世界チャンピオン、河野満。長い間「優勝候補」とささやかれながらも、世界はおろか、全日本でも優勝を逃し続けてきた河野。そんな苦難の時を乗り越え、30歳にしてついに世界の頂点に立った。
ただ黙々と努力を重ね、己の限界に挑戦し続けた、河野満の足跡を追う。【前回の記事を読む】【第1回から読む】
※この記事は月刊卓球レポート2001年5月号を再編したものです
どん底
社会人になった河野は、結果を出せずに苦しんでいた。世界選手権はもとより、全日本でも優勝できずに、周囲の期待を裏切り続けていた。やがて、寄せられていた期待は非難へと変わる。
「精神面が悪い」
周囲が河野に下した評価だった。
そんな周囲の雑音にもめげず、河野は必死に練習をした。しかし、どんなに努力しても勝つことができない。疲れ果てた河野は、卓球をやめることさえ考えるようになっていた。
しかし、そんなある日、焦る河野の心を鎮め、その後の卓球人生に大きく影響する一つの出合いが訪れる。
座禅との出合いだった。
座禅
「気晴らしに座禅でもやってみないか」
ある先輩に勧められ、河野は座禅堂を訪れた。「座禅なんて」と思いかけて、今の自分には案外ぴったりかもしれないと思い直す。それに、少しおもしろそうだ。
「こらーっ」
河野は初日から怒鳴られた。どこで靴を脱いでよいかわからず、土足のまま座敷に上がってしまったのだ。
「靴のまま上がるなんて、座禅をする資格はありません。すぐに帰りなさい」と、先生はカンカンだ。河野は何度も何度も頭を下げ、やっとのことで許してもらった。
最初の座禅は1時間だった。足がしびれるが、動けば叱られる。足が痛いのはつらかった。しかし、座禅をやめたいとは思わなかった。足の痛みを補って余りあるほど、先生の話に興味を引かれたのだ。
座禅堂に通う河野に、先生はいろいろな話をした。その中でも特に河野の心に深く焼きついたのは、「無」という概念だった。
「勝ちたい、負けたくない、そういう気持ちを捨てなさい。常に『無』の状態でプレーすることが大事なのです」
つまり、「夢中でやれ」ということなのだな。雑念を捨て、プレーに集中しろということなのだろう。
先生は、野球部のコーチもするというスポーツマンだった。その先生の話す「禅」は、河野の心にもすっと入り込んでいた。
無の境地
そんなある日、河野にとって忘れられない出来事が起こる。きっかけは、先生への反抗心だった。
そろそろ1時間たつな、そう考えた河野の肩にピシッと一撃が加えられた。
「今、何か余計なことを考えたでしょう」
「足がしびれて......」
「足は誰でもしびれます。我慢しなさい」
1時間たっても座禅は終了しない。河野が不安になると、またもやピシッと一撃。
「余計なことを考えたでしょう。肩に力が入ったのがわかりましたよ」
何回かこうしたやり取りが交わされるうち、負けん気の強い河野はついに頭にきた。くそ、何度もピシピシ叩きやがって。こうなったらもう、何時間だって座禅してやる!
そのとき、全身の力がすっと抜けた。
「それです! それが『無』です!」
先生の声が聞こえる。そうか、これが無の境地か。頭の中がすっきりと冴え渡っていた。体中が軽くなったような気分だった。
「先生、どうして僕が無の状態だとわかったのですか」
「私から見ても、肩の力が抜けていました」
「力が、ですか......」
「これからは、そういう気持ちで卓球をするといいでしょう」
そうか、そういうことなのか。頭の中だけで理解していたことが、全身で納得できた。
「これからは、どこでも座禅をしなさい。心を落ち着けるために、座禅をどこでやっても、いつやってもいいのです。それが禅なのです」
先生の教えに従って、河野は試合前に座禅をするようになった。一人で静かに精神を統一したあと、作戦を立て、ウオームアップをする。夢中でやること、ただそれだけを考えるように努めた。こうして、河野の中のジレンマは、次第に影をひそめていった。
激励
禅によって河野は一時の心理状態から回復し、勝負に集中できるようになっていった。とはいえ、結果はすぐには表れない。河野は、25歳になっていた。
「そろそろ卓球は終わりにして、今度は仕事の方に思い切り打ち込んでほしい」
会社からはそんな話が出るようになった。事実上の引退勧告である。河野とて、仕事をおろそかにしていたわけではない。だが、会社としては、河野が卓球に注ぐエネルギーのすべてを仕事に向けさせたかったのだろう。
卓球は続けたいが、会社の意向に逆らうのも勇気がいる。困った河野は、田舎の父に相談を持ちかけた。
「......俺、そろそろ卓球をやめた方がいいかな」
だが、父はきっぱりと言い放った。
「いや、お前は卓球をやりなさい。30歳まではやりなさい。金の心配はしなくていいから」
周囲の冷めた反応に慣れていた河野に、父の言葉は涙が出るほどうれしかった。
「お前の卓球が一番いいんだ。前でどんどん打っていく、その戦い方が好きなんだ」
息子の卓球を愛し、信じてくれている父。父の言葉は、河野の卓球人生に対する純粋な激励だった。
絶対にやってやる。
河野は、固く決意した。顔がほてるのをこらえ、きつくこぶしを握る。この父に、なんとか報いたいと思った。
30歳までに世界を取ろう。決意を固めた河野は、思い切り卓球ができる環境を求め、いくつかの会社を転々とする。このときに力になってくれたのは、あの野平さんだった。
独り立ち
河野を専修大学に招き、とことん面倒を見てくれた野平さん。その野平さんは社会人になった今も、河野を強く応援してくれた。より卓球に専念しやすい職場を見つけては、そこに河野を招く。そんなことが何度か続いた。
河野にとって、野平さんの好意はとてもありがたかった。しかし河野は、野平さんの好意に甘えてばかりいる自分に、疑問を感じ始めてもいた。このままでいいのだろうか。自分の道は自分で切り開かなくてはいけないのではないだろうか。
そんなあるとき、河野のもとを訪れた人物がいた。宝石や着物を扱う商社の社長だった。
「ぜひ、うちに来てみないか。思いっ切り卓球をやってもらって構わない。もしも卓球をやめても、宝石鑑定士の資格を取らせるから」
河野の心は動いた。卓球好きの社長は、思いっ切り卓球をやらせてくれるという。鑑定士というのもカッコいいなと思った。
それに、独り立ちのチャンスだ。
野平さんのことは大好きだ。尊敬している。できることなら離れたくはない。しかし、それではいつまでたっても野平さんを超えられない。いつまでも野平さんに頼っていてはダメだ。尊敬する野平さんを超えるために、俺は俺の道を行く必要がある。
こうして河野は野平さんの下を去り、独りで新たなスタートを切ったのである。
開花
もっと自分に厳しくしよう。
長い間世話になってきた野平さんの下を離れ、河野は決意を新たにした。これからは独りでがんばるんだ。父と約束した30歳まで、あと2年しかなかった。全日本を、そして世界を取る!
その決意は実を結ぶ。
昭和50年の全日本選手権大会、河野はこれまでにないほど高い集中力を見せていた。「静の中に動あり」と評されたそのプレーは、終始冷静さを保ちつつ、絶え間ない速攻を繰り出していく。まさに前陣速攻の真骨頂と言えるものだった。
このときの河野は、精神的に非常に安定していた。試合前に座禅を組んで作戦を立てると、勝ちたいという焦りを抑えて一心にプレーに集中。自分でもおもしろいくらいに、思い切ったプレーができていた。
こうして、河野は初めての全日本シングルス優勝を飾ったのである。これまでやってきた全部の成果がここで表れた。そんな心境だった。
河野は、続く翌年の全日本選手権大会でもシングルス優勝を果たした。試合前に足を捻挫(ねんざ)してしまうというアクシデントに見舞われたが、精神力が高まった河野はそれをかえって味方につけてしまった。無駄な動きを徹底的に省いた冷静なプレーぶりで、全試合3-0での完封優勝を果たしたのである。
しかし、2連覇にホッと息をついている場合ではなかった。3カ月後には世界選手権大会が行われる。このとき河野は30歳。次の世界選手権大会が最後のチャンスなのだ。
全日本の表彰台に立ちながらも、河野の目には厳しい光が宿っていた。(次回へ続く)
Profile 河野満 こうのみつる
1946年9月13日生まれ。青森県十和田市出身。ペンホルダー表ソフト前陣速攻型。
1967年から1977年まで日本代表として世界卓球選手権大会に出場。
1975〜1977年全日本卓球選手権大会男子シングルス優勝。
1977年世界卓球選手権バーミンガム大会男子シングルス優勝。




