなにしんどいけど耐えてがんばろう。明日はきっとこうなるから』って。努力せずにあきらめるなんて私はまっぴらごめん。苦労したって自力で努力していきたい」
 フットワークもフォアハンドも、初めから持っていた武器は一つもなかった。だが、冨士枝には、自ら常に向上を求める前向きさがあった。その姿勢こそが、超人・江口冨士枝の最大の武器だったのである。
(2002年5月号掲載)

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