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「世界一への道」大川とみ ―終わりなき探求者―5

 田坂清子との再戦
 1956(昭和31)年世界選手権東京大会。女子シングルス3回戦で、大川は田坂清子と対戦した。このときの田坂は、女王ロゼアヌを倒して勢いに乗っていた。
 田坂と対戦するのは2度目である。初めて対戦した2年5カ月前、大川は田坂の縦ドライブに対応できずに敗れた。しかし、その後大川は縦ドライブの攻略法を学び、しっかりと身につけていた。苦手な相手をつくってしまったら、スポーツの世界では通用しない。1度負けた相手には、2度と負けてはいけない。大川はそのために戦術を練り、練習を工夫してきたのだ。好調な田坂を前にして首をもたげそうになる不安を、大川は懸命に抑え込んだ。
「今はもう、あのときの私とは違う」
 大川は安定した戦いぶりで、まずは2ゲームを先取した。しかし、そこで気持ちの緩みが生じた。
「このゲームを取れば、私の勝ちだわ」
 第3ゲームが始まった。しかし、勝利を意識したとたんに大川は硬くなり、相手のペースに乗せられてしまった。その結果、第3ゲームを20対22で落とした。
「勝ちを意識しすぎてはいけない。冷静に、冷静に...」
 もう1度気持ちを立て直し、第4ゲームに臨む。勝利への意識や、逆転負けの不安が交互にわき起こりそうになるのを必死に抑え、大川はプレーだけに集中した。冷静さを取り戻した大川は再び安定したプレーで第4ゲームを取り、3-1(21対14、21対10、20対22、21対13)で田坂を下した。こうして、世界選手権大会という大舞台で、見事に2年5カ月前のリベンジを果たしたのだった。
 続く女子シングルス準々決勝で、大川は韓国のウイ・サンスクと対戦。ウイ・サンスクはペンのショート主戦型で、ショートで粘りに粘り、機を見て突然攻撃に転じるというプレースタイルだった。こうした戦型に対し、大川は一計を案じた。
 試合の前半、ウイ・サンスクが粘って大川の攻撃ミスを誘おうとすると、大川はそれ以上に粘りのプレーで対抗。後半になってこらえきれなくなったウイ・サンスクが攻撃に転じようとすると、大川は一瞬早く攻撃し、甘くなったウイ・サンスクの守備を打ち破る。相手の裏をかいた作戦だった。
 こうして大川は3-0(21対16、21対17、21対10)で危なげなく勝利した。
 江口冨士枝との死闘
 大会9日目の4月10日、大川はとうとう女子シングルス準決勝の舞台に上がった。対する相手は江口冨士枝だ。江口とは1954(昭和29)年の全日本選手権大会で対戦し、1ゲームも取れずに敗れていた。
「おそらく、苦しい試合になる...」
 第1ゲームは江口のサービス(当時は5本交替)でスタートした。
「きっとフォア前にサービスが来る。私はそこが苦手だし、江口さんはそれを知っているから」
 案の定、最初のサービスは大川のフォア前に短く出された。コースを読んでいた大川は、そのボールを思い切り払って得点した。それは、大川本人も驚くほどの見事なスマッシュだった。
「今のスマッシュはできすぎだわ。江口さんもそれを見抜いているはず。きっともう1本フォア前に来る」
 予想が当たり、江口は2本目のサービスもフォア前に出した。そのボールを大川は1本目と同様に得点。好調だった。
 3本目のサービスは、またもやフォア前だった。大川はこれも同様に得点。普段はフォア前のボールが苦手なのだが、このときはおもしろいように攻撃が決まった。
「次はきっと長いサービスね」
 ところが、大川の読みは外れた。4本目のサービスは、またもやフォア前に短く出されたのだ。長いサービスを警戒していた大川は、一瞬反応が遅れた。とっさに、思い切り床をけって前に飛び込んで対応したものの、ボールはオーバーミス。
 続く5本目のサービスもまたもやフォア前だった。今度は払って得点することができた。しかし、大川は江口の大胆さに身が引き締まる思いだった。
「江口さんは、私の弱点を徹底して狙っている。覚悟してかからなくては」
 試合は、猛烈な打撃戦となった。互いに一進一退の攻防が続く。一瞬も気が抜けない死闘となった。そして、その激戦を制し、3-2(21対17、16対21、21対15、17対21、21対13)で大川が勝利。決勝進出への道を開いた。
 アクシデント
 ―ズキン、ズキン。
 4月11日の朝、目覚めた大川が最初に感じたのは、焼けるような左足首の痛みだった。
「痛い...。おかしいな。昨日までは何ともなかったのに」
 そこで大川はふと、先日演じた江口との息詰まる攻防を思い起こした。
「もしかして、あのとき...」
 立ち上がりの江口のサービスは、5本連続で大川の苦手なフォア前に出された。その4本目、大川は長いサービスが来ると読んでいたため反応が遅れ、とっさに思い切り前へ飛び込んで対応したのだった。
 確かに踏み込んだ瞬間、左足首に違和感を覚えた記憶はある。しかし、特段痛みはなかった。そのため、昨日は気にしてはいなかったのだ。
 大川は恐る恐る起き上がった。痛みはあるが、どうやら立つことはできる。歩くこともできるようだ。
「今日は決勝だというのに...」
 どうすればいいだろう。もちろん、すぐに医者に診せるべきだ。しかし、これから医者に行ったのでは、試合に間に合わないことは明らかだ。
「やるしかない」
 大川は覚悟を決めた。
 足をかばいつつ会場へと向かう。痛みのせいで階段を降りることができず、人気がないのを見計らい、手すりにもたれて滑り降りた。周囲に心配をかけたくはなかったし、対戦相手にけがを見破られることも避けたかった。
「いつも通りに振る舞おう」
 大川は、平然とした表情を崩すまいと気を引き締めた。
 しかし、その痛みはとても激しかった。このとき、大川の左足首の骨には、ひびが入っていたのだった。
 仲間たちの応援を受けて
 試合が行われるフロアに入ると、大川は客席を見上げた。3階席には、会計検査院の職員たちがずらりと陣取っていた。手を振っているのが見える。大川はほほ笑んだ。
 大会が始まる前、大川は会計検査院の職員たちからずしりと重い封筒を手渡されていた。それは、世界選手権大会に出場する大川のために、職員たちが集めた寄付金だった。
「大川は世界選手権大会に出るわけだし、何かの役に立ててもらおうと思って」
「えっ」
  職場の仲間たちの好意に、大川はとても感激した。しかし、みんなの大事なお金を受け取るわけにはいかなかった。
「でも、受け取ることはできません。お気持ちだけで十分です」
「そうか...」
 一同はがっかりしたようだった。しかし、1人がすぐに名案を思いついた。
「それなら、このお金で入場券を買って、みんなで大川を応援に行こう!」
 大会が始まると、会計検査院の職員たちは本当に連日応援に駆けつけてくれた。有給休暇を使って仕事を休み、大川を応援するために東京体育館へやって来るのだ。大川は涙が出るほどうれしかった。
 決勝
 女子シングルス決勝は、日本選手同士の対戦となった。渡辺妃生子対大川とみ。渡辺は日本式ペンホルダーの代表格であり、大川はシェークハンドのオールラウンド型という異端ともいえるプレーヤーだった。
 大川にとって、渡辺との対戦は2度目だった。1度目の対戦はわずか4カ月前、1955(昭和30)年の全日本選手権大会女子シングルス準決勝でのことだった。このときは大熱戦の末、3-2で渡辺が逃げ切ったのだった。
「この次は絶対に負けない」
 そう誓った決意が試されるときが来た。世界選手権東京大会女子シングルス決勝、第1ゲームが始まった。
 渡辺は序盤から勢い良く攻撃を仕掛けてきた。大川は落ち着いてカットで返球し、相手のミスを誘う。やがて、渡辺の動きが完全にカット打ちのリズムになっているのを見計らうと、大川は作戦を転じた。いきなり攻撃を主体にプレーし、16対14から一気に得点。第1ゲームを21対15で取った。
 第2ゲーム、大川は好調に攻撃を続け、9対3と引き離した。しかし、ここになって、左足首の痛みは激しさを増してきた。
「痛い...」
 痛みに気を取られていると一気に逆転され、大川は13対21で第2ゲームを奪われた。
 第3ゲームになると、大川の足は限界が近くなっていた。はた目にもはっきりとわかるほど、その動きは鈍っていた。
「いつも通りに、いつも通りに」
 大川は必死に自分に言い聞かせた。しかし、足のけがは大川の意識を裏切った。ボールを拾いに行くときなど、足を引きずりながらでなければ歩くことができない。自分ではしっかり歩いているつもりだったのだが、大川の異変はもはや誰の目にも明らかだった。
 しかし、幸いなことに、渡辺も今ひとつ調子が上がらず、攻撃ミスを連発、第3ゲームは23対21で大川が辛くも手にした。だが、このままの状態で試合を続けたのでは、足がまったく動かなくなるのも時間の問題だった。
 国境を超えた友情
 第3ゲームを終えた大川は、足を引きずりながらベンチに戻った。すると、1人の選手がコートサイドから大川の方に歩み寄ってきた。ルーマニアのツェラーだった。
 ツェラーは、あの女王ロゼアヌとともにルーマニアで活躍する名選手だった。1955年世界選手権ユトレヒト大会、そして今回の世界選手権東京大会と、ルーマニアの女子団体2連覇に貢献。ロゼアヌと組んだ女子ダブルスでも同じく2連覇に輝いていた。ただし、女子シングルスでは渡辺に敗れ、準決勝で姿を消していた。
 ツェラーは大川を床に座らせると、左足のシューズを脱がせた。そして、サポーターを取り出すと、大川の左足首にはめたのである。
「ツェラー...。ありがとう」
 礼を言う大川の肩を、ツェラーは激励の意味を込めてぽんぽんと軽くたたいた。言葉の通じない2人だったが、その心は通い合っていた。客席からは嵐のような拍手が起こった。
 世界チャンピオンに
 第4ゲーム、大川は左足首にサポーターをつけてコートに立った。けがをした部位を固定したことで、痛みは少し軽減した。しかし、動くたびに再び痛みは襲ってくる。大川は試合を焦り、バックハンド強打を仕掛けるもののことごとくミス。わずか9本で4ゲーム目を落とした。
「次はいよいよ最終ゲームだわ。もう、痛みなんて関係ない。この1ゲームにすべてをかけよう」
 大川は最後の力を振り絞った。
 第5ゲーム、大川は思い切って強打を敢行し、得点を重ねた。そんな大川の気迫に対し、渡辺は焦ってミスを連発し、スコアは20対16。
「これが、最後」
 大川は渾身のスマッシュを放つ。そのボールは渡辺のコートに突き刺さり、決勝点となった。
 大川は、けがを負いながらも3-2(21対15、13対21、23対21、9対21、21対16)で渡辺を下し、世界の頂点に立ったのである。
 大川とみ、24歳。日本の女子から初めて、世界チャンピオンが誕生した。
 信頼の手紙
 日本女子初の世界チャンピオン誕生の瞬間に、報道陣は色めき立った。記者やカメラマンにもみくちゃにされながら、当の大川はぼうぜんとするだけだった。本当に勝ったのか、夢ではないのか...。世界チャンピオンになったという実感は全然湧いてこなかった。
 そんな中、報道陣をかけ分けて1人の選手が近づいてきた。ツェラーだった。足の状態を気遣うツェラーに、大川はほほ笑んでうなずいた。ツェラーはうれしそうにほほ笑み返すと、一緒に写真を撮ろうと申し出た。大川はもちろん快諾した。この2人の友情は、今もなお続いている。
 報道陣の波が一段落すると、大川は1人になって1通の手紙を取り出した。それは、準決勝の前に、矢尾板が謎の言葉とともに大川に渡したものだった。
「大会が終わるまで開封してはいけない」
 一体何が書かれているのだろう。大川は不思議に思いながら、その手紙を開封した。手紙には、こう書かれていた。
「優勝おめでとう」
 世界チャンピオンの両目からは、涙があふれた。
 大川を支え続けた師は、弟子の勝利を確信していたのだった。矢尾板は大会開始前から、大川が世界チャンピオンになることを見抜いていたのである。
 矢尾板は、手紙を書いた心境をこう語る。
「僕には、絶対に大川が優勝するという自信がありました。大川にはそれだけの力がありました。僕は、自分の目で見ていて知っていたのです。大川は、強くなった」
 その手紙は、師が弟子に寄せた信頼の証だった。大川は、このときやっと勝利を実感したのだった。
 終わりなき探求
 大川は、日本ではペンホルダーが絶対と思われていた時代に、シェークハンドオールラウンド型という自分だけの戦型を選んだ。そして、心臓が弱く、体力がないというハンディを抱えながらも、それを克服して試合に勝つために、常により合理的なプレーを探求してきたのだ。
「試合の後は、必ず分析をしました。負けた試合では、精神的にこういう状態だった、技術的にはこうだったという分析をします。勝った試合では、なぜ勝てたのか、もっと確実に勝つ方法はないかと考えます。これは、卓球を始めたころからそうでした」
 その探求は、1961(昭和36)年に現役を退くまで続けられた。そして、現役を退いた今もなお、その探求は続けられている。
「現役時代を振り返ると、他の人にはできても自分にはできないという技術がたくさんありました。そうした現役のときにできなかったことが、引退してからマスターできてしまったり...。卓球はいつまでも楽しめますね」
 探求は、自らのプレーだけに限らない。
 現役を退いた大川はあるとき矢尾板を訪問し、こう言った。
「先生、教え方を教えてください」
 大川は、卓球を教えることで故郷へ恩返しをしたいと考えていたのだ。矢尾板は面食らった。
「教えてくださいといっても、君は世界チャンピオンなんだよ。僕が教える必要はない。君には十分に力があるんだから」
 しかし、大川は引き下がらなかった。
「では、教え方をそばで見せてください」
 こうして大川は、10カ月ほど矢尾板の下に通った。そして、矢尾板の指導法を客観的に見続けたのである。そうして指導法を吸収すると、故郷の水海道市でそれを伝えたのだった。
 現在の大川は、こう語る。
「選手や指導者のみなさん、技術の変遷を勉強し、分析して追求することで、将来が見えてきます。そして、現在のトップ選手はどうなのか、日本の選手に欠けているのは一体何なのかを見極めるようにしてください。以前の卓球は、バックはショートやブロック、ハーフボレーで守るのが主流でした。しかし、現在の立体的でスピーディーな卓球に対応するには、バックハンドの攻撃力を身につけることが急務でしょう。それにプラスして、フォアハンドの破壊力を求めることではないかと思います。
 私は卓球が大好きで、卓球をしているときや、卓球のことを考えているときには、無上の喜びを感じます。それは現役時代もそうでしたし、今も同じです。今の自分にできないことがあれば、どうやったらできるようになるかを考え、いろいろと試していく。技術の進歩はエンドレスですよね」
 日本女子で最初の世界チャンピオン・大川とみは、人並み外れた運動能力を持っていたわけでもなければ、天才的なセンスを持っていたわけでもなかった。むしろ、体力的にも、環境的にも、決して恵まれてはいなかった。
 その大川が、秀でていたといえる点は、ただ1つ。それは、飽くなき探求の姿勢だったのである。
(2004年6月号掲載)
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