世界チャンピオン、河野満。長い間「優勝候補」とささやかれながらも、世界はおろか、全日本でも優勝を逃し続けてきた河野。そんな苦難の時を乗り越え、30歳にしてついに世界の頂点に立った。
ただ黙々と努力を重ね、己の限界に挑戦し続けた、河野満の足跡を追う。【前回の記事を読む】【第1回から読む】
※この記事は月刊卓球レポート2001年5月号を再編したものです
バーミンガム大会
1977年世界選手権バーミンガム大会。日本チームの前評判は最悪だった。
「日本はダメだ、全然勝てない」
「メダルなんて到底無理だろう」
これが、おおかたのメディアの見解だった。
世界選手権大会の前に行われた日中交歓大会、日本は中国の前でこてんぱんに敗れていた。選手たちも自信を喪失していた。
しかし、消沈していたチームは、こんな呼びかけによって救われた。
「勝てないかもなんて考えていても仕方ないし、精いっぱい、いい試合をしてこよう!」
河野だった。人間的に大きく成長してきた河野は、いつしか日本チームの柱的存在となっていた。
団体戦1試合目のユーゴ戦、河野の言葉で緊張のほぐれたチームは、5-4の大接戦をものにした。この勝利は大きく、日本チームは決勝まで一気に勝ち進む。決勝戦で中国に敗れはしたものの、前評判を覆して見事に銀メダルを取ったのである。
正念場
団体戦でチームの柱として活躍した河野は、メダルの喜びに浸るのもつかの間、個人戦に向けて気持ちを切り替えた。世界選手権大会に出るのもこれが最後になるだろう。悔いの残らない試合をしてこよう。座禅を組んで作戦を立て、入念なウオームアップをして、試合に臨んだ。
5回戦、6回戦、7回戦と、ヨーロッパの選手をすべて3-0で下し、河野のプレーは快調だった。足もよく動いていたし、サービスも攻撃も好調だった。
「あの日本選手はすごいな」
日本だけでなく、国外のマスコミも河野に注目し始めていた。
そんな中、河野本人は淡々としていた。次の準々決勝の相手は、スウェーデンのベンクソンである。ベンクソンといえば、前々回の73年世界選手権大会でのスウェーデン団体優勝の立役者であり、71年の男子シングルス世界チャンピオンでもある。まさに強敵だ。
ここが正念場だ。
1ゲーム目はジュースにまでもつれこんだが、ベンクソンに取られてしまう。しかし、手ごたえは悪くない。河野は冷静に試合を運び、2ゲーム目を取ることができた。一進一退の激しい攻防が交わされ、4ゲームを終えてカウントは2-2。しかし、不思議と焦りや不安はなかった。そうして迎えた最終ゲームは、21対19のギリギリで河野の勝利だった。
ベンクソンに勝利した河野は、力をすべて使い果たしたような気分だった。半ば無我夢中といった状態で、準決勝は中国の梁戈亮と対戦。団体戦の決勝で敗れた相手だったが、恐れはなかった。大きく深呼吸して試合に臨むと、3-0で勝利。当時も絶大な強国であった中国の中心選手を破り、河野への注目度はますます高まっていった。
栄光
ここで勝てば世界一。ずっと追い続けてきた目標が、目の前まで迫っていた。決勝の相手は中国のエース郭躍華。河野は最後の力を振り絞って試合に臨んだ。
だが、郭躍華は強かった。背筋を冷たいものが走る。ここまで来て、俺は世界を取れずに終わるのだろうか。
ふっと浮かんだ悪いイメージは、河野のプレーを委縮させた。思うように攻撃を仕掛けていくことができない。得意のバックハンドを振ることさえ忘れてしまっていた。
その結果、河野は1ゲーム目を17対21で落とす。ベンチに戻った河野を待っていたのは、荻村伊智朗監督の厳しい声だった。
「河野、バックハンドだ! ショートじゃない、バックハンドを振れ!」
河野はドキッとした。そうだ、荻村監督の言う通りだ。何を弱気になっているんだ。もう俺は恐れない。最高のプレーをしてこよう。
気持ちの乱れを振り払った河野のプレーは最高だった。
続くゲームは完全に河野のペース。バックハンドもフォアハンドも、まったく自由自在だった。会場いっぱいの観客が息を詰めて河野のプレーに見入っていた。
もはや河野に不可能はなかった。自然に体が動く。ラリーをしている今でさえ、自分がどんどん強くなっていくのがわかった。30年間生きてきて、初めて自分の卓球が完成した。そんな感触だった。河野の心には、焦りも恐れも、勝利への執着すらもなかった。夢中。ただ夢中で球を追っていた。
その結果、3ゲームを連取。
優勝だ。
喜びがわき上がるのと同時に、体中の力が抜けていくような気がした。
とうとう目標を果たした。
大歓声に包まれながら、勝利の喜びと目標を遂げた達成感とで、頭の中が真っ白になっていくような気がしていた。
凱旋
「卓球の河野満、世界選手権優勝」
ニュースが日本中を走った。多くの人が驚き、喜ぶ中で、やはり一番喜んでいたのは河野の青森の実家だった。
河野の兄、勝は友達と数人で居酒屋にいた。
「満は勝てるかなあ」
「でも、決勝はあの郭躍華らしいね」
「難しいかなあ」
そのとき、家から電話が入った。
「大変!新聞社から連絡が入って、優勝したって!」
その後、実家は嵐のようだった。いろいろな人がお祝いを言いに駆けつけ、マスコミも次々と取材にやってくる。忙しさにもみくちゃにされながら、家族は誇らしさでいっぱいだった。
「満、本当によくがんばった」
新聞はこぞって河野の優勝を書き立て、河野が日本に戻ってくると、凱旋パレードが行われた。
人々の称賛を浴びながら、河野はいろいろな人の顔を思い浮かべていた。幼いころ一緒に卓球をした父や兄、初めての先生だった相川先生、共に励んだ同級生や厳しかった先輩たち、いつでも河野を応援してくれた野平さん、ライバルの伊藤繁雄、チームの仲間や対戦した強敵たち......。勝利の実感とともに、感謝の気持ちでいっぱいになった。
やっと、世界を取った。
これでいろいろな人の恩に報いられたかな。そう思った。
これでやめられる......
世界選手権大会を終え、河野はこの年の全日本選手権大会に出場。見事に優勝を果たし、3年連続優勝という栄冠に輝いた。
しかし、この全日本を最後に、河野は卓球を引退することにした。父と相談して決めていた、30歳まで卓球をするという期間が過ぎたのである。
やっとこれで、卓球をやめられる。
引退に際して、河野の心に浮かんだのはそんな思いだった。
卓球をやめようと思ったことは何度もあった。しかし、目標を果たさないまま終えることはできなかった。だが、全日本を取り、世界を取り、もはや思い残すことはない。自分は本当に幸せだな。河野はそう思った。
再び世界一への道へ
いったんは卓球から離れた河野だったが、もう一度卓球の世界に戻ってくることになる。選手としてではなく、今度は指導者としてだ。
母校の青森商高から「卓球部の面倒を見てほしい」と頼まれたとき、正直言って河野は困った。自分はもう卓球をやめると決めたのだ。
迷った末、河野は引き受けた。
やっぱり俺には、卓球しかないんじゃないかな。
結局、河野は卓球が大好きだったのだ。青森商高の監督を務めた河野は、チームをインターハイ優勝に導いた。そして、現在は青森大の監督を務め、三田村宗明など優秀な選手を指導している。
監督としての河野は、「選手主体」ということを何よりも大事にしている。やらされる練習に意味はない。選手が自分で目標を立て、強くなろうと努力し、指導者はその手助けをする。また指導者は、選手がやる気を持ち続けられるように気を配る。勝利の味もどん底の闇もともに肌で知っている河野の思考は、非常に柔軟だ。
河野は指導者の立場に身を置きながら、教え子の選手たちが世界を取れるようにと考えている。もう一度、世界一を狙っているのだ。
決意を固め......
そんな河野が、胸に大切に刻んできた言葉が二つある。どちらも荘則棟の言葉だ。
荘則棟は1961年、1963年、1965年の世界チャンピオンで、「史上最強」とも言われる中国の名選手。河野が尊敬し、憧れてやまない選手でもあった。
「決意を固め、犠牲を恐れず、万難を排して、勝利を勝ち取る」
これが、一つ目の言葉である。河野の卓球人生は、まさにこの言葉のようだった。
そして、もう一つの言葉。
「人無なれば我は有し、
人有すれば我は優れ、
人優るれば我は精し、
人精すれば我は創す」
簡単に訳すと、次のような意味になる。
「人が持っていないものがあれば、自分は身につける。人が同じものを身につけたら、自分はそれをもっと高める。人が同じように高めたら、自分はもっと磨きをかける。人が同じように磨きをかけたら、自分は新たなものをつくり出す――こうすれば決して負けることはないんだ」
これらの言葉を胸に刻み、河野は長く険しい道のりを必死になって歩んできた。挫折を味わい続けながら、何度でも底からはい上がってきた。目標を実現するために。
新たな世代が巣立てば、歴史は次第に風化していく。しかし、彼の生きざまは、その名を生き生きと留め続けるだろう。
究極の前陣速攻選手、河野満。(完)

Profile 河野満 こうのみつる
1946年9月13日生まれ。青森県十和田市出身。ペンホルダー表ソフト前陣速攻型。
1967年から1977年まで日本代表として世界卓球選手権大会に出場。
1975〜1977年全日本卓球選手権大会男子シングルス優勝。
1977年世界卓球選手権バーミンガム大会男子シングルス優勝。




