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クレアンガの決断

 ヨーロッパユース卓球選手権大会が2021年7月18日から8月2日の日程で開催されている。ところで、32年前のこの大会(当時の大会名はヨーロッパジュニア卓球選手権大会)の期間中に、一人の少年が会場から姿を消した。「卓レポ名勝負セレクション カリニコス・クレアンガ」でも触れたが、当時16歳だったクレアンガがルーマニアからギリシャへと亡命したのである。
 この時の決断がなければ、我々は、のちの世界卓球選手権大会でクレアンガの名勝負を見ることはなかったかもしれない。このクレアンガの決断について、卓球レポート1998年9月号の記事から抜粋する。

ルーマニアからギリシャへ
16歳の夏の決断

 クレアンガは「カリン」から「カリニコス」へ改名した。彼が亡命したギリシャで「カリン」は女性を意味するからだ。後ろ髪を引かれる思いで祖国に別れを告げ、言葉も生活習慣も違う異国へと飛び出したのは、彼が16歳の時だった。

 1989年7月。ルクセンブルクで行われたヨーロッパジュニア卓球選手権大会でルーマニア代表のクレアンガは男子シングルスの優勝候補筆頭だった。が、周囲の期待をよそに、彼は準々決勝でシュミレフ(当時ソ連)にあっけなく敗退。
 いつもの調子が出ないクレアンガ。しかし、それでもナスターゼ(ルーマニア)と組んだ混合ダブルスでは順調に準決勝まで勝ち上がった。
 会場内には混合ダブルス準決勝の舞台が整った。パートナーのナスターゼは、先にコートに入り、クレアンガが来るのを待っていた。
 しかし、試合開始の時刻が過ぎても、彼はコートに姿を見せない。場内アナウンスで、クレアンガを呼び出すコールが幾度となく繰り返された。1時間ほど関係者がクレアンガを捜し続けたが、結局、誰も彼を見つけ出すことができなかった。
 この時、準決勝のコートに向かうはずのクレアンガは、一人、沈痛な表情を浮かべてアテネ(ギリシャ)行きの飛行機の中にいた。
 カリン・クレアンガ、祖国ルーマニアからギリシャに亡命。16歳の夏の決断であった。

 当時のことについて、今も彼は多くを語ろうとしない。
「僕がギリシャに来てから今年(1998年)で10年になるけれど、ルーマニアから亡命した理由は100パーセント卓球のためなんだ。もしあのままルーマニアに残っていたら、僕は卓球を続けることができなかった。だから亡命を決意したんだ。
 現在のルーマニアは、当時と違って随分よくなっているけれど、あの時は卓球を続けられないほど危機的な状況だったんだ」
 ここでクレアンガに代わって、当時のルーマニア国内の情勢について補足しておこう。
 1970年代後半、ルーマニアはオイルショックで多くの対外債務を負い、その返済のため、チャウシェスク政権の下に独裁的で強引な輸出型経済が推し進められた。そして、輸出中心の経済政策が深刻な物不足を生み出し、国民の生活は困窮していった。
 1980年代に入り、チャウシェスクは国民の不満を抑えるために秘密警察を置く。ルーマニアの人々は政治に対する不満も言えず、恐怖におびえて暮らす日々が続いた。
 言いたいことが言えず、しかも餓死する人さえいた時代。生きるか? 死ぬか? 卓球か? それとも祖国か? この究極の選択を迫られたクレアンガの結論が、ヨーロッパジュニア卓球選手権大会期間中の亡命だった。

卓球レポート1998年9月号
文=山松謙三
インタビュー=久保真道
写真は卓球レポート1998年9月号表紙のクレアンガ

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